短歌時評 第35回 田中濯

ふたたび震災詠について その一

国の機関である「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」が中間報告を日本語版・英語版の両方で発表し(英語版は現在アブストラクトのみ)、その全てをWebにアップロードした http://icanps.go.jp/post-1.html。数百ページにわたるので全て読むのはたいへんだが、例えば「考察と提言」のVII章のみを読む、というのはひとつの方策である。これまで多くの人間がいろんなことを言ってきたが、日本国が諸外国へ発した責任ある文章である以上、今後はこの文章を叩き台にして議論するのがまっとうな振る舞いであろう。本文は以下の文章で結ばれている。

今回の原子力災害は、まだ終わってはいない。現在も、長期間にわたる避難生活を強いられ、あるいは、放射能汚染による被害に苦しんでいる多くの人々がいる。被ばくによる健康への不安、空気・土壌・水の汚染への不安、食の安全への不安を抱いている多くの人々がいる。こうしたことを銘記しながら、平成24 年夏頃に予定している最終報告に向けて、当委員会は更に調査・検証を続けていく。

さて、もはや道化となった歌人の話をしよう。

 日本の原発の件は大体終わつたと思ふが。
典型的<スケープ・ゴート>の症例の一つと思へ、思(も)へば休まる 短歌研究2012.1
風評のなかを原発が歩いてゐたさびしい国よそれも終わつた 角川短歌2012.1
                       

/岡井隆

この妄執は、いったい何なのであろうか。最近、岡井は『わが告白』という本を出版しており、その最終章において、熱烈に原発を支持している。私は彼のプライベートにはまるで興味がなく、彼の歌の読みにその価値を認めようとはほとんど思わないが、彼の思想詠にこの原発に対する「歌人の異常な愛情」が浸透していることは、無視してはならない、と考える。その意味では『わが告白』の「告白」は大きい。

 完全に想像であるが、おそらくは、アメリカ、に対する憎悪と愛情のコンプレックスを、敗戦時に青年であった日本人は、いまだに拭いがたく持っているのではないだろうか。原爆。象徴天皇制。安保。歌会始選者。岡井の歩みにおけるこれらのトピックは、親・原発というただ一つの発想によって縫い合わされるのではないだろうか。原爆は、数十万の死者に加え、日本の生き残った若き選良(たち)に、深く強い呪いをかけたのではないのか。その呪いが、いままさに岡井の短歌に顕現しているとは言えないだろうか。

 3.11後に「転向」を拒んでいるという点で、岡井は筋を通しているのだろう。だが残念ながら私は、事実に基づかない短歌(岡井は一時期、科学の徒であったのだが)、新たな被曝者(岡井もその一人なのであるが)の心情を置き去りにする短歌、を認めることはできない。彼に必要なものは、もしかしたら哀れみのみなのかもしれないが、本稿の執筆動機は、まずは怒りであったことを明記しておこう。

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