短歌時評 第47回  田中濯

メディアについての覚書

 前回の私の時評(http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_tanka/2012-03-16-6951.html)は光栄なことに多くの読者にインスピレーションを与えることができたようで、喜んでいる。特に、私のブログ上(http://d.hatena.ne.jp/artery/20120318)に追記した、真中朋久氏の指摘に由来する『「ぬ」考』は、意外に多くの読者の関心を呼び、ツイッター上での議論もおこった。「ぬ」のような、現代ではあまり顧みられることのない地味な助動詞が話題になる、ということは、ウェブにおける短歌集団の健全性を示唆しているものと思う。助詞・助動詞の扱いは短歌におけるキモである。そして、この助詞・助動詞の力が強固なために、「口語派と文語派」の絶えぬ論争が続くのだ、とも私は考えている。純粋な口語派は、特に「古い」助詞・助動詞の使用を自ら慎んでおり、それは非常に納得できる態度である。一方で、その効果を十二分に識る歌人は、口語と文語の混合という、いわばいいところ取りの文体を構築し、その可能性を探っている。私個人は混合派に属すると思う。ずるい、と言われれば、すいません、という準備もあるが、全くなんの考えもなしに、「文語」的助詞・助動詞を使用しているわけではないことは、記しておきたい。この「自分ルール」に関しては、今後述べる機会もあるだろうし、「混合派」のひとつの原型になるかもしれない、とも思っている。

 これは、反応の正の部分であったが、実は負の部分もあった。実際のところ、紹介した吉川氏の短歌が「天皇」をキーワードに用いていたことから、ある種の「攻撃」は覚悟していたところがあった。そう、現代は、まだその程度の時代なのである。名は明かせないが、北朝鮮拉致問題についての歌を作った歌人が、見当違いのしかし悪辣な攻撃に悩まされたことがある、と聞いたことがある。私は「思想詠」について、積極的に自論を展開しているが、その裏では、ある種の「覚悟」、現実に危害がおこる可能性すらを意識下においている、ということを皆様に知っていただければ幸いである。現状、その具体的な対象となる「原発詠」に関しては、東電その他があからさまに酷く醜いため、「自由に」というか「一方的」な批判が可能だが、いずれ多くの権益が関与し、絡み合っていくと、立場をどう取るか、というのは極めて難しい問題になっていくだろう。そこを、いや逆にスリリングだ、と捉える楽観的な精神を私は愛し、賞賛したいが、「思想詠」はやはり生半可なものではない。それは岡井隆とその変遷を見ればたちどころに了解できる、ということを指摘しておこう。

 ところが実際には、負の部分は、「幸運」にも極めて低レベルのものであった。とある匿名者によるサイトが、下品な言葉と文体でもって私の時評を揶揄してきたのである。私はこのサイトのほぼ全てのログを読み、他の歌人や団体を貶め続けてきた下賤な歴史を認め、ついにこの匿名者を告訴することを決断したのである。このプロセスの過程で、わたしは当該者の姓名・年齢・性別・住所・職業・電話番号を補足した。現状では、弁護士の選定をおこなっている状況である。この匿名者には、実名公開・謝罪・当該記事の削除の三点セットがなされた時点で告訴プロセスを停止するむね、ブログ上(http://d.hatena.ne.jp/artery/20120324)でも公開しており、中傷者の「自省」的な解決を望む姿勢は今でも継続している。しかし、私から引くことは絶対にない。

 ところで、私がこのような、いわば強行手段を採った理由が存在する。それが、実は本稿の意図するところである。

 今後、将来にわたり、「紙媒体」が衰え、「Web媒体」もしくは「電子書籍」が力を増していくのは、もはや決定的事項であると私は考えている。青磁社の行っていたWeb週刊時評が、松村由利子の「電子書籍元年と短歌」(2010)で終わったのは、象徴的であり、極めて示唆に富むものであった。松村の視点の高さには脱帽せざるを得ない。ただし、これは、主に「書籍」に関わる話題であった。一方で、実は、短歌における悪名高いWeb論壇というのは、これ以前から存在していた。それは、2ちゃんねるの「短歌、五七五板」におけるスレッド◆◆ タンカ侍でござる!短歌を斬る◆◆である。現状、23スレッドを消費し、この板では特筆して人気が高い。内容は低レベルで、中傷、特定人物批判を連呼するなど見るに耐えないものである。最近になって、私(田中濯)も登場してきた。中傷にもレベルがあり、ただバカなものから、少しは考えたもの、議論として正当性を持つものまで様々である。この「短歌、五七五板」は他にも「美人歌人」がどうたらこうたら、といったゴミ以下のスレッドも抱え、板としては、いわゆる「ダム板」レベルの雑魚板である。

