火を入れてかへりのみちの螢籠 五千石
第一句集『田園』所収。昭和38年作。
この句の自註(*1)には「火を入れてよりはじめて、名実ともに螢籠となる」とある。「火を入れて」、つまり、螢を入れてはじめて「螢籠」であるという明快な句意である。「かえりのみち」からは、とっぷり暗い里の道に、籠の螢の“緑色”の明滅だけが浮かんでくる。
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五千石には多くの「螢」の句がある。特に 『田園』には、「老螢」というおそらく秋の螢のことと思われる句を含め、12句が収められている。『田園』300句弱の句数の割合から見ても非常に多いことが分かるだろう。以下、掲出句を除く11句である。
老螢掌よりこぼせば火を絶ちし
生き残る螢葉隠れ草隠れ
老螢末期の光凝らすなり
朝日出て螢の生死忘れられ
掌中に一殊の螢旅稼ぎ
初螢いづくより火を点じ来し
手を執つて青き螢火握らしむ
見えぬ手がのびて螢の火をさらふ
一螢火高樹に沿ひて昇天す
流水にみちびかれ行く螢狩
老螢わが見れば火を燃やしぬる
これらの螢の句は、多分に前掛かりな、つまり感情過多の傾向が強いものが多い。それでいてその感情は詩的昇華を遂げているかといえば、ある種の空周りも感じられなくもない。
ちなみに第二句集『森林』(*2)には次の句がのこる。
初めての螢水より火を生じ 昭和46年
この句について自註に、“「初螢いづくより火を点じ来し」の答えが、ようやく出来た。”と、先の11句の中の1句を挙げている。
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掲句にもどろう。前述のようなやや感情過多の螢の句のなかにあって、掲句はとてもシンプルで、淡々としている。
螢籠はその言葉の印象からも、それだけでさびしい存在。また、螢籠に捕えられた螢ももちろんさびしいものだが、自由に川辺を舞っていても、螢はそれだけでもの悲しい。
五千石は『田園』の後書に“省みれば、私の句は全て「さびしさ」に引き出されて成ったようである”と記している。
私には、掲句の螢火の儚い“緑色”こそが、五千石の「さびしさ」の象徴であるように思えてならない。