短歌時評 第40回 玲はる名

「心象詠」の読みの可能性

 子規の万葉回帰や写生歌の提唱は、その後の馬酔木系・アララギ系の礎となったが、後進の歌人は子規の模倣ではなく、独自の解釈によって道を切り開いてきた。茂吉や文明も、左千夫や赤彦がいるなかで独自の写生論と実作を残してきた人たちである。アララギが終刊した原因のひとつには、その末期に歌論においてまた実作において、独自の歌を残せる後継者が出てこなかったことがあげられている。それだけ先人が偉大であったとも言えるが、その事実についての検証は本稿の目的と違うために除かせて頂き、今回は茂吉の写生歌の一側面について書く。

月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど  大江千里
 
上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。この歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、もしわが身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥り申候。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。

 子規の『歌よみに与ふる書』「四たび歌よみに与ふる書」に出てくる「歌は感情述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。」は、短歌においては感情を述べ、理屈を述べない。子規以降の人々はこの論を下敷きとして独自の歌論、独自の歌を模索した。その結果、写生歌は一様ではなく、その歌人によって特色を持っている。

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり  斎藤茂吉

 この歌は斎藤茂吉の『赤光』(明治三十八年から大正二年までに至る足掛け九年間の作品)のなかの一首である。伊藤左千夫選の時代である。当時について茂吉自身の著作『作歌四十年―自選自解』(筑摩叢書)で自註した箇所をまず引用する。

 赤茄子は即ちトマト(蕃茄)で、私の少年のころ、長兄が東京からその種を取り寄せて栽培したが、そのころも矢張り赤茄子と云っていた。大正元年頃でもトマトと云った方が却って新鮮に聞こえるのであったが、一首の声調のうえから、赤茄子と云ったのであっただろう。これは東京郊外で作った。この一首は、意味が分からぬ、曖昧である、誤魔化であるなどと批判せられたものであるが、それは批評家は、詩に常識的な合理性を要求するためであって、そういう人々は普通の人の日常平談の標準を以って用向を足そうとし、それに当て嵌まらぬ歯痒さから、この歌を誤魔化などと云って除けるのであるが、この歌は、字面にあらわれただけのもので、決してその他のからくりは無いのである。トマトが赤く熟して捨てられて居る、これは現実で即ち写生である。作者はそれに目をとめ、そこを通って来たが、数歩にしてふと何かの写象が念願をかすめたのであろう。その写象というものには一種の感動が附帯していることが分かる。その抒情詩的特色をば、こういう結句として表現せしめたものに相違ない。そういうのをも私は矢張り写生と云って居る。写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達するという考は、その頃から既にあったことが分かる。この一首は今から顧てそんなに息張るほどのものではないが、兎も角記念として保存して置くのである。

「トマトが赤く熟して捨てられて居る、これは現実で即ち写生である。」とある通り、この歌は捨てられた赤茄子を表現した写生の歌であろう。但し、佐藤佐太郎はこの歌や前後の頃の写生について

 私は大体このあたりを以って「赤光」のスタイルが完成されたと解釈しているが、これらの歌は従来の歌にはなかつた新鮮な生命の鼓動を籠めて、抒情詩としての短歌の世界に新しい扉を開いたものであつた。

としている。佐太郎がいう「従来の歌にはなかつた新鮮な生命の鼓動」とは子規の「感情述ぶる」にあたるのではないか。「抒情詩的特色をば、こういう結句として表現せしめたもの」とある叙情的特色というのは「歩みなりけり」の言葉に与えられた叙情(感情を述べ表すこと)が読者に余韻として脈打つように志向された特色を持つ一首の構成である。佐太郎でいうところの「赤光」のスタイルは、「赤茄子」の歌でいえば写生+α(抒情詩的特色)によって完成されている。

「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達する」それは「心象詠」(意識の中に現れてくる像や姿)であり、歌の肝となるのは象徴とその抒情詩的特色(余韻)となる。

茂吉は、膾炙した心象詠を否定するのだが、茂吉自身はこの歌に合理性を求めることを拒否している。そうであれば、心象がこの歌のあり方を決定していると茂吉自身が感じていたに違いない。

