広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 『蛇』
これも『蛇』の「坂」の章にある。昭和33年頃の作と思われる。前回の「場末の木椅子」よりは後ろ、兜子の俳句がますます定型から外れ難解さを増して行く時代である。ただ先にも述べたように、一句に籠められた意味としては言葉を順に追って行きさえすればさほど難解ではない。
この句は8-7-5なのでさして定型から外れた感はない。むしろ上五(8音)で名詞をポンと提示し、句末を連用形で言いさしにしている点、とてもリズミカルに聞こえる。上五で完全に切れるので所謂二物衝撃の句、取合せの句である。その意味で修辞的には伝統俳句から余り隔たってはいない。
意味も或るところまでは明快。
広場に裂けた木がある、それだけの風景。それでも謎は残る。広場はどこにあってどんな広場なのか。この句の周りには「蟹」「昆布」「艀」「港」等の語を使った句があり、この広場のある場所も海辺、港の町ではなかろうかと思われる。公園か単なる空地かは分らない。また木はなぜ裂けたのか、雷でも落ちて裂けたのだろうか、それとも台風か、単なる立ち枯れか、裂けて枯れているのか、裂けつつも生きているのか。いずれにせよ広場の、恐らく真ん中あたりに比較的大きな木が裂けた状態で立っている光景を思い浮かべればよい。
中七以降は塩がぎゅうぎゅうに詰まった容れ物の中を何かで掻き混ぜた時に塩同士がこすれ合って軋む様子を詠んだもの。小さいものでは食卓の上の塩壺、その中の塩を匙で混ぜると思えばよい。ただ筆者の勝手な想像で、もう少し大きな、例えば塩漬けにするための漬物の原料とその隅間を埋める塩が樽の中に詰っている様子を思い浮かべてしまった。もちろん単に出荷後の袋詰めされた塩を袋の外から押した時の感じなのかもしれない。とりわけ粒の細かい塩で少し湿りを帯びていたりすると軋みやすい。兜子の生まれた網干は近世以降製塩で有名になった赤穂とは直線距離にして20㎞と離れていない。流石に江戸時代の入浜式塩田はほとんど残っていなかったろうが戦後しばらくは流下式塩田がまだ主流だった筈だ。兜子にとって塩は一般の人よりも身近なものだった可能性が高い。それで塩のまわりに塩が軋むという情景を俳句にしたのだろう。
解釈はここまで。問題は先述の裂けた木とこの塩の軋みとがどういう関係にあるか、ということだが、それは鑑賞の範疇に入る。つまりは解釈から大きくはみ出さない限り、ある程度読者の自由に任される。そこで筆者の勝手な思いを述べさせてもらうと、裂けた木は大日本帝国を、塩は戦後の日本国民を象徴するのではないか。なぜそんな鑑賞をするかと言うと兜子自身が『蛇』の後記に述べていることと関係する。ここにその一文を引用しよう。
私は成長期を特殊な颱風の季節に過した。つまり日本の崩壊、偶像の瓦解、物心両面の廃墟のなかで、主体的な精神のよりどころを喪失した私は、ようやく、当時の青年一般に浸透しつつあつた実存主義に、孤独のやり場を求めた。やがてそれは第二部「愛」にいたつて、純粋詩のフオルムで青春美を追究するという方向へ移つた。(中略)第三部「坂」は私の社会人生活のはじまりである。大学という環境で探つた私の相念や方法は、生きた現実、それも新聞記者という職業的活力を通過して対決するとき、大きく動揺し変革しはじめた。そのとき神戸にいた金子兜太のエネルギーに接触、激しい制作慾に駆られた。社会との連帯意識の上にたつて、現代の傷心、孤独、不安といつた感情を定着すべく、私の思考や筆はのびていつた。
やはり多感な青春時代の兜子にとって大日本帝国の崩壊はかなりショックだったようだ。陸軍機甲整備学校の特別甲種幹部候補生として入隊し、海外での実戦経験こそなかったが東京空襲の際に救出トラックで出動したり戦車や自動車を東京から兵庫へ移動させたりした体験は、彼をして自分は軍の一員だと自覚させたであろう。正に広場に裂けた木のイメージではなかったか。また塩の軋みは戦後の民主主義によって保証された集団での闘争のイメージ。血のメーデー事件、基地闘争、三池争議、そうして2年後には60年安保闘争へと向かって行く政治の時代。人と人とが接触し摩擦を起こし悲鳴を上げる、そんな光景が「塩軋み」で表現されたと見るのはさほど無理な考えではあるまい。