長い長い前書きのついたメランコリーな作品 筑紫磐井
ショーペンハウエルに「自殺について」という小論があるが、いかにもキリスト教徒らしい罪悪論に終始して異教徒であるわれわれの魂を少しも動かしてくれない。一方、最近では忘れられた哲学者となっているが『キリスト教の本質』で徹底した宗教批判をしたフォイエルバッハは、極めて冷静に自殺の原因を述べる。それは、――生き残ることによってより大きい苦痛が生まれる時(つまり改善される希望もない時)人は自殺を選択するというのだ。
「愛する者にとっては愛される者を持たない自己又は生は何ものであるのか? 名誉欲に燃えている者にとっては名誉を持たない自己又は生は何ものであるのか? 富者にとっては富を持たない自己又は生は何ものであるのか?」
「人間にとって彼の立場や欲求やに応じて必然的に生に属するものがなければ、生とは何であるのか? 牢獄の中の生もまた生である。しかしそれは何という生であろう!」
「人間が自分が本質的に生命に算えるものを失ったために、または失うことを怖れるために、自分の生命を断ち切るとしよう。その時には人間は自己保存欲と矛盾して行動しているのではなくて、一致して行動しているのである。」
「そうだ! 死は生来あらゆる諸害悪からの自由である。そして、さてそれがいかなる理由によってであろうと、生が耐え難い害悪となっている者にとっては、害悪からの自由が――しかもただこの自由のみが――意志の自由なのである」
「あらゆる生は時とともに、それが病気であろうと、年齢によってであろうと、自分にとって重荷となり害悪となる。しかし、もし生がなお単に一つの害悪に過ぎないならば、その時には死は何ら害悪ではなくて一つの善であり、しかも一つの権利、すなわち害悪に悩んでいる者が害悪の救済に対して持っている真正な自然的権利である。」(船山信一訳)
宗教的な解釈よりよほど合理的であり科学的である、さながら古典派経済学の効用説のようだ。合理的な経済人が、A(生)という商品を選ぶか、B(死)という商品を選ぶか、余計な問題を捨象して本質を表現するのと同じように。そして、この哲学的洞察は、これまた経済学と同様、個人で成り立つと同時に集団(社会)でも成り立つことに気付く。時代全体が暗い幕におおわれる時、その時代の人々は自殺を志向するのかもしれない。それが世紀末の風景である。
どの世紀末もそうだが、時間的な世紀末ではなく、時間的な世紀末が終ったあと(つまり世紀初)に「気分としての世紀末」が訪れる。人口の減少、高齢化、経済的な二流国化、多くの現場でのリストラ、福祉の行きづまり、大震災その他災害の頻発、先端科学の崩壊。現代の日本の何と世紀末なことか。
ボケルトキニホンマツタクイロモヤフ
「食べられる野草」と言へる本を読む
歯磨きや美人でなくて薄命に
カレーライスおまへひとりで食ふがよい