「なに読もう」
新しい年が明けたばかりと思っていたら、すでに二月に入ってしまった。
現在読める月刊のいわゆる短歌総合誌は、角川「短歌」「短歌研究」「歌壇」「短歌往来」の四誌である。定期的に発行される「雑誌」は、新年になれば新しい連載企画を打ち出し、読者に新鮮な風を届けようとする。四誌の一月号、二月号が出揃ったのを機会に、各誌の新しい連載のページや特徴をくらべてみた。
各誌の内容は大きく括って四つのパートに分けられる。
① 「短歌作品」掲載のページ。
これは「短歌総合誌」の当然いちばん重要なパート。さまざまなかたちで作品を紹介する。特別なテーマを設けたりエッセイや写真を絡めたりすることも多い。
この分野での新連載企画としては「歌壇」の「期待の作家クローズアップ」が一月号から始まった。将来を期待される歌人の30首、6ページと、その歌人を別の、こちらも〈期待の〉とつきそうな歌人が紹介する4ページ。全部で10ページを使う大型企画である。「Promising」という若手歌人の作品15首を掲載するページがすでに「短歌往来」にあるので、期待の作家の作品30首掲載はともかく、400字詰め原稿用紙にして10枚半ほどのスペースを与え、現在進行形の対象歌人の作品について別の歌人に忌憚なく語らせるのは、ある意味で冒険心に満ちた新鮮な企画だろう。一月号は石川美南の作品「human purple」と真中朋久の「石川美南論 越境する〈私〉」の組み合わせ、二月号は藤島秀憲の作品「雪の魚」と都築直子の藤島秀憲論「ありそうでなさそうな場所――雪の降る町で」との組み合わせで、どちらも力のこもった作品、紹介である。
新企画ではないが、「短歌研究」の「作品連載」のコーナーでは、九人の決まった歌人の作品を二年間じっくりと読むことができる。毎号の「作品連載」に一組三人、三組の歌人の連作30首ずつが掲載されて、八回、二年間続く。つまり、ひとりの歌人について見ると読者は三か月に一度30首ずつ、二年間で240首の作品を読めるという、贅沢なコーナーである。
② 「読みもの」のページ。
短歌や歌人に関連するエッセイ(硬軟、長短、さまざま)、評論、評伝、短歌の鑑賞など、読者の興味をひきそうな、かつ短歌についての知識、教養を深めるのに役立ちそうな種々の「読みもの」の掲載も、短歌総合誌の大きな柱になっている。グラビアも「写真による読みもの」としてここに含まれるだろう。
角川「短歌」ではこのパートの「新企画」が目白押しで、「グラビア&エッセイ 超世代対談 この人に聞く」、「巻頭エッセイ わたしの一冊」、「若手歌人による近代短歌研究」、「私の好きな旅の秀歌」、「私だけが知っている一首」、「連載評論 はじめてのおもろ」、二つの連載エッセイ「日々のいろいろ」と「今日の放課後、短歌部へ」と、実に八本の新しい読みものが始まった。だが、これらは「この人に聞く」にグラビア3ページと先輩歌人と対話した若手歌人の感想文のようなもの3ページ(文字数は400字詰め原稿用紙にして4枚強)の都合6ページが当てられているのを除けば、他のエッセイや評論の類はすべて1ページか2ページもので、ちょうどコラム記事が何種類も並ぶような構成になっている。一月号で「共同研究連載『前衛短歌とは何だったのか』」という重量級の連載が終わったばかり、ということもあるだろうが、どれかもうひとつくらい重量感のある新連載企画があってもよかったのではないか、という気になる。
「短歌往来」の特徴のひとつは、「評論シリーズ 21世紀の視座」と銘打った、毎号異なる執筆者による評論のページが7ページ設けられていることであり、二月号でシリーズ107回目となる。一月号からは新しい連載評論が加わった。喜多弘樹の「前登志夫――素顔と風土」。吉野山中に育ち、暮して2008年に亡くなった前を、青年のころからよく知っていた筆者が憧れと懐かしさを込めて書いている。
「歌壇」でこのパートにあたらしく加わったのは「自歌自戒」と「空間の短歌史」。 「自歌自戒」は歌人が自分の短歌一首を挙げて自歌自解しながら自戒するコラムであり、「空間の短歌史」は短歌の生まれた時代の背景と空気をその時代のひとりの歌人に執着しつつ川野里子がこまやかに記していくもので、樋口一葉から始まった。もう一歩で歴史小説のとば口にさしかかる気配があり、興味深い。「読みもの」とは言えないが、二月号に「歌壇賞」の発表があり、受賞者の平岡直子の「受賞のことば」の中の「この先、短歌と一緒に何ができるかを考えて、今とてもわくわくしています。」という一節に新鮮な喜びがひらめいているのを読んでうれしくなった。
