竹林に
いきどほり心に持ちて見るときは竹ことごとく槍のごとしも
おもしろと眺めてあればたそがれぬ
胸ぬちに心は燃ゆれわれもまた石と思へば
吉井勇歌集『遠天』(昭和十六年五月刊)
竹の歌を二首、石の歌を二首、それぞれ引いてみた。閑居して竹に親しみ、石と対話しながら、作者は時に激しく世を憤る口吻をもらす。ただ隠棲しているのではなく、烈々とした憤怒を秘めて背を向けているのである。対米戦争開始前夜の昭和十五、六年頃の日本の短歌は、言論の自由が極端にせばめられた状況下にあって、豊かな実りの時を迎えていた。そののちの歴史の激動によって吹き飛んでしまったけれども、近代短歌の到達したある高みというものが、幾人かの歌人の作品のなかに具現化されていると私は感ずる。
たとえば手元の『遠天』の巻末の広告ページをみると、甲鳥書林の昭和歌人叢書全八巻として、筏井嘉一『荒栲』、岡野直七郎『太陽の愛』、岡山巌『運命』、坪野哲久『櫻』、前川佐美雄『大和』、五島美代子『赤道圏』、斎藤史『歴年』、五島茂『海図』の名前が並んでいる。八冊のなかに短歌史に名を残す傑作が含まれている割合の高さに驚くのだが、同じ時期に『新風十人』や、『渡辺直己歌集』や『魚歌』や『歩道』が刊行されている。
私は土屋文明の反語的行き方に私淑しているから、昭和十年代の後半では、やはり『韮菁集』が一番だと思うが、浪漫派の系譜では、昭和十年代の吉井勇の充実は、特筆に値するものだと思う。対米開戦・真珠湾の大戦果の瞬間のカタルシスに酔ってしまったのは、この歌人も同様だったのだけれども、軍人専横の時代を怒り続けた点では、ほぼ一貫していた。しかもそれを同時代に続々と歌集を出して発信し続けていたところに、この人の矜持を感じる。
「巻後に」として、次のような言葉が書き付けられている。「ここで私の言っておきたいことは、敢て孤高の精神と言わないまでも、芸術はすべて厳粛なる人間の真実に徹底しなければいけないということである。滔々たる時代の流れの中にあっても、この信念だけは、敢然として守ってゆきたいと思っている。
」(新仮名遣いにして引いた。)
そもそも「芸術」という言葉をもって詩歌を語ろうとする衝動が、現代の詩歌人には薄いのではないかと私は思う。さらに「人間の真実」とまっすぐに言えた時代がまぶしく、こういうものの考え方自体が、不思議なぐらい自分のなかに乏しいことに驚く。現代短歌は「芸術」だろうか。むろん芸術の名に値するものは、たくさんある。けれども、何かが決定的に推移してしまった。われわれは、その「あと」の時代を生きているのだということは、どうしても認めざるを得ないのである。私には、多くの近代歌人の名前が、ここで吉井勇の言う「芸術」の墓碑のように見える。そうであるが故に、いっそうそれらの価値はふりかえられなくてはならないものだとも感ずる。「芸術」という理念が失効してしまった時代に、「芸術」の価値を、歴史的な権威に寄りかからないように語る姿勢が、もとめられる。
今日を生きる歌として、たとえば吉井勇の歌や、近代短歌のあれこれを読むこと、そのような作業に向けて、多くの人を結びつける媒体として、このページはあってもいいのかもしれない。一年間読んでくださった皆さん、ありがとうございました。また裏方のスタッフの方々、本当にごくろうさまでした。