 皆さんにお聞きしたいのは、あなたも実は見たことがあるでしょう?、ということや、それで鬱憤を晴らしたり、下手すれば書き込んだりした過去があるんじゃないの?、ということではもちろんない。2ちゃんねるは管理人が削除要請やIPアドレスの公開要求を無視あるいは放置することで有名なメディアであるが、近年では、犯罪予告などでは速やかに警察にログその他を提供するなど、二面性をもつメディアになっている。これには、ある種の「協定」や「公安」といったタームが関与してくるのであろうが、これは基本的には私の知ったことではない。私は、先に述べたように、法的闘争に入る準備を重ねているが、その経験からすると、2ちゃんねるの各発言のIPアドレスを得ることは、詩客の読者の皆様が思っている以上に、簡単であると思われる(時間と金銭は、半年および五十万円の消費をまず覚悟すべきである)。まあ、不可能ではないですよ、というところである。その手続きは既に確保され、法整備は整いつつあり、ログは保管されている。名誉毀損罪の時効は発覚から三年であり、民法・刑法、ともに告訴可能なので、状況によっては、やるべき価値は十分にある(金銭的費用は民事の賠償で補填が可能であろう)。匿名掲示板として名高い2ちゃんねるであるが、「敵に回す」人間を間違えると、取り返しのつかない事態になることは了解されたいところである。私個人も、今回の匿名サイトにおける中傷が解決した暁には、2ちゃんねるへの対処を行う予定である。くだらぬことを書いた連中には、すべて法的対処を行う心積もりであるので、覚悟していただきたい(No.22の文面は当然保持している)。ちなみに、捨てアド以外のメールによる謝罪は受け入れる。

 さて、本題に戻ろう。いままでの議論に矛盾する発言ではあるが、私はWebにおける匿名批評を否定しているわけではない。無論、推奨しているわけでもないが、世の中には、匿名での批評が批評者を保護し、その権利が保全されるべきである状況が存在する。再び述べるが、私は、匿名批評を否定しない。

しかし残念ながら、現在まで、短歌における匿名批評は、とかく意識の低い人間によって担われてきたことも事実である。罵詈雑言や、性的侮蔑など、顕名ではありえない表現が繰り返し使われてきた。これは、発言者が、「匿名であること」に必要以上に安住し、心の汚い部分を出すことに抵抗を覚えなかったためである、と私は考えている。

 ここで私はひとつの案を提出しておきたい。まずWeb上での批評は、本名ないし本名に相当するペンネームによる署名付でおこなわれるべきである。これは、Webの短歌集団(もしくは俳句、現代詩)の「正統性」を自律的に担保するだろう。本「詩客」は圧倒的な閲覧数を誇るまでに成長し、それは投稿者への無言の圧力となり、くだらぬ文章はもはや入る余地が無くなっている。各担当者は、なみなみならぬ意識で作品・文章を書いていると察する。そういった自律性は、今後、紙媒体の割合が50%を切った状況で、特に着目されるだろう。それは今後15年前後でかならずや訪れる状況であり、我々先行してWebに住まうものは、この構造的変化に伴う人的流入に、先駆者として、環境を整えておく義務がある、と私は考える。健やかな環境、Webの特徴である多様性を備えた健やかな環境を、すでにWebに関与している我々が自発的に努力して整えておく必要がある。現状では、ツイッターでも、ロックをかけて、固定した「客」とのコミュニケーションを楽しむ状況が増えて来ている。それは女性に多く、察するに性的侮蔑の類が、無視できないほどに上昇しているためであろう。我々はこういった状況に抵抗していかなければならない。前項に述べた「匿名者による下品な短歌批評サイト」への告訴を含めた対応を私が決めた背景には、以上に述べた意識がある。あるいは2ちゃんねるに対する意識もおおむね同様である(とはいえ、正直なところを言えば、私はいまだ、2ちゃんねるに期待する部分を持っている人間でもある)。このようなものは、今後存在を許されるべきではおそらくないし、少なくとも、その悪意に満ちた影響力は減じられるべきである。匿名批評は存在してもよいが、それはより高潔な意識でもってなされることを期待するものである。そしてその存在は、その高潔さそのものから読者の支持を受けて存続が可能になるだろう。

 私は紙媒体を軽視しているわけではない。特に私や皆様がお世話になっているであろう零細詩歌出版社については、その特異性の故に、今後の大淘汰時代を生き残っていくものと確信している。ただし、短歌、あるいは他の詩歌ジャンルでも、Web媒体をその在り処とし、紙媒体の象徴である「結社」を回避・忌避する動きは一層高まるだろう。そのとき、私は、Web上に新たに結社を構築するのではなく、Webの特性を最大限に皆様に活用していただくような「ユニオン」を準備するべきであると考えている。下品で下劣な表現や文体、または性差別者やレイシストを侵入させない程度には常識が保たれた詩歌のアジールが、Web上に存在し歴史を重ねることを期待している。そして、本「詩客」が、その有力なベースとして歴史に名を刻むことも期待するものである。「詩客」は時限的な存在では、きっとあってはならないはずだ。

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