きらきらと波をはこんでゐた川がひかりを落とし橋をくぐりぬ
藪内亮輔「花と雨」
1
美しい歌がある。
その歌は美しい。
どうしてこれで終わりではいけないのだろう。
目にははじめからそのことが疑問だった。
はじめて歌会というものに出席した時、どうして評なんてものをしなければいけないのか、と疑問に思ったものだ。
本来それは言葉にできないものなのではないのか、それなのになぜ言葉にしようとするのか。
確かに評の面白さというものは、繰り返し会に通う内、次第に分かっていった。
解釈というのは快楽的なものであり、その快楽に酔うことのできる資質を、目は十分に持っていたからだ。
けれどそれは快楽殺人のようなものと、何が違うのだろう。
評は本来的に歌を食い殺すものではないだろうか。
説明できないものを説明してしまうことは、はじめに説明できないものを説明できるものにこっそりとすりかえてしまうことでしかない。
歌を殺さず、むしろ歌を光らせるような評も知っている。
けれどそれだって、結局は評者の創意工夫の見せびらかしではないだろうか。
歌の美しさの代替として評の面白さを配置しているだけのことで、結局最初の印象を損ねていることに違いないのではないか。
他人の評についてそう思ったというよりは、自分の評についてそのように思った。
悪しき評は詩を理に変えるし、よい評は詩を別の詩に置き換えてしまう。
そのようなことはすべきではないのではないか。
ただ黙して見つめ続けることが、最上の鑑賞態度ではないか。
いや鑑賞という言葉さえ疑わしい。
そのような言葉に込められた思想こそを疑うべきではないだろうか。
などと思ってみて、しかし「べき」という言葉もまた目の違和感を裏切る方向に誘導するような気がして、つくづく言葉とは目ではなく口のためにあるものだな、と目はひとりごちるのであった。
2
エスカレーターのきざはしが連なっておりていく。
後ろから新しい段が吐き出され、それに押されるように前に進んでいく段の、最初は水平方向に動くのだが、後ろに3段ほど引き連れたあたりで、バターの塊がスライスされるように、あるいは氷山の一部が崩れるように、垂直に落下していき、それが繰り返されて階段をなしていく。
普段なにげなく見逃しているその景が、まるでそこだけ光を当てられたかのように、興味深いもの、いやほとんど美しいものとして立ち上がってくるのを、目はみていたのであった。
角川短歌賞受賞作の内の一作である掲出歌を、書店で見かけての帰りのことだ。
光と影の織りなすこの歌の背後にあるのは理である。
川が橋をくぐる時、橋の陰によって光を落とすのは、ごくごく単純な摂理である。
その普段は見過ごされるような摂理が、ここでは光に当てられている。
その摂理が、目には美しく思えたのだ。
摂理が美しいとは、世界が美しいということだ。
歌の中の摂理を美しいと思った目は、外側の世界にもその摂理を希求した。
それに応えるかたちで見つけだされたのが、たまたまそこにあったエレベーターのきざはしだったということだ。
3
それなのに、どうしてこうもわざとらしく見えてしまうのだろう。
この歌には摂理がある、その摂理は美しいと思って、再度まなざしたこの歌が、どうしても構図めいたものにしか映らない。
技巧を凝らした再現動画のようなものとしか思えず、「きらきら」という語も安易な気がするし、歌の背後に秘められていた摂理も、今ではごく当たり前の陳腐なものとしか感じられない。
それなのに今でもこの歌を「よい歌」であると思ってしまうのは、一瞥の時に歌が光に照らされて見えた時の記憶がまだ残っているからだろう。
名歌というのは案外そんなものかも知れない。
優れた歌は他の歌を陳腐化させるが、その矛先は自らにも及ぶのだということ。
歌の歴史を編む者も、その編み目の一本一本の歌にいちいち感動しているわけではなく、感動の記憶を頼りにしているのではないだろうか。
詩は死して史をなすのだろう。
史は屍でできているのだ。
永久に光を放ち続ける歌などないからこそ、目はまた別の一行を求めてさまよい、口は言葉を尽くして歌について語ろうとし、手は自らがそれに匹敵する光を作り出そうと苦心するわけだ。
4
美しい歌がある。
その歌は美しい。
それで終わりなのだ。
あとは何もいらない。
そこで終わりだからこそ、次が始まるのだ。
そういうことなのだろう。
「美しい」は終わり、歌と目が残された。
幻術が解けた今、そこに転がるのはただの言葉の切れ端に過ぎない。
それがあまりに無惨に思えるから、仕方なく別の詩を用意するのが評者の倫理というやつで、評が歌を殺すのではなく、評がなされる前提に歌の死があるのだ。
歌はもともと短命で、まなざされてすぐに死んでいくものなのだ。
そう考えると目はすこしだけほっとする。