「短歌現代」11月号の特集は「新・写生論―短歌と現実」である。21人の評論とエッセイは、写生あるいはリアリズムの今日的姿を映し出しており、読み応えがあった。「写生」も「リアリズム」も半ば使い古されながら、私にとって、どこかいつも気になる文学用語である。
前田康子の評論「解体し脱構築する作業」は、実作者としての私の感覚に近く親しみを感じた文章だった。
実際に歌を作っていく上で、「写生」の部分にはかなりエネルギーを使って歌を詠んでいる。「写生」が働かないと表現のなかに錘のようなものがなく、一首が言葉のなかで浮遊してしまう。また、写生という作業をすることによって、そこから世界が突き抜け、思いもしない象徴的な言葉が飛び出してくる時もある。
前田の作歌工房をのぞき見した気分になるが、全く同感である。その上で、なぜ歌のなかに「写生」の部分がないと、錘がなくなるように感じられるのかという疑問が私の中には湧く。一首の中で「写生」の部分は、読者である私たちにどのような作用をもたらして「錘」を感じさせるのであろうか。
このような私の問いに直接答えてということではないが、黒瀬珂瀾は「火燄の香を見る」のなかで、玉城徹の写生論を論じつつ「写生」についての原理的考察を進めてゆく。
雪ふぶく丘(をか)のたかむらするどくも片靡きつつゆふぐれむとす
斎藤茂吉『小園』
玉城の写生論を端的に示すには「実景を対象として写すというのでなしに、実景の中から、そういう心の世界に共通するものを抽き出してきている」という同書(筆者注、玉城著『茂吉の方法』)での本人の言葉が適しているだろう。例えば右歌に関して玉城は「『片靡き』方を『するどく』と捉えたところに、一首のモチーフが存し」、こういう文人風の手法は子規がかつて自由に駆使したものだったと述べている。そして、「対象の形状、性格がただちに主観の状態を規定」し、「一定の主観の状態が、自分に適合した対象を選択する」という。この一首から当時の茂吉の「心の鋭さ」を読みとり、その状態を生みだした茂吉の生の在り方を感知するということになる。≪私性≫は世界と吾との関係性の中にこそ最もヴィヴィッドに表出されると言う短歌観であり、そこでは個人情報というノイズは排斥される。
玉城の写生論を紹介しつつ、自身の写生論がここに展開されているといって良いであろう。「対象の形状、性格がただちに主観の状態を規定」し、「一定の主観の状態が、自分に適合した対象を選択する」という、対象と主観の一瞬のうちに成立する関係性を重要視しようという玉城の短歌観に黒瀬は可能性を見出そうとする。個人情報はむしろノイズであり、文体に表れるであろう対象と主観の関係性に純粋に注目したいという所に特徴がある。そして、その黒瀬が玉城の「泛(う)き流れしつつはるけきユリカモメ流れのうへに雪降りやみぬ」を観賞すると次のようになる。
どこかの河口だろう、悠々と流れる水にユリカモメが泛かび、その上に今、雪の最後の一片が降り終わった。掲出歌が捉えたのは雪が消え去った一瞬のみで、背後には淡々と水が流れるだけだ。ここには眼前の世界と作者の主観がどう鬩ぎあったかの痕跡がある。この巧緻な文語表現と瞬間の認識自体が、世界が存在すること自体の強靭な力を感知する玉城の≪私性≫であり、この一瞬性にこそ主観が端的に反映される。『茂吉の方法』がそのまま玉城本人の歌論でもあることが良く分かる。