「それは批評家は、詩に常識的な合理性を要求するためであって、そういう人々は普通の人の日常平談の標準を以って用向を足そうとし、それに当て嵌まらぬ歯痒さから、この歌を誤魔化などと云って除けるのであるが、この歌は、字面にあらわれただけのもので、決してその他のからくりは無いのである」は、従って額面どおり受けとることが難しくなる。

この歌への言説が「赤茄子」の正体をめぐるものであったことを、茂吉は念頭に自註している。茂吉によれば、「赤茄子」とは「赤く熟して捨てられて居る」ことを通じて自らにかすめた「何かの写像」であった。何かの事実をもってその「写像」を特定することはおそらくは不可能であり、またその不可能性に帯びていることも含めて「近代的で新しい歌」という評価を得た。

そのためか、この歌には人生の歌、恋の歌、自然の歌、故郷の歌、性愛の歌、など諸説存在する。

 次に茂吉の山形的色彩について触れておきたい。

「赤茄子は即ちトマト(蕃茄)で、私の少年のころ、長兄が東京からその種を取り寄せて栽培したが、そのころも矢張り赤茄子と云っていた。大正元年頃でもトマトと云った方が却って新鮮に聞こえるのであったが、一首の声調のうえから、赤茄子と云ったのであっただろう。これは東京郊外で作った。」

 この歌は茂吉が東京郊外にいるときに、故郷での赤茄子に纏わる出来事を想起して作られている。体は東京郊外にあり、木の実や紅茸のある道の前後に赤茄子もあった。(参照)『斎藤茂吉 (コレクション日本歌人選)』(小倉真理子著書)

 「トマトが赤く熟して捨てられて居る、これは現実で即ち写生である。作者はそれに目をとめ、そこを通って来たが、数歩にしてふと何かの写象が念願をかすめたのであろう。その写象というものには一種の感動が附帯していることが分かる。」

 茂吉はこのように語っているので、心(作中主体の)は故郷に向いていたのではないかと思う。赤茄子は直接的に当時赤茄子が植えられていた茂吉の故郷に繋がっている。

 この歌が作られたのは明治四十五年。「死にたまふ母」の二年程前の作になる。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ

茂吉短歌において「赤」が母親を想起させる「赤」として語られている実績がある。『赤光』の「死にたまふ母」の一連は間歇的に「赤」に色彩されている。

長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の邊の吾が朝目には見ゆ
のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
おきな草口あかく咲く野の道に光ながれて我ら行きつも
星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
さ夜ふかく母を葬りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも
山腹に燃ゆる火なれば赤赤とけむりは動く悲しかれども
しみじみと雨降りゐたり山のべの土赤くしてあはれなるかも

 以上は「赤(丹)」が直接詠み込まれた歌だが、それ以外にも「赤」を連想させる「火」や「焼く」が一首に込められたものもある。茂吉にとっての「赤」とは、「死にたまふ母」や「葬り」を容易に思い起こさせる色であったのではなかっただろうか。

死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁の色のみづ見ゆるかな

 これらの歌を読む上で、茂吉にとっての「赤」は母のイメージというよりは、「命」や「動」であると捉えたほうが一首のなかでの意味の重複は避けられる。

 「足乳根の母」「乳足らひし母」「わが母の乳汁の色」は赤い色彩のイメージのなかで語られるが、赤茄子が直接的に母を示すとは必ずしも言えない。しかし、茂吉にとって「赤」が母を想起するには近いところにあったのではないかと思う。「赤茄子」の歌については、それも含めて生死という全体を捉えることもできる歌ではある。

 赤茄子はそのものの存在と同じ程度に、「赤」という色彩を歌に採用することが「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達するという考」において必要だったのだと考える。

 「赤茄子」の歌は、茂吉の山形的色彩と共に、絵画的な構図を持つ歌である。歌から読むことのできる点を整理しておきたい。

 この歌は、「心象詠」である性格から、時間的尺度で読まれることもあるが、画の構図として位置的なことを言わせてもらえば「赤茄子が赤く熟して捨てられて居る」ところは後方にあり作中主体は前方にある。作者は振り返るでもなく、意識を後方にある赤茄子のある方向へ集中させてゆく。位置的には作中主体の背後に赤茄子が存在することになる。