「短歌研究」はこのパートではとくに新しく始まったものはないが、藤島秀憲の「短歌と笑い ときに寄り道」のけんめいのサービス精神と黒瀬珂瀾の「蓮喰ひ人の日記」が、後者は詞書を主体としてのこのパートへの分類であるが、あいかわらずおもしろく、読ませる。
③ 「批評」のページ。
「作品評」「時評」「書評」のページがここに含まれる。ある意味でその雑誌の考え方がわかる欄になるはずだ。「作品月評」「短歌月評」「作品評」は、担当執筆者が自誌、ときには他誌の最近号から選んだ短歌の読みとそれにまつわる評などを短く記すページで、どこも4、5ページが充てられている。「歌壇」「短歌往来」は二カ月前の号の作品を対象とするが、角川「短歌」は一カ月前の号が対象となる。以前に読んだ作品でもこの欄で採りあげられて目にすると、読みが違ってきたり、新たな感慨を持つことがあって、自分以外のひとの読みを知ることの大切さがわかる。「短歌研究」は「月評」はないが、一連の作品、一冊の歌集といった「塊としての作品」を俎上に載せて三人の歌人が論じ合う「作品季評」のページがあり、一首ずつの批評に加えて一連、一冊としての作品の解釈のされかたを14ページにわたり詳しく読むことができる力のこもったコーナーであり、読みものとしてもすぐれている。毎号掲載されるわけではないのが残念だ。
「時評」は、担当執筆者が短歌および短歌の世界の動向について鋭く手短に批評するページで、「時をつくる」性格も求められ、一冊の中ではたぶんいちばん読まれやすい欄だろう。各誌特徴が異なるようで、角川「短歌」は「歌壇時評」の名目で分量は400字詰め原稿用紙4枚弱、「短歌研究」は「短歌時評」で約7.5枚、「短歌往来」は「評論月評」という性格で7枚弱、「歌壇」は「時評」で5枚弱である。なにかおかしいな、と思っていると、この欄によって、そうだったのか、とわかる場合もある。ある程度の先端性とある程度の過激さ、そして配慮の求められる、執筆者にはいちばん気苦労の多い欄ではないだろうか。
「書評」欄は刊行された歌集、歌書の類を紹介するコーナーで、毎月多くの書籍が刊行されるためこの欄も大きなページを占める。
④ 「投稿」のページ。
新しく始まったコーナーはないが、読者≒作者である短歌における雑誌なので、力が入っている。誌上に自分の作品が載れば投稿者も気分が高揚し、短歌に対する情熱が高まる。角川「短歌」は「角川短歌クラブ 誌上添削教室」、「題詠を詠う」、「公募短歌館」と三種類の欄があり、合計26ページが充てられている。「短歌研究」は「短歌研究詠草」と「うたう☆クラブ」の二つのコーナーを持ち、前者は5首、4首等、複数の作品が載る可能性もある。後者は珍しく横組みのページで、投稿者とコーチとのメールによるやりとりによって作品を磨いていく道すじが読める。前者に20ページ、後者に9ページまたは10ページが充てられている。「短歌往来」にはとくに投稿のページはない。「歌壇」には「読者歌壇」のページが6ページ設けられている。
ところで、「月刊短歌総合誌」の枠には入らないが、筆者が毎日ひそかに愛読しているものに砂子屋のホームページの「一首鑑賞*日々のクオリア」と「ふらんす堂」のホームページがある。ふらんす堂は主として句集を作っている出版社らしいが、歌人の(今年は小島ゆかりの)短歌一首に短いエッセイのようなものを加えて毎日「短歌日記」が掲載され、一年分が溜まるとそれをまとめて一冊の歌集が作られる。毎日出来たてほやほやの短歌一首を読むのはなんとなくうれしく、ホームページに盛りだくさんに載せられている、短歌の隣の領域である俳句や詩の作品やその解説を読むのも、ちょうどこの「詩客」のいろいろなコーナーを覗くように、ちょっと華やぐ気分がある。一昨昨年、一昨年の「短歌日記」の執筆者、岡井隆と東直子の一年分の日記をまとめた歌集、『静かな生活』と『十階』の装丁のおしゃれなこと。いま、ふらんす堂では短歌に係わる別の企画が進行中らしい。短歌の世界から少し離れた場所からの越境企画はきっと刺激になるだろう。
それにしても、長谷川櫂の『震災歌集』の例もあるように、俳句から短歌領域への越境者はわりあい簡単に壁を乗り越えてくるが、短歌の側から俳句の領域へのめざましい越境者が見えないのは、少しいぶかしい気もする。詩や小説への越境者は何人かいるようだから、ひとは〈長い方へ〉越境していくのだろうか。