一見淡々と歌われた叙景的な歌あるが、しかし筆者などは「流れのうへに雪降りやみぬ」あたりにちょっとした躓き(なぜ「降りやみぬ」と瞬間に判定できたのか?など)と魅力を感じる一首である。黒瀬の観賞にはほぼ賛成する。写生に関する原理的なことを述べているのでやや硬い表現になっているが、テキストの「巧緻な文語表現と瞬間の認識」が玉城の「主観」を端的に反映したものであること、対象を把握する文体のちからが重要であることに、私は異議を挟まない。加えて黒瀬が「一瞬性」に注目していることを指摘おきたい。私の読みでは、まず冬の川をユリカモメがはるけく流れてゆく(時間的にも、存在的にも)という景があり、そのゆったりとした時間の流れの中に、今、雪が降りやんだなあと気付く一瞬があった、そのちょっとした意識の変化が何となくじんわりと来る一首である。結句になって初めて雪が出てきて、「流れのうへに」降りやんだという把握もうまいと思う。黒瀬の言う一瞬性はもう少し硬質な詩的世界の把握かもしれないが、瞬間の意識に注目しているという点では共感する点が多かった。
一瞬性あるいは対象と主観の関係性に注目するということでは、同特集中での大井学の文章「認識の生まれる瞬間」にも注目した。大井は斎藤茂吉の「実相観入」について、現象学の影響の可能性を(肯定的であれ否定的であれ)指摘している。そのうえで「「実相観入」という語によって表わされる「写生」とは、だから、能動性を伴った認識の様態であり、観照の対象となるものへの、歩み寄り、踏み込み、没入を、主体の側へ要求するものでもある」と考察を進める。現象学の影響については、今後精緻な考察や調査が必要かもしれないが、「「実相観入」という方法論には、意識の志向性や、知的・詩的探求の能動性があり、それによって認識の生まれる瞬間としての「実相」を写生することが可能になるのではないだろうか」という指摘は、黒瀬の視点と実は近いのではないか。
さて、黒瀬や大井と対照的な視点を「写生」に見出そうとしていたのは小林幹也「ヒューモアとしての写生論」である。小林は柄谷行人の漱石論を引用しながら次のように書いている。
柄谷は、漱石の「写生文」(「読売新聞」1907年1月20日)をふまえ、親が子供を見る態度だという漱石による「写生文」の定義を、フロイトのいう「ヒューモア」と合致するものだとして論じてゆく。(中略)「ヒューモア」とは、自我の苦痛に対して、超自我が「そんなことは何でもないよ」と励ますものである。耐えがたい現実におたおたとあわてふためく自分自身(子供=自我)を、もう一つの目(親=超自我)で冷静に眺め直すことによって、困難や苦痛から自分自身を一時的に遠ざけ守ることである。しかもそれで事態が抜本的に改善されるわけではない。一時しのぎの強がり、あるいは気休めのようなものである。その姿勢が結果として、周りの者を笑いに誘うことのあるに過ぎない、ともいえる。(中略)ささやかな志ではあるが、大震災後のうちひしがれた日本の状況を目の前にして、いま私たちに必要なのは、まさに「ヒューモアとしての写生」の精神だと思わずにいられない。
黒瀬や大井との視点の差は、論じている対象が茂吉ではなく子規であるところから来るのだろうか。自我や超自我というような心理学的な用語を使いながらも、「困難や苦痛から自分自身を一時的ない遠ざけ守る」など、どこかその論は実利的でもある。そもそも主観と対象と言うような思考法をしておらず、向日的で明るい。一瞬の感覚とか、認識の生まれる瞬間とか、自意識に苛まれるような自我の在り方を相対化するようにも思われる思考法ともいえよう。小林はこのようなユーモアは迢空に受け継がれていたとするが、その当否はさておき、このような写生観の可能性はあってもいいと思う。
今日において、「写生」「リアリズム」という言葉の捉え方は人によってさまざまである。私はそれを都合の悪いものだとは思わないし、言葉の定義を厳密に決めないと議論が進まないとも思わない。むしろその多様性、あるいは「写生」「リアリズム」という言葉をめぐる実作者の思いや詩学の交錯のなかに、それらの今日的姿が浮かび上がるのではないだろうか。