好きな詩人、と言われて困った。現在存命中の旧知の詩人を褒めるのも何か気持ち悪いし、死んだ詩人の友人のことは、先日語ったばかりだ。ホンダナに置かれて背を見せている、かつて自分が「惚れた」と信じた言葉の端々が、「嘘をつけ、ほんとうは惚れてもいなかったくせに」に頁をめくり返す私を挑発する。
好きな詩人については、書けない。ただ、現代詩業界の頂上近くにいるらしい、魅力的な言葉の棹師についてなら少しだけ書ける。棹師とは、勃起した棹で女性を快感の頂点に導いて、映像上のエロティシズムの表現を仕事にする男の謂である。自分が本当に快感を感じることは滅多にないという。大昔、70年代半ば頃、こんな言葉の羅列が大学生だった私に快楽をもたらした。
「湘南の暗い水からぬけてきたきみの、ぬれてまたすこしおもみをました胸を、ふるえる手でそっとまとめる。そこがわたしの最初の岸だ。活塞のすきまを撚れながら、すずしい風が通る。肉はこの向きで夏を消す」(荒川洋治「季節の暗い水につかって」より)。
何かカッコいい、ステキだ・・・。だが待てよ、どうもおかしい。妙に軽すぎるのではなかろうか、と大学生の私でさえ思った。例えば次のような詩行はどうか。
「国境、この美しいことばにみとれて、いつも双つの国は生まれた。二色の果皮をむきつづけ、錆びる水にむきつづけ、わたしたちはどこまでも復員する。やわらかな肱を輓いて」(「水駅」より)。これは何だ。現代詩の向こうに、思想的な文脈を読み取ろうとする私たち若造の読者への挑発だ。カッコいいだけの言葉の全的な無思想。内容など無い。
後で考えると、こんなことは天性の言葉の棹師にとっては、朝飯前の芸当にすぎなかったはずだ。棹師に甘い言葉でイカされる読者の方が悪いのだ。これは序の口であった。その後、この詩人は「実篤のいるスタジアム」(『ホームズの車』所収)において、「詩らしく見せる」詩語からなる、ソフィスティケートによってエネルギーを喪失してきた「現代詩」よりも、実篤の持つ愚直さ・凡庸さのラジカリズムを再評価することになる。「そんなもの/書いてはならない と /社長室の/ぼくは真っ向から反対した/この世の中/詩にしていいことと していけないことがある/詩にしてはいけないことの大部分は/詩だ」(「竜宮」『ヒロイン』所収)。天性の棹師による、一見簡単そうに見える比喩の捻りと厚さは時代を画するものであった。ボクにとって、荒川洋治の詩集『ヒロイン』は、詩語からの解毒剤であった。少々のことでは酔えなくなった私は、その後ますます詩というものが分からなくなった。