葬る煙へ手を振るために手套脱ぐ 諧弘子
先日、新聞・通信・放送34社に属する東京写真協会のカメラマンが撮影した2012年の写真が並ぶ
「第52回報道写真展」へと赴いた。
朝日の射し込む東京スカイツリー、ロンドン五輪などの明るいニュースから、1年が経過した震災後の今、尖閣諸島上陸に反日デモ、そして先日の笹子トンネル崩壊まで、暗い出来事、揺れ動く問題まで、瞬間を捉えた写真が並ぶ。
その締め括りに今年の故人を偲ぶ一区画が設けられていた。今年ほど多くの名優が亡くなった年もないと一人しんみりとした。
葬る煙へ手を振るために手套脱ぐ
この句に詠まれているのは、ひろびろとしたロビーと豪華な装備のある斎場ではないだろう。空調で温度管理された大きな窓のある個室完備の斎場では、この悲しみも薄れてしまう。
真っ赤になったストーブがところどころ置かれ、じっとしているとカチカチと歯がなってしまいそうな火葬場。そうでなければ葬る煙をみることもできない。
独酌す女は土筆ほろと煮て
朧夜の間違い電話「いま帰る」
寒紅や「愛している」は書き言葉
諧弘子の句は寂しい。
しかし、それはどんなに幸福な者も抱える孤独を甘んじて受け止めている寂しさ。
そしてその寂しさに目を背けない強さが、俳句にも同居する。
鼻の奥がツンとなるほどの寒さに震えながら、決して大げさに泣くこともなく、作者は火葬場からのぼる煙をじっと見つめている。
そして、こらえきれない悼みがつのりきったころ、そっと手套を外して小さく手を振るのだ。
他人には気づかれない程度の小さなその動作。
それが作者の死者に対するお別れの儀式かのように。
そうして、また諧弘子の中に小さな悲しみと寂しさが積み重なる。
そんな彼女も、もう遠くへ行ってしまった。
葬る煙をみることはかなわなかったけれど、
私は手を振ることもないまま小さな悲しみと寂しさを今も積み重ねている。
己が戒名考えている桃日和 弘子
- 諧弘子句集『兎の靴』(2011年)所収