あの世から物干し竿が降りてくる 石部明 バックストローク 31 2010
詩客に書き始めて数回、私用と非力で中断していたが、親しんできたテーマについて触れていないので少し述べておきたい。
Wilson Bryan Key著・植島啓司訳・リブロポート「メディア・セックス」という本がある。広告は潜在意識への働きかけに手を尽くすという、フロイトの理論やサブリミナルという語と共に知られるようになった事柄をとても興味深い例を挙げて示している。隠されていながら露骨な表現の例示に驚くが、話は性にとどまらない。たとえば、ビートルズの「アビー・ロード」のジャケットにはポール・マッカートニーだけが死装束で登場していること、ジョニー・ウォーカーのラベルにはDEDの文字や斬首の図を読み取るなど、役に立つと言うより読み物として大変面白い。激辛から始まって、ニコチンと警告たっぷりのタバコ、70度を越えるスピリッツ、絶叫する暇も与えず首をねじ切るジェットコースター。ものそのものも、死のイメージは新奇を好む人種の無意識を惹きつけ離さない。古来、危険あるいは死も商品売り込みに際して有力なテーマとなってきた。
コピーの時代以後、広告としばしば比較された俳句においても、簡潔にして強烈な死というもののイメージは重要である。商品のためではなく表現そのものとして。しかし戦前の句にはどちらかといえば、死には生活臭が漂っていたように思う。
だが「第3回戦後俳句史を読む」で採りあげた
雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ 齋藤玄 1975
まくなぎとなりて山河を浮上せる 齋藤玄 1978
では実生活は完全に昇華され、悲痛な聖性を帯びている。もっとパセティックに詠むと、
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子 水妖詞館 1975
遠き母より灰神楽立ち木魂発つ 中村苑子 水妖詞館 1975
など、場面は演劇空間のようになり死は自己愛的・恍惚的なものとなる。これらはいずれも寂しさや、怖れと言った否定性に逆に価値をあたえている。もう少し醒めた読み方なら
死ににゆく猫に真青の薄原 加藤楸邨 まぼろしの鹿 1968
いつよりか遠見の父が立つ水際 中村苑子 水妖詞館 1975
など。暗示的には
てふてふや水に浮きたる語彙一つ 河原枇杷男 流灌頂 1975
この下の句では、水に墜ちた蝶がほどけることと、語彙・文字の繋がりが分解出来ることへの連想が働き、死の俳句に留めず別の観念の世界へ導く仕掛けも重要である。
こうして見ていると、死の幻を詠む俳句は1975年(昭和50年)前後に現れている。60年代に起こり70年代隆盛を極めた暗黒舞踏・演劇をはじめとする反リアリズム的な文化の流れの影響を受けていると考えられる。
俳句にかくも豊穣な死のイメージが噴出した時代はこの70年代を置いてないであろう。他の分野では、リアリズムを越えて死あるいはそれに近い光景を採りあげたものは、古来数多くある。特に、詩の萩原朔太郎「月に吠える」、小説は内田百閒の「冥土」、絵画で朔太郎と共同制作した田中恭吉などが活躍した大正期が目立つ。大正は後世、大正デモクラシー、大正ロマンなどと称され、モダニズム、ダダイズム、アナキズムが花咲き、社会運動に加えて文化人のスキャンダル・自死などが注目された。死のイメージの豊かさは自由の爛熟と比例するのであろうか。
しかし、嗜好の傾向は時代だけで決まるものではなく、人の資質が決定的であることは言うまでもない。若い頃、先輩に君はなぜ怖い本や不気味な本を読むのだと、本当に不思議そうに聞かれたことがある。ご本人はよくシャンソン風の「お菓子の好きなパリ娘」を口ずさんでいた。私にはその方が不思議であった。chansonを聞かず、段ボールを楽器とするFlying Lizards、苦渋と屈折に満ちた声を上げるPILなどnew wave rockを聞くのはなぜか?頭脳にエンドルフィンを生じさせるものには個人差があるとしか言いようがない。
ところで死に対してはまた一つの処し方がある。
家蠅の一つ感動倒れしぬ 永田耕衣 人生 1988
空溝に黄金の蝶写り行く 永田耕衣 泥ん 1992
これと死とどういう関係があると言うのか。私には水草や汚泥の乾いた溝が、蝶の羽の反照に映え、明かり暗がる光景、浄土あるいは冥土である。裏木戸を押すと浄土であり、死は生と合体している。耕衣は歳と共にあらゆるものに親和力をまし、涅槃に入っていったのではないだろうか。
最後に専業俳人ではなく戦後人でもない、死の俳句の一人の先駆者を思い出しておこう。葛飾北斎の辞世とされる有名な句である。
人魂で行く気散じや夏野原 葛飾北斎 1849
強がりとあてどなさが日本人伝統の心意気である。機知は基角ばりとしても身についており、洒脱な死生は江戸の俳人の域を超えている。なお、現代ドイツで北斎に心酔しているのは、エロスと死の手に負えぬ画狂老人Horst Janssenで、たとえば「永い旅」、ガラスの花瓶に挿されたチューリップの絵である。完全に枯れて花びらを下に散らし、腐った葉はガラスにへばりついて乾いているといった体、悽愴なチューリップにこそ安らぎがある。