モダニズム詩の豊穣 森原智子
森原智子さん(1934~2003)はわたしが初めて出会ったモダニズムの詩人である。詩集『マンションの鳥』(1980年・紫陽社)を読んで以来、強く惹かれてきた。
悪夢はたしかに音を立てて
階段を降りる
わたしの生家の入口には
夕刊と一緒に
マン・レイの〈エリザベスの海〉が
変色したまま
ひたひたと寄せていた(「生家のあたり」冒頭)
巧い。若い現代詩のようである。ことばの意味、そのつながりを追うことに汲々としているわたしには、ことばの意味から解き放たれた表現がまぶしい。
次の『鳥の木・他十九篇』(82年)もまた圧倒的な力業を見せてくれる詩集。
ひそかに夜
窓で柳がめざめて
真夏の油をさしこみ
罪にぬれてくる拳を振れば
転げたリンゴがひとつ近づいてくる
果物屋の冷蔵室にあるときから
あいていた小さな穴がある
よくわかっています
わたしの首を不安にして
飢えは
うじ虫のようにきらめいた(「罪とリンゴ」部分)
緩みがない。余計な説明もない。くっきりした輪郭が描かれた世界である。「よくわかっています」という一行が光を放っている。
モダニズム詩とは何か。内部世界や現実世界との関わり合いを捨て、純粋にことばの芸術としての詩をめざしたものであるといえばいいだろうか。
森原さんが若き日に参加していた『VOU』は北園克衛さんが創刊した機関誌。北園さんは「意味によって詩を作らない」で「詩によって意味を形成する」実験をした前衛詩人である。弟子である森原さんもことばで映像を打ち出し、アクセルを踏み、スパークを起こす。そこに全身全霊をかけた。さらにモダニズム詩の枠を越えて、ことばの意味を取り込もうとしていたように思う。
以後に出版された詩集は、85年『露まんだら』、92年『十一断片』、96年『スロー・ダンス』(以上思潮社)。『スロー・ダンス』は金色のゴージャスな装丁で、独特のエキセントリックなところは影をひそめ、集大成というべき一冊。
地球の晩秋というのに
うつくしいものは
紙のブラジャーを裂いて
熟れまさる リンゴの木
かかえきれない紅玉が
すぐ トラックに積まれるだろう
ハレルヤ
ちいさな
内部世界を通るのだ
とても きゅうくつそうにだけど(「夜の前に」部分)
意味を問うことは無駄である。思いがけない展開を楽しめばよい。大胆さと繊細さを併せ持った詩人は、モノやコトの中心ではなく、少しずれたところにも視線を注ぎ、そこを射貫くように詩を書いた。
最後にもらった電話で、「拠って立つものが欲しいのよ」と絞り出すようにつぶやいていたことを思い出す。モダニズム詩という核と実力がありながら、足りないものを感じていたのだろうか。〈境地〉のような場所にたどりつくにはまだ早かったのだと思う。つねに新しい詩を探っていた。
ちょっと毒のある、鮮やかな詩群を残して、詩人はひっそりと逝ってしまった。解けない謎のような森原さんの詩は今もわたしに大きなヒントを与えてくれる。