 前回書いた時評のなかで歌を引用した際に「この歌は斎藤茂吉が母を背負ふ歌を連想させる作りとなつてゐる。」と書いたが、論拠が必要だとのことだったので書くと

 日本語としての「背負う」の意味であるが、

(1)背中にのせる。

(2)負担になることや重い責任のあることを引き受ける。

(3)あるものが背後になるようなところに位置する。背にする。

このうちの、今回は2番3番の意味が妥当だと思う。前回書いた時評では天皇陛下の歌について書かせて頂いた際に、茂吉と俵万智氏の作品を引用させて頂いている。

親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト  俵万智
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり  斎藤茂吉

 文章の趣旨として俵氏の歌は「トマト」と「赤茄子」をキーとして、茂吉の歌を連想させるものであるということを伝えようとした。俵氏の「親は子を」の言葉は茂吉の歌にも母親を連想させるということが言いたかった。そのため、同文に「茂吉が母を想ふほどの愛の重さ」とも書いた。

 話をすこし戻すが、この赤茄子と作中主体の位置関係について、ひとつ想起されることがある。それは、エドヴァルド・ムンクの「叫び」という絵画作品である。「『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品でもっともよく知られ(wikipedia)」とあるが、茂吉の歌のテーマはムンクとは違うが、赤茄子から有る程度歩いたところに自我がある点において、構図的にはムンクの「叫び」に近く、自画像の背後に大きなイメージバック(壁紙的な)を背負った状況なのではないかと考えている。

 茂吉はゴッホ、ダヴィンチ、ルノアールなど西洋絵画を広範囲に研究していた。絵画の全体をスケッチし、番号や指示記号などを振りながら詳細にメモを残している。茂吉にとって絵画と文学の写生は近いところにあった。(参照)『齋藤茂吉のヴァン・ゴッホ――歌人と西洋絵画との邂逅』(片野達郎著・講談社)

 この歌を「叫び」の構図と同列に述べることは、筆者の発想の範疇であるが、構図に遠近法を採用している作品がゴッホやダヴィンチにもある点を考えれば、歌に遠近法を採用する可能性はあると考えている。

 ちなみに、片野達郎氏の同著においても、「茂吉芸術と出羽の風土」について書かれている部分がある。

 日本の近代詩歌は、啄木、犀星、朔太郎の作品に見るごときすぐれた望郷の詩歌を持つが、彼等のうたは、故郷喪失者としてのなげきのうたであった。茂吉にとって故郷や故郷の人々は、「遠きにありて思ふもの」(犀星)でも、「石をもて追」(啄木)うものでもなく、むしろ苦難多きその人生を救う働きをした。

 腐った赤茄子の描写が一首に構築されてゆく間合いに「従来の歌にはなかつた新鮮な生命の鼓動」が息づくのには、母親や故郷という源があったのではないかと筆者は想像している。

 補足的に書くが、俵氏が茂吉の歌を意識していたかどうかは分からない。前回の引用は作者の意識ではなく、筆者が読者として読んだ俵万智『サラダ記念日』におけるトマトの歌の印象である。

 『サラダ記念日』のトマトに関する歌にはこのようなものがある。

母からの長距離電話青じそとトマトの育ち具合を話す
庭に出て朝のトマトをもぎおればここはつくづくふるさとである

 俵氏の場合、サラダ記念日に詠われていたサラダも実際はカレーであったというので、この歌たちも必ずしもトマトであったとは限らない。但し、作中主体がそこに想起するものは母親やふるさとである。

そら豆が音符のように散らばって慰められている台所   俵万智
そら豆の殻一せいに鳴る夕われにつながる母のソネット  寺山修司

 俵万智は寺山修司が好きだという発言をしていたことがある。歌集に書かれているわけではないが、この歌は寺山のそら豆の歌に対するオマージュだと思われる。茂吉の歌にしても、俵氏にとって茂吉はある程度身近な歌人だったとすれば、トマトが赤茄子の歌と比較対象となることは突飛なことだとは思われなかった。

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