ISBN4-00-008922-6の顔、パリに 高山れおな
句集『俳諧曾我』中、第七分冊「パイク・レッスン」より。
この句、活字のときはともかく、ネットに上げてしまうと、文字列の視覚的印象から俳句作品であると気づかれないおそれがあるので念を押しておくが、《ISBN4-00-008922-6の顔、パリに》で一つの句である。
「ISBN4-00-008922-6」というのが書籍に付されたコードナンバーであるらしいことはわかるので、検索をかけてみると、マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』(巌谷國士・塚原史訳、岩波書店、2000年)なる本であるとわかり、ああこれか、この顔は見たことがある、何だっけとなる。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0089220.html
それでさらに検索を続けると、この作品が、ベルリン・ダダの中心人物の一人であったラウル・ハウスマン(Raoul Hausmann)の「機械的頭部(われわれの時代精神)」(Mechanical Head(Spirit of Our Age))という作品であったことがわかる。
句にはベルリンではなく「パリに」とあるので所在地も調べると、この作品、今はポンピドゥー・センターに所蔵されているらしい。
ここまで来てようやく句の内容が《マシュー・ゲール著『ダダとシュルレアリスム』のカバーに載っていた、あのハウスマン「機械的頭部」がパリにあった》というものであったとわかる。
それで、ここまでは下準備であって、ここからようやく句の鑑賞が始まるのだが、それは当然、《ハウスマンの「機械的頭部」》でも《マシュー・ゲール『ダダとシュルレアリスム』の表紙》でも一応用は足りるところを、あえて《ISBN4-00-008922-6》と書く外連によって、いったいどのような詩的価値の違いが出てくるのかを探る作業となる。そこまで行かなければ、何だかわからなくても外連自体が愉しいという読者以外からは、単なる判じ物と排斥されかねない。
まずハウスマンの「機械的頭部」が、第一次世界大戦という大きな混乱とショックを受けて出てきたダダの主要作品の一つであることを押さえておかなければならない。ヨーロッパにとっては第二次大戦よりも、第一次大戦のほうが精神的衝撃は大きかったという説を聞いたことがある。それは合理と進歩の果てが大破壊に行き着いてしまったという事態に初めて直面したことがもたらすショックであり、第二次大戦のほうはその量的拡大に過ぎないというわけである。
さらに第一次大戦は、機械化された戦闘(戦車、飛行機、機関銃等)による大量死が顕在化した戦争でもあり、帰還兵にも身体に欠損を負って義手・義足、顔面を補綴するマスクなどを装着せざるを得ない者が少なくなかった。
「機械的頭部」はそうした時代背景を持つ作品であり、そこには機械と人間とのぶつかり合いによる破壊と暴力的統合が実現されている(この造形はのちの特撮映画のロボット、サイボーグのデザインにも影響しただろう)。
このベルリン・ダダを代表する作品が、のちの第二次大戦の戦勝国であるフランスの国立美術施設に収められている経緯はよくわからないものの、激動の現代史のなかの有為転変といったことを想わせ、何がしかの感慨を抱かせもする。
だがここで注目したいのはむしろポンピドゥー・センターの外観なのだ。
レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの設計によるこの建築は、およそ従来の「美術館」のイメージに反する、建設途中の工業施設を放置したような前衛的外観を呈しているのである。それは当然、完成当初、賛否両論の渦を呼び起こした。このポンピドゥー・センターの建築デザインにも、機械的なものと人間的なものとのぶつかり合いを統合した、機械化の美学とでもいうべきものが現れている。
そして、ISBNコード(国際標準図書番号)である。
この句の鑑賞は、ISBNコードを手軽に検索できるインターネットの普及を前提としてでなければあり得ない。作者当人にしても、あの本の表紙を思い浮かべる際に、著者名でもなければ書名でもなく、ISBNコードを最初に想起したということはおそらくないはずだ(と思う)。
つまりこの句のモチーフ、「機械的頭部」、ポンピドゥー・センター、句中のISBNコードの三点は、いずれも機械的なものと人間的なものとの暴力的統合による新しい美意識の創出という点において、みごとに首尾一貫しているのである。
「(ネットと)接続された人間」といった往時のサイバーパンクSFじみた言い方や、「マン・マシン」という単語が帯びる大仰さとはもはや随分と離れた、ごく日常的な陳腐な行為として、われわれはインターネット検索をし、ときにはそれで俳句の読解もする。《~の顔、パリに》という、たまたまふと目にとまっただけのような気安い物言いには、そうしたマン・マシン・インターフェースの現在と、その中での生活実感もひっそりと詠み込まれているのである。そしてそうした感触は、何も実際に検索を重ねずとも、気安さと鬼面的表現とが同居した言葉同士の組織体だけからでも、読者はうっすらと感じ取ることができるだろう。
作者が「ダダとシュルレアリスム」を賛しつつその系譜に自らを位置づけていることも確かであろうが、それを例えば、「歴史的前衛表現と現在の日常を踏まえた新たな美意識が実現されている」といった、いかにも野暮ったい教科書的な物言いにまとめ上げると、この句が持っている茶目っ気を取り逃してしまう。その茶目っ気がここでの「俳諧」なのである。
この句に難があるとすれば、ほとんど暗唱不能ということであろうが、忘れたらその都度検索しなおし、陳腐化したマン・マシンたる己を再確認すればよい。