啞ボタンふえる石の家ぬくい犬の受胎 『虚像』
「啞ボタン」は勿論「押しボタン」の駄洒落だろう。一昔前の映画やドラマでボタン→核戦争という隠喩が頻繁に使われていたが、思えば押しボタン(服のボタンと紛らわしいので「押し」を付ける)は現代社会の象徴なのかもしれない。電燈が日本家屋の標準装備として定着した後でもしばらくはあの引っ張って点ける紐が一般的であった。いつから押しボタンが家の電燈を制御するようになったのだろう。それはアパートや団地という言葉が古臭くなり、マンションという言葉が受け容れられるようになってきてからのような気がする。兜子のこの句は昭和34年作、まだ家の電燈を点けるための押しボタンは珍しかったろう。それでも世間のあちこちで現代文明の象徴のように押しボタンが増殖するのを兜子は感じていたに違いない。
それにしても「啞ボタン」の駄洒落は何故だろう。兜子の俳句には滑稽感やふざけた所がほとんど見られないのに。今では「啞」の字を使っただけで発禁処分にされそうだが、ここで兜子が言いたかったのはボタンばかりが増えて言葉が減っていく不気味さではなかったろうか。石の家は西洋のそれとも取れるが、日本の風景とすれば団地が一番ふさわしい。核家族という言葉ができ、アパートの個室に家族の一人一人が没交渉で交わす言葉もなく暮している。そのことを批判的に表現したのではなかろうか。冷たい感触の石の家と「啞ボタン」の組合せは二つながら温もりを失ってゆく現代文明の象徴と言える。
その冷たい家の中での「ぬくい犬の受胎」である。犬という動物、獣の温もり、それも子を宿すという究極の温もりを言葉のない、冷たい素材でできた現代の家と取り合わせた。団地では犬が飼えない。これは今に限らず昭和34年当時とて同じ事であったろう。ひょっとしたらこの家の子供がこっそりと捨て犬を拾って来て隠していたのかもしれない。いずれにせよこの親犬の運命、生れてくる子犬の運命、ともに明るくはない。