自由詩時評 第34回 森川雅美

行く年

今年もあとわずかだ。

なんとも大変な一年だったが、いまの現象に惑わされず、ゆっくり書いていくことが大切だ。メディアは、今の時代のためのものを性急に求めるが、表現はゆっくりとした歩みだから、現在を的確に表現するには、まだ時間がかかるだろう。皮肉なことに、震災と原発事故という、不幸をほぼ全国民が、意識の中で共有してまったことが、一部の詩に商業的価値を与えてしまった。もちろん、その中にもすぐれた詩はあるだろし、ろくでもない詩もある。当然、商業的な価値の少ない詩集にも、もっと優れたものはある。ろくでもないものは時が洗い流してくれるだろうが、優れたものが必ずしも残るとは限らない。残念だが仕方ない。ただ、書くことは、いつ起こるかもしれないことを、受け入れる準備をすることだ。現在を冷静に正確に摑むこと。あるいは、時代の先端で危機に身を曝すことと、いっても良いのかもしれない。

今年一年、そんなことばかりを考えていた。

たぶん気づいている人は気づいていると思うが、私はこの時評でなるべく詩集を取り扱わず、イベントを中心に書いてきた。というのも、このような不安定な情況では、時間をかけてまとめた書籍より、即現在的なイベントの方が、明確にいまをむき出しにすると思ったからだ。

そんな中でひとつのイベントに注目した。日本近代文学館で春夏秋冬四回行われた、「言葉を信じる」だ。この企画は、「3・11」の後、もう一度言葉を考えようと、はじまったらしい。毎回、詩人と小説家、回によっては歌人や俳人が参加した。宇宙に声を届かせるような天童大人から、稲葉真弓など(稲葉さんは詩を読んだが)、小説家の言葉を文字通り声にしようするまで、実に多彩な声が聞かれた。さらに、白石かずこ、高橋睦郎、伊藤比呂美などと、現在最良の日本の詩の朗読が聴けるとともに、和合亮一、高野ムツオ、関悦史など、実際に被災した書き手のその場の声が聞けるなど、実に気の届いた企画だった。ただ、この企画で一番重要なのは、全体をひとつの方向にまとめないことだ。そこに企画者の意図がある。「震災後に言葉を持ちうるのか。書く者はどのように現在と対峙すればいいのか」、という、それぞれの書き手のあるがままの姿が現われていた。ここに企画者のすぐれた意図がある。さらにそれが各表現の形の共通と相違をも垣間見せてくれた。

同じようにあるがままを提示した、アンソロジーがある。残念なことに(別に残念でもないが)、それは自由詩ではない。『俳コレ』(邑書林)という俳句のアンソロジーだ。19歳から77歳までの22人の俳人の、作品が100首ずつ掲載されている。編集はウェブマガジン「週刊俳句」が行っている。読んで思うのは、ともかく生きがいいということだ。いくつか引用してみる。

マヨネーズぐにやぐにやと出る朧かな
虫の音や私も入れて私たち
立ちざまに足の触れ合う十三夜
白き糞みどりの糞や涅槃の日
夕とんぼ味方を捨てにゆくところ

年齢の違う目に入った句を引用してみた。あえて作者は記さないが、十七文字というわずかな言葉なのに、実に自由で多彩な風景が広がっている。それぞれの生きている感触が、言葉の波動として伝わる。「マヨネーズ」「虫の音」「夕とんぼ」など、そこにある何でもないものが、輝きを持ち浮かび上がる。しかし、このような風景は、七十年代の自由詩やニューウェーブといわれた短歌で、すでに見ているな、という気がするのも確かだ。もちろん、私は俳句が遅れているとか劣っているとか、いいたいのではない。これは詩型の問題なのだ。言葉が少なくそれだけ制約が多い俳句が、現在の感覚を表現するのには、より時間がかかるだろう。もちろん、表現の形が違えば現れるものも違う。短い言葉でくっきりとした輪郭を描いているだけに、現在の鮮やかさは、自由詩や短歌では経験がない感覚だ。摑んだものが、そのまま提示されているといってもいい。これも形あればこそだ。いわば積み重なった形の時間が、現在に見事にリニュウアルされている。また、現在のような困難な時代だからこそ、何も説明せず事物が置かれる表現が、より力を持つのかもしれない。

では、今年の自由詩は停滞だったのか?

