聲とかたち
優れたイベントにも二つの種類がある。一時に大きな規模で行うものと。何回も連続して積み上げていくものだ。外国の詩人が多数参加するフェスティバルや、何十周年のシンポジウムなどは、前者の典型例だろう。後者は先に紹介した、「台湾現代詩セミナー」や「言葉を信じる」が当たるだろう。やり方は異なるが、イベントを行なったことがあるなら分かるだろうが、実施をするのは大変である。出版社や詩歌団体でも大変だが、そのようなイベントを、個人や任意の団体を創って行っている人たちがいる。書き手は作品がすべていうのは間違えではないが、このような人たちのことを思うと、そう単純にはいえないと思える。もしすべての書き手が作品がすべてと考えていたら、詩歌は貧しくなるだろう。
連続するイベントを五年以上続けて、行っている詩人がいる。天童大人主催の「詩人の聲」だ。昨年の暮れに七百回を越え、ほぼ三日に一度の割合で行ってきたことになる。日本の詩人の聲が衰えているのを感じ、詩人の聲を回復するため、「何時でも誰もが、気軽に詩人の聲を聞ける街、東京」を、目的として始められた。会場は画廊などで、詩人が一時間一人で朗読する。白石かずこ、高橋睦郎、伊藤比呂美などのベテランから、山田亮太やブリングルなどの若手まで、百人を越える詩人が参加している。しかし、一時間一人で朗読をするのは大変だ。音楽や舞踏などの助けもなく、ただ一人で読むのだ。さらに、客がいなくても読む。
実は私もこの企画に参加しているのだが、一時間聲を出し続けることがいかに大変か、実感している。天童は、「聲を創って読もうとせず、ひたすら聲を打ち込め」というが、まさにその通りだ。聲を出す真剣勝負とでもいったらいいのだろう。実際、初めて参加した時は、最後まで聲を出し続けるの厳しく、途中でかすれてしまった。それから何回かは、無意識のうちに聲を創っていて、底の浅い朗読しかできなかったが、何回か参加しているうちに、不思議なことに自然と聲が出るようになる。まさに憑き物が落ちるようで、体から何かが抜けていくのだ。それだけでなく書く詩の言葉にも影響する。私と言葉の距離が少しずつだが、摑めるようになってくる。そして、何よりも面白いのは、自分が聲を出すことによって、聞く耳も鍛えられることだ。
聲が出るのと同時に、聲を聞く耳も変わってくる。いままで聞こえなかった音が聞こえてくるのだ。例えば、昨年末に、伊藤比呂美と高橋睦郎の聲を聞いたが、伊藤の詩には軽快な蹄のような音が、高橋にはすごい勢いで流れる水のような音が、言葉の背後から聞こえてきた。それは詩の読みにも影響する。朗読した、「現代詩手帖」1月号に掲載された、高橋の詩を引用して考えてみる。
もともと この世とかの世は一つづき
隔てていたのは そのことを認めたくない
私たちの意識――その意識の壁が
あの瞬間 忽然 消え失せたのだ
あの時から 私たちは天下晴れてかの世の人
この世というかの世の 瓦礫の野にしゃがみ込み
もう死ぬことも 生き還ることもない(「あの時から」部分)
1時間の朗読を聞いた後、高橋の詩を読むと、背景のすごい勢いの水音を聞かないわけにはいかない。もちろん、朗読の印象が音を聞かせるのではなく、言葉そのものにすでに内在した音が、言葉をより根源的な聲として発することで、呼び覚まされたのだ。この詩にはつながっているようで切れている、切れているようでつながっている、折れ曲がるような切断が内包されている。それが繰り返す波のように押し寄せてくるので、悠久の流れにも似た音が感じられるのだ。
さらに、折れ曲がるような切断は、聲を二重三重にも響かせる、プリズムにもなる。例えば一行目は、「もともと(もともと)この世と(もともと)(この世と)かの世は(もともと)(この世と)(かの世は)一とつづき(もともと)(この世と)(かの世は)(一とつづき)」というように、表記されてない言葉が内在され繰り返される。そのため、言葉の内部は無限の反響として広がり、「この世というかかの世の」境界の失せた聲の場が広がる。それというのも、詩が聲という肉体を失っておらず、さらに「私」の個の聲に縛られていないからだ。もし表記の言葉や、私語りの言葉で書かれたなら、このような言葉の広がりはないだろう。そして、このような聲は震災や原発事故、あるいは世界各地の戦乱で亡くなった者の、聲と重なる。
もちろん自由詩だけでなく、優れた散文でも聲は生きていて、言葉の内部の広がりはある。定型にしても句跨り、字足らず字余り、切れ、などにより言葉の乱反射は表れる。しかし、自由詩ほど顕著に現れるものはない。もちろん、それは近現代自由詩だけでなく、長歌や旋頭歌などや、今は消えてしまった定型のかたちを、反復しずらしていった、近代以前の自由詩にもいえたろう。聲を内在することは、当然様ざまなかたちを内包することでもある。
「十回参加すると大きな変化がある」 あるいは「十回からがスタート」と天童はいうが、はたして何があるのだろうか。聲とかたちはどのように接近し乖離するのか、そのようなことをぼんやり考える。
最後に自由詩人があえて定型で書いた、ささやかながら挑戦に満ちた詩集(歌集)を引用して終わりにしたい。藤井貞和『東歌篇――異なる声 独吟千句』(反抗社出版)だ。
冷戦は―チェルノブイリが終わらせた
天安門を引き金にして
狂―歌、また 狂―句、わが狂―言を
夏終わる日のノートに託し
走らせて、次第に綴り、乱れくる
若からなくに 幼き思念
夢を書きつづけるからね、きっとだよ
先生。まぼろしの卒業制作
受け取ってきださい、わたし。どうしても
書く。さいごまで卒業論文(「823~」部分)
「千句独吟」というのだから、このような連歌形式が一〇〇〇行以上続く。特に目立つのは、句読点やダッシュなどが多用され、言葉がぶつ切れになっていることだ。いわば、藤井の詩の特長ともいえる、ばらばらにされ消えいる寸前の聲そのものが、形になったといえる。定型がそのような聲を明確に立ち上げている。これもまた亡くなった者の聲と重なる。
様ざまな聲やかたちに言葉を沿わせることは、失われた者への真摯な鎮魂といえる。そして、問われるのは生きている私たちだ。