反逆 来住野恵子
放して
とおくから、か細い声がした。
どうか放してください
石版に鑿を振りかざし、今まさに文字を刻みつけようとしていた男の
耳に、透きとおった消え入りそうな
刻まないで
男はふり返り、あたりを見回した。
鑿を置いて
───おまえは、誰だ?
唸るように男は言った。
わたしは言葉です
───さまよえるおまえに、俺は住み家を与えてやろうとしているのだ。
そんなものは要りません
───刻まれて文字になれば、千年は生き長らえる。
千年も一瞬もわたしにはおなじです
───究極なるかたちが欲しくはないのか?
わたしはただいのちなので
───俺にはおまえが見えない。
見えないすべてがわたしです
───ええい、おとなしく文字になればいいのだ!
いまいましそうに叫んで、男が大きく手を振りあげたとたん、ことり
と鑿が落ちた。次の瞬間、先端から、矢のような光が迸り、男の心臓
を刺し貫いた。噴きあがった男の血が石版にかかると、またたく間に、
石は溶け、燃えさかる炎となって千年を渡った。
火に刻印された言葉は、一瞬たりともおなじかたちであらわれること
はなく、いまだそれを読んだものはいない。
作者紹介
- 来住野恵子(くすの・けいこ)
詩集「ブリリアント・カット」(私家版1982年)
詩集「リバティ島から」(書肆山田1996年)
詩集「天使の重力」(書肆山田2005年)
1990年度ユリイカの新人。(選者・吉増剛造)