そうはいえないだろう。むしろ、豊穣な年だったといえる。若い詩人を見てみれば、暁方ミセイ『ウィルスちゃん』、橘上『YES(orYES)』、八柳李花『サンクチュアリ』をはじめ、多くの現在と対峙した詩集があった。中堅でも、福間健二『青い家』、藤井貞和『春楡の木』、野村喜和夫『ヌードな日』など、新しい方向を開く詩集が少なくなかった。その間の世代(なんといえばいいのだろう)も、今井義之『時刻の、いのり』、渡辺玄英『壊れたセカイと啼くカナリヤ』など、ひりつく現在の実感を伝えた物が少なくなかった。より上の世代も、吉増剛造、天沢退二郎、北川透など健在だ。年配の(失礼)新しい書き手も、伊藤悠子『ろうそく町』、河邊由紀恵『桃の湯』などいい詩集があった。優れた批評家である、中村鐵太郎『ポンパドゥール』、地方でながく堅実な仕事を残してきた、秋山基夫『薔薇』や田中勲『最も大切な無意味』なども、読み応えのある詩集だった。要するに、実に多彩で優れた詩集が現れた一年だった。ただ、田中の詩集はこの時評で取り上げたし、他の詩集も「現代詩手帖年鑑」はじめ、いろいろ取り上げられているか、これから取り上げられるだろうから、特に詳しくは記さない。今年注目した詩集で、たぶんあまり取り上げられないであろう、詩集を一冊だけ紹介して、この短い文章を終わらせたいと思う。

井谷泰彦『はじめての〈ユタ〉買い』(七月堂)だ。

詩集の根底にあるのは沖縄(琉球)の時間。しかし、沖縄と聞くと思い浮かぶような、神秘性や重さは、ほとんど感じさせない。現在の猛スピードに流されていく時間のなかで、それらもまた意味を失い流されていく。そのようなシニカルの視点がある。

ギジムナー(沖縄の妖怪)もときどき切符を買って首里に行くよ
切符を買って、南へ
仲村食堂のニイニイはポーク玉子をうえに載せた「山原そば」に指を突っ込んで
運んでくる
「カミダーリ(神がかり)急行、お手持ちの乗車券は最後まで捨てないでお持ちください」
亀甲墓なんてもともとは唐のものでここいらは今でも洗骨するさ
電気洗骨機で真っ白にするさ

(「特定の方角」部分 ()内は詩集では注)

描かれているのは時間の奥行きを失った平坦な、目的を第一とする利便的な現在に晒された、沖縄の現状だ。妖怪は切符を買い電車に乗り、仙骨は機械が行う。多くの人が描く沖縄の類型的なイメージを剥ぎ取り、現在の私たちの生きる時間と同じ時間に、ある沖縄の姿が浮かび上がってくる。しかし、なぜこんな沖縄を描きたかったのか。さらに、沖縄に限らず詩集全体がチープさをまとっている。もちろん現在の感覚を描くというとはあるだろう。しかし、詩集の中心は終わりの方に置かれた、父、ミュージシャンの宇野世志恵、詩人奥村真という、三人の死者を悼む詩だ。

ほとがしる醸造立小便
飛んでけ蒸留立小便
(ところ構わず立ち小便する男だった)
あなたの墓石をどうやって濡らすかは
今後の残課題である

(「流氓再見」部分)

いまや生は流される枯葉のようなものかもしれない。しかし、それでも人は死に、死ぬまでは精一杯生きている。安易な癒しの言葉よりも、くっきりと現在の生きている時間が浮かび上がる。これも現在の危機に向かい合っている言葉だ。

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