震災詠小感 清水亞彦
手元に「短歌研究」5月号がある。特集は「現代の96人」、男性歌人が作品7首(一部エッセイ付)を寄せている。同社恒例の企画で、端午の節句にちなんだアンソロジーだが、今年は発売日のめぐり合わせから、東日本大震災を詠んだ作者も多かった。
暗き夜をこほしむ老いらたゆるとき
粟散辺土 みづきゆくべし 仲 宗角
しけを知らす
天 の石笛 ぞ飯岡石響かざりしや襲ふ津波を 椎名恒治
春のうなばら巨大
波座 が走りきて三陸を破壊し破壊し破壊す 高野公彦
リアス式海岸は牙なるゆえにリヴァイアサンは召喚されて 藤原龍一郎
蝋の灯の照らす机上に少しづつ形変へゆく日本列島 内藤 明
草薙の
御剣 をもて原子の火しづめたまへよ熱田に祈る 大塚寅彦
詠み口はもちろん作者ごとに違うが、このたびの震災を、あくまで自然災害として受容する、そういったトーンは共通しているように思う。「天の石笛」「粟散辺土」「波座」「リヴァイアサン」といった語彙の選択は、震災の具体へ付こうとする方向ではなく、「現在」を長い時間の中へと置き直してやることで鳥瞰し、大きな諦観と共になぞり直す方向へと働いている。停電の下、机に開いた日本地図を見つめている内藤の一首は、そうした姿勢を象徴的に描いて哀しみを漂わせ、原発の炉心を呪鎮するために草薙の剣を呼びこむ大塚は、些か悪い冗談にも思える隔たりを一首へと圧縮している。
見ようによっては、消極的ともとれる歌人のこうした反応を、例えば「現代詩手帖」の特集号、或いは俳人長谷川櫂の『震災歌集』等々と並べたときに、そのすれ違いぶりは、なかなかに大きいのだろうと思う。「未曾有」の災害に対して、自らの言語をどう組織し直していくのか、という問題の立て方を、歌人はあまりしていない。むしろ、それまで各々が鍛えてきた修辞・統辞の力の後ろに、取りあえずは立て籠って「未曾有」が「未曾有」でなくなる呪文を唱えている風でもある。いわゆる前衛短歌の輝かしい波をくぐり、9・11では他ジャンルに遅れて社会詠論争を経験しつつ、大状況を詠む種々の試行を蓄積してきた短歌にとって、これは寂しいことかもしれない。けれども、その消極性の中に、澆季を凌ぐひとつの条理も、また存在するのではないか。
『震災歌集』の巻末に置かれた「歌の力」という文章。古今集の仮名序を二箇所で引きつつ、日本人にとっての詩歌の意義を述べる、連帯と「援」の文章だ。本家の歌人が口籠って言えない、或いは言わないだろう類いのコトバが、じつに明朗に綴られている。その不思議な程の明るさは、メディアの義援金募集に笑顔で応じる子供たちの姿や、ユニフォーム姿で被災者に語りかけるスポーツ選手の表情に、そのまま通じるように思う。「復旧」ではなく「復興」を。政治と経済システムの変革すべきは変革しつつ、そして、その先は。
八十年も前に書かれ、おそらく今も多くの歌人が、心奥に留めているだろう「歌の円寂する時」。歌の衰亡を蓋然として語りつつ、四句詩形への試行と共に、短歌形式そのものも、けっして手放さなかった迢空の有りよう。その苦さに盈ちた詩型への向き合い方が、世紀を跨いで、個々の歌人に行き亘った、という事かもしれない。それは公に向ける「援」の発想とは馴染みがたく、コトバをもってする連帯とも折り合いは良くなさそうだ。あえて言うなら元来の「捐」、義捐の節度となら、回路が開かれているだろうけれど。おそらく現代短歌という詩型は、既に「それほど体温の高くない」詩型へ変容を遂げているのだ。先に挙げた一種のすれ違いについて、私はそのように考えている。
もちろんこの先、力の籠った大連作が、発表されることもあるだろう。それは、ひと時を従来の修辞・統辞で凌いだ「捐」の側からかもしれないし、正しく「当事者」、罹災者の側から詠み出されるのかもしれない。が、おそらく後者という気はする。反応の迅速さや記録性へと赴かなかった、赴けなかった資質の歌人が、強大な津波と、その後の瓦礫を、反芻しつづけるだろう時間の厚み。「回想」と「叙景」とは、短歌の生理によく適う。回想による醇化を俟って、易く語られることを拒む景を、それでも描きつくそうとすること。それが未曾有の自然災害に対する、或いはもっとも短歌的な呪鎮のあり方かもしれない。この詩型が、いま一度賦活される機会を持つのは、震災の直後ではなく、更に時間を経てからだろう。
おわりに、同誌同号に載った、不思議な戦術の一連を掲げる。
95人の作品が明朝活字で組まれた中で、1人だけの手書き文字。しかも相当意識的に「拙」を演じているように思う。何やら反則めいた掲載なのだが、なまじな批難は躱せるだけの、内容と場への意識がある。震災のことには触れていないが、おそらく震災を受けとめた後、編まれた作と想像する。
れきしてきいきづかい 吉岡太朗
つなぎあうことに習熟してわたしきみのかたちに欠けている手よ
もおきみはうつくしいばか髪の毛をみみたぶごとなめるな
きみをおもちゃにしてるだなんてねーまさか楽器にしてるレの音を出す
けふわらわいちにちわらわとなりわらわそなたにせくすとやらがしたいぞ
くっついたままでくもみておたがいにえさあたえあうともう四時だ
くりかえす日暮れに輪郭をなくしても 紅茶にすこしのジンジャーをふる
手袋の編み目に雪が吸いこまれ会わなごこちもやさしいきみは
7首という数も、5月号という媒体も、この一連を手渡すためにプラスに働いているように思う。これより多い歌数では、忌避の感情が先立ちそうだし、震災詠の多く載る号でなければ、極めて個性的な行きかたでの哀悼の一連では? という誤読(或いは正しい読み)も起こらないだろうからだ。パソコンフォントでは伝わりそうにない「拙」の構えの徹底ぶりは、同誌を参照してほしい。
作者紹介
清水亞彦(しみず・つぐひこ)
1962年生、季刊「日月」所属。
同誌に玉城徹についての短章を連載中。