「河野裕子現象」と「多様性」、そして「文化」
河野裕子さんが昨年の八月十二日に逝去されて一年四カ月がたつ。
昨年から今年にかけて、短歌の世界を越えて「河野裕子現象」ということばを聞く機会も多かった。「河野裕子現象」とはなんだったのだろうか。
「短歌研究」12月号の「2011年歌壇展望座談会」でもこの「河野裕子現象」がとりあげられ、穂村弘が「ポピュラリティ」と表現した。それに対して、島田修三は河野の描いた家族関係が、心の交流みたいのがある、ちょっと昔懐かしい、我々の失ってしまった世界であり、それが「ポピュラリティ」の根源である、と説明している。
敗戦後六十年余りが過ぎ、半ばまではある意味では好調に発展した資本主義国家日本の社会は、バブルの崩壊に遭い、グローバリズムに翻弄され、リーマンショックに遭い、わが国の「家族」は波の上で上下する舟のように揺すぶられ、すっかり姿を変えてしまった。「家族の崩壊」といわれるようになって久しく、「無縁社会」「孤族」といったことばが新聞、雑誌で目につきだしてからも、かなりのときが経つ。短歌の世界にも「ホームレス歌人」が現れ、そして、今年の三月の大震災と原発事故による家族の消失、家族の分解。
そうした厳しい現実に生きる者たちには、河野裕子の描く幸せな家族のすがたはひとつの理想像と見えたにちがいない。
それにプラスして、ガンという現代病を得てしまったひとの「弱さ」。
病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
河野裕子『母系』
かなしいうたである。病む前の河野は「絵に描いたように」幸せなひとと思われていたのではないだろうか。歌の才能に恵まれ、家族に恵まれた、京都という地に住む歌人。作品には「かなしい」「さびしい」のことばがたびたび表れたが、現実に生きている人としては、羨まれることはあっても同情されたり、ああ、私と同じ苦しみを担っていると共感されることの非常に少ない人生を歩んでいたはずだ。それが、ガンという病に捕まり、快癒したと喜んだところで再発がわかるという、「弱さ」を背負った。
「弱さの強さ」を松岡正剛が一冊にまとめているが(『フラジャイル』)、よく知られているように、文学作品における「弱さ」は大きな「強さ」である。とくに詩歌、なかでも「短歌」という、湿気をことのほか珍重する日本独特のものでは、この「弱さ」、「脆さ」、「はかなさ」といった「壊れもの注意」の札の貼られる「フラジリティ」は作品における最強無比のものになる。さらに、河野が晩年に多く作った境涯詠の場合は、読者は作者と作品とを重ねて読んでしまうので、この「弱さの強さ」が巨大な力を発揮する。
そのうえ、この十年ばかりのあいだに、河野の短歌作品自体もしだいにほどけて口語の使用が頻繁になり、「読みやすさ」、つまりリーダビリティが飛躍的に増大した。
「昔懐かしい家族像」、「弱さの強さ」そして「読みやすさ」を武器に、河野裕子の短歌は「河野裕子現象」といわれるまでの大きなポピュラリティを獲得した。だが、河野の真価はポピュラリティにのみあるわけではない。多くの人がすでに述べているように、短歌の世界における河野の作品の詳細な研究はこれから始まる。
「2011年歌壇展望座談会」では穂村弘の重要な発言があった。
女性の短歌の場合とくに、河野のような、いわば境涯詠が短歌的に主流という印象があって、それ以外のバリエーション、たとえば永井陽子、紀野恵、水原紫苑といった「境涯詠以外の短歌」を作る歌人に対する価値の置き方が小さすぎるのではないか、という発言である。「人生を引っ張ってこないとだんだん不利になってくる」と、表現している。
まっとうな発言である。
「多様性」に欠ける生物はまっしぐらに絶滅に向かい、「多様性」に欠けるジャンルを待っているのはただ消滅のみである。
「われ」に焦点が当てられるようになったのは、日本ではたかだか100年ほど前からであり、そして「われ」はほんの50年、せいぜい100年ほどしか生きない、活動範囲もそうとうに限られている生きものだ。「われ」につながるもっと長いスパンで、もっと広い空間で、もっと深い感覚で短歌を作ろうという動きが一度は拡がりかけ、その後停滞しているように見える。
疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ
葛原妙子『朱霊』
坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし
葛原妙子『葡萄木立』
ヌマタラウとこゑに出だしてよびやればヒシクイ雁自らの名を知る者を見め
森岡貞香『百乳文』
夕方の道のべにわが現はれて羽ばたきをせり人ら知らずも
森岡貞香『少時』
