いもうとは水になるため化粧する 石部明 遊魔系 2002
私のわずかばかりの川柳の知識によると、死の風景と言うことで言えば誰よりも石部明を挙げたい。冒頭掲出句は、エロスと死という定番と言えるだろうが、まったく個性的な舞台を作りだしており彼の最高傑作と見る。
「賑やかな箱」(1988)は、
指で輪を作ると見えてくる霊柩車
やがて手も沈んでいった春の海
あおむけにそのまま眠る花の底
紐を引くどこかで誰かが死ぬように
見くらべて等身大の箱を買う
なんでもないように死体を裏返す
など、さまざまな死に満ちている。物体となってしまったものを前に、いろいろなことを考えてしまうから「なんでもないように」と言う語が出てくる。俯せにして、死者と視線を交わすことはない。ましてや取りすがることは無益である。これは彼の覚めた無慈悲さとか、逆にセンチメントであり、優しさである、と言いきってしまうと少し語弊がある。情と非情を兼ねた幅の広さが持ち味である。
たましいの揺れの激しき洗面器
月光を浴びる荒野のめし茶碗
うっかりと覗いてしまう橋の下
なども死を暗示しているように読むことが出来る。「たましい」の句は、河縁(かわぶち)で育った彼の記憶の中、洗面器の振動しやすさや、捕った魚を放したときの暴れのイメージから生まれたものであろうが、魚を死に抗うたましいと変容させたことで死を暗示する詩となった。めし茶碗は、電灯の下、テーブルと言うよりもちゃぶ台の上で、もっとも親しい生命活動に関わっていたものだが、いまは捨てられて荒野に転がり冷たい光を浴びている。俳句の中における死と比べてより身近である。この句に限らず、媒体として用いられるものはどこか身体に結びついていて生活的であり、あちらの世界に行ってしまわない。川柳の出自を物語っている。
「遊魔系」(2002)には、死と言うよりも、死んだ、あるいはされるがままの身体がたびたび登場する。
靴屋きてわが体内に棲むという
折鶴のほどかれてゆく深夜かな
体から誰か出てゆく水の音
戸板にて運ばれてゆく月見草
ぼろぼろに黄ばんでしまう人体図
真っ暗なからだの奥の水祭り
肉体は生命の器と言うよりも不如意なもの、何者かに勝手に使われる場である。
肉色にかがやく午後の遺体かな
は、その肉体の昂然たる反抗、居直りであろうか。投げ出されてまぶしい死体、技巧を越えて迫力が印象に残る。この「遊魔系」、
梯子にも轢死体にもなれる春
で始まり、
縊死の木か猫かしばらくわからない
で終わる。感傷を排し、非情であらねばという独自の倫理が見える。誰かの周到な技巧の句を並べてもそれを無化してしまう無造作、ひいては無頼を感じる。石部明については、俳句・川柳の句会でしばしば同席したことがあるが、「賑やかな箱」の寺尾俊平の解説にある以上には身上について知ることはない。しかし勝手な推測で言えば、彼は私同様、生来おそれに対して感受性の強い人なのではなかろうか。おそれはより強い恐怖や毒の言葉でのみしのぐことができ、それを繰り返すうちにその刺激が身に付き、動じない無頼のペシミズムを形成する、そのようなことを考えてしまう。
目礼をして去ってゆくおそろしさ
目礼されるときの恐ろしさ感じる人であり、また静かで恐ろしい目礼をする人ではあるまいか。