俳句時評 第30回 松本てふこ

はたらく俳句

作句の時の自分は、生活に追われている自分と区別すべきものなのだろうか。俳句を始めて以来、実はずっと悩んでいる。

俳人の多くは、普段は社会人として俳句と関係のない仕事をして、休日や余暇を作句や句会の時間に充て、そのキャリアを積んでいく。自然と題材も、休日の風景をモチーフとしたものが増えてこよう。しかし、より嘘がないというか、自然な季節の把握が出来るのは、仕事から完全に解放されきらない、平日の風景によってではないか。それは例えば、食事休憩を取ろうと会社の自動ドアを開いたとたんに飛び込んでくる夏の日差しであったり、作業に疲れた目でみつめる窓の外の黄落だったりするのだろう。忙しない日々の中で季感を見つける感動と、日々の暮らし自体の平坦さがぶつかり合って生まれる、こうしたどこかいびつな詩情を作品にするのは、しかしなかなか難しい。世の多くの仕事にまつわる俳句がどこか言葉足らずであるのは、その仕事がいかなるものなのか説明しなければならない、という不自由さによるものの他に、その仕事によって作者が感じる身体的/精神的な疲れをも説明しなければならない不便さもあるようだ。私などは常にその不便さにハマり駄句の山を量産している。

私の所属する結社「童子」の先輩である、しの緋路句集『オオミズアオ蛾』(文學の森)における仕事の現場は、バレエスタジオである。

雲晴れて楽屋窓より見る青葉

「平成元年五月はじめて作った俳句」と前書きのある掲句をはじめ、決して多くはないのだが仕事に関する俳句がちらほらと出て来て、この句集の個性を際立たせている。職業柄、自然と前面に出てくる身体性が作品に効果的に使われ、充実と疲れを言外に匂わせながらも観念にもたれない、伸びやかでいきいきとした仕事俳句になっている。読んでいて楽しい。

オオミズアオ蛾バレエスタジオにて死せり
月謝袋に西瓜の汁がついている
教え子の大きお腹や神の留守
夜業して腕立て伏せもいたしけり
指先に心込めよと初稽古
着膨れしままに踊れりバレリーナ
初稽古はないちもんめにて始め
稽古場に大寒の日の当たりたる

表現でもあり教育の要素もある、という、この作者が携わる仕事の二面性が句の中からふっと匂い立つところが興味深い。そして作者はその二面性の中で自分なりに葛藤もするのだろうが、その二面性を基本的には受け入れている。演じさせることで教え子それぞれの内面を育みながら、広い意味での社会人としてあるべき心持ちも教えてゆく、その中で流れていく季節の時間、というテーマをこの作者は作句において自らの仕事と向き合うことで得たように思う。日々PCにはりつくように向かっているだけの私には、身体と心に正直に作られた彼女の俳句がまぶしくて仕方ないのである。

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