葛原妙子も、一昨年亡くなった森岡貞香も、詠む対象を「われ」の目に見えるもの、耳に聞こえるものだけに限りはしなかった。「われ」を通して考えに考えて、広く遠い空間や想像界、抽象に至るまでうたをつきつめた。
あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ
永井陽子『ふしぎな楽器』
サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい
大滝和子『銀河を産んだように』
美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より
水原紫苑『びあんか』
カフカ読みながらとほくへ行くやうな惚れあつてゐるやうな冬汽車
紀野 恵『奇妙な手紙を書く人への箴言集』
麒麟はね、立ったまま死ぬ頭頂の角より順に粉になるため
東 直子「象牙の傘」(「短歌研究」2011年11月号)
境涯詠はたしかに作りやすいものかもしれない。作者の人生と重ねて読まれるので共感を得やすいであろう。年齢を重ねるとともに精神活動の枠が定まり、実人生から離れたものは作りにくくも読みにくくもなるのかもしれない。
だが、境涯詠以外にもこんなに豊かで、美しく、深く、謎に満ちた短歌の世界があるのだ。故人となってしまった永井陽子は措くとしても、大滝和子、水原紫苑、紀野恵、東直子など「われ以外の対象〈も〉」詠む歌人の活発な創作と、それにつづく「われ以外の対象〈も〉」詠む大勢の歌人の登場により、短歌の世界の多様性が大幅に拡がり、豊かになっていくことを心から願う。
短歌新聞社発行の「短歌現代」は先日発行された12月号を最後に、「短歌新聞」は間もなく出る12月号を最後に終刊し、短歌新聞社自体が来年の3月をめどに解散する予定だという。
短歌の「多様性」の観点からしても大きな悲劇である。
「短歌現代」12月号の歌壇時評に、今井恵子が「短歌新聞」の編集方針をあらためて示している。「歌壇の公平」と「不偏不党」。この姿勢には敗戦後8年目に創刊された「短歌新聞」の掲げた清々しいまでの「戦後民主主義の理想」が見え、60年弱の年月を経た現在も創刊時のこの姿勢はかわっていないと、今井は書く。これは「短歌新聞社」そのものの姿勢なのだろう。
短歌新聞社は、一カ月100円で購読できるタブロイド版12ページの「短歌新聞」、一冊500円で購入できる、短歌総合誌としては格段に安価な「短歌現代」を毎月発行してきた。町の本屋さんでいちばん手に入れやすい短歌の総合誌は「短歌現代」だった。そして「短歌新聞社文庫」によって、斎藤茂吉、釈迢空、土屋文明を筆頭とする先輩歌人の有名な歌集まるごと一冊を700円で入手することができた。「短歌新聞」11月号の社説によれば、同社が手がけてきた歌集、歌書の総数は7,000点に上るという。田中濯が第23回短歌時評でいうように、短歌を底支えしている、層としてはいちばんぶ厚い人たちの身近にある出版社だった。
「短歌新聞社」が当初の姿勢を変えることなく、時流におもねることなく、ある意味では地味に地道に60年近く事業を続けてこられたのは、個人オーナーの経営する出版社だったからかもしれない。出版社といえども、営利を追求する企業体である。この出版不況の時代に「出版は文化である」と鷹揚に言ってはいられないことはよくわかる。
だが、実際に出版されている雑誌、書籍は、おもはゆい言葉をあえて使えば間違いなく「文化」であり、今井が言うように、永年培われた、短歌界をデザインしようとする意識を持った「編集」という技術も、もちろんひとつの「文化」である。その「文化」を当然のように享受してきた私たちは、それを次の世代に引き継ぐ責任を持っているのではないだろうか。
「文化」の重さを量ってみた。
手許にある「短歌研究社文庫」の前川佐美雄の『捜神』一冊の重さは85グラムである。
たまたま手許にある、最近発行された歌集一冊を量ってみたら、490グラムあった。
たとえば旅行に出かけるとき、旅のつれづれにと歌集を一冊バッグに入れるのに比べて、「短歌研究社文庫」ならば、五つのポケットに一冊ずつ歌集文庫を差しこんでも、歌集一冊を持つより身軽に旅を続けることができるのだ。なんという「文化的」な「文化」の提供の仕方だろう。
もし、短歌新聞社の解散と共に、発行してきた「短歌新聞社文庫」も選書、叢書も歌集も全集もすべてが霧消してしまうとしたら、それは、次の世代に伝えるべきひとつの「文化」を目の前でむざむざと消滅させてしまうことである。
「単行歌集をまるごと収録したこのシリーズがすべて失われた後の空白を想像するのは恐ろしい」と、「短歌新聞」11月号の社説に、「短歌新聞社文庫」の消滅後を憂える文章がある。短歌に係わる者ならだれも一様にその恐怖を覚えるであろう。手をこまねいて目の前で文化が消滅するのを見ていなければならないと考えると、どうしようもない無力感に襲われる。