私の好きな詩人 第40回 – 多和田葉子 - 北爪満喜

好きな詩人というくくりはたいへん難しいので、私が驚きを持って、これは出会いだ、と受け止められた多和田葉子さんの言葉を紹介したい。多和田さんは詩集も出されている小説家だ。ある日私は、詩集としての扱いではなく本屋さんに並んでいた『きつね月』(新書館刊)を開いて目を落とすと、すぐにぐいぐい引き込まれ、これが詩でなくて何だろうと、わくわくしながら読み、特別な言語体験へいざなわれた。『きつね月』から「鏡像」の一部を引用してみたい。

 それは満月の夜だった。僧侶は教典を読みながら眠ってしまった。深い眠りの中で僧侶は林を通って池まで歩いていった。
僧侶が池の縁を歩いていって、水の中に月を見ます。
眠っているから目を閉じたまま見ます。
見たからといって目は覚ましません。
起きたからと言って、ものがよく見えるということはありません。
僧侶は水の中に飛び込みます。
それから?
溺れます。
飲みます。
水を飲みます。月を飲みます。
月を抱こうと思っていたのです。それが月を飲んでしまいました。
そして溺れました。
あなたはいったいどなたですか。

この本を読んでいると、ぐずっと日常の端っこが崩れたのが分かって、なんだかやってゆけそうに思えたのだった。私はこの頃、受け止めきれないきついことを受け止めなくてはいけなかった。体も気持ちも強ばって辛く、けれど日常はがっちり立ちはだかって、逃げたくてもどこにも逃げられなかった(どんな人もこんなときはそうなのだろうけれど)。強ばり、かえって隙間だらけになっていた体に、言葉はするりと入り込み、固まった関節のあちらこちらの鍵を開けゆくのだった。さまざまなことを分かったようにしているけれど、ホントに? と言われた。肩胛骨がゆるみ、力みがとれる。日常、とか、がっちり、とか言っているけれど、それだって隙間だらけかもしれない。言葉の杖で叩いてみれば、ぼろっとなって、壁が割れて、外に出てゆけそうに思えた。

僧侶は上を見上げて、空に月がないことに気がつきます。
え、今、何とおっしゃいましたか。
月というものは存在しません。鏡像が水の中にあるだけです。
目に見えないというだけのことではないのですか。
見るということにそれほど意味があるでしょうか。
月は今日は出ていないということではないのですか。
月は出ていたことなどないのです。
それなら、なぜ水の中に月の鏡像が見えるのですか。
鏡像は昨日のものなのでしょう。
それでなければ月が昨日のものなのでしょう。
昨日の月は見えないでしょう。
誰にも見えない月は昨日のものでしょう。

主にドイツで作家活動をしている多和田さんは『エクソホニー 母語の外へ出る旅』で、ドイツ語と日本語、二つの言語が頭にあって、互いに邪魔しあって「何もしないでいると、日本語が歪み、ドイツ語がほつれてくる危機感を絶えず感じながら生きている。」という。そうしたなかでも「毎日両方の言語を意識的かつ情熱的に耕していると、相互刺激のおかげで、どちらの言語も、単言語時代とは比較にならない精密さと表現力を獲得していくことが分かった。」とも語っている。二つの言語ではないけれど、私も詩の言葉と、写真のことばと、二つ頭に入れていると、引き裂かれ、どちらも中途半端になってしまうような危機感を感じで生きている。だから、多和田さんの語ることを自戒として胸に刻む。日々、二つを意識的かつ情熱的に耕そうと。身が震える。

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