私の好きな詩人 松下育男 廿楽順治
詩は二十代後半からあまり読み書きしなくなった。四十代に入って再開したとき、二十代の頃読んで好きだった詩人が今どんな詩を書いているか、とりあえず確認してみようと考えた。そのとき不意に思い出したのが松下育男であった。二十代の頃、「現代詩」としては荒川洋治に惹かれていたのだが、実はそれと平行して松下育男の詩がいつも気になっていた。
休みの
朝
棚を上の方につくった
のせなければならないこまごました物たちが
下の方にあふれてきたからだ
次の日から
出勤のため毎朝
棚の上からとびおりるのが
つらい(「棚」)
松下育男の詩は素朴に見える。だが、その詩は人が物に接続し、物が人を食らう、石田徹也の絵のようなグロテスクな素朴さなのである。もちろんそのような発想だけならば他にだってある。好きだったのはその言葉の手つきであった。「現代詩」は、たぶんみんな腹の中では思っていると思うのだけれど、難解とか分かりやすいとか言う世間的な区分以前に、言葉の手つきそのものが退屈だったりする。箸を落としても笑ってくれるような、深読みの知育に優れた青少年でなければちょっと付いていけない、というのが実情だろうと思う。
松下育男の詩はそういう意味では広く開かれている。たとえば教科書に掲載されたという「顔」は、その異様さにも関わらずある種のやさしさに満ちていて、思わず最後まで読んでしまう詩である(最後まで読める、というのは「現代詩」ではなかなか貴重ではないか)。
こいびとの顔を見た
ひふがあって
裂けたり
でっぱったりで
にんげんとしては美しいが
いきものとしてはきもちわるい
言葉の手つきは淡白である。でしゃばらない。言葉を厚塗りすることが、必ずしも詩の出来事とはならない、ということをよく知り抜いた、透徹した目測で言葉が置かれている。詩から少し離れて、また戻ってきたとき、こうした言葉の手つきに、「詩と出合う」ということの原始を見たかったのである。
「現代詩」では、前衛、過激、悪徳、実験、文法破壊、饒舌、混濁、といったようなこと自体が様式化している。本来これらのことは一回性の出来事としてあるものである。それがたとえ様式的に過去の反復に見えても、出来事としての力を持っていればいい。出来事というのは、様式の如何に関わらず素朴にしか見えないし、それは一回性にも関わらず何度も回帰してくるものである(たぶん)。出来事ではなく、その様式の方が先に鼻についてくるようだと、その詩は読んでももうおもしろくない。言葉の手つきというのは、この出来事と様式を判別しがたいものにする術なのだと思う。「現代詩」ではこれを「技術」として指名し軽視する風土が蔓延しているので、話がいつもおかしくなる。松下育男はもちろん、荒川洋治もあるいは稲川方人にしても、「技術の威嚇」をきちんと受けて立った世代だと思うが、たぶんこのことは現在では忘却されている。
はげしい息づかいの中でも
ぼくはつねに
考えている
この世界がなかった場合の
ぼくのことを
するとこの世界が
なかった場合の
ぼくが
考えから
はずみをつけて
走りだす
(「競争」)
世界と「ぼく」はいつだって同期しない。ただそれだけの、おそらく誰だって一度は思うようなことが、どうして松下育男においては詩という出来事になるのだろうか。この奇跡的な出来事の初めに何度も立ち戻ること。そう思って自分でも書いてみるのだが、これがなかなかできない。