短歌時評 第42回 花鳥佰(かとりもも)

歴史はやはりくりかえす

2月26日(日)に青山のアイビーホールで行われたシンポジウム、「今、読み直す戦後短歌」の五回目「前衛前夜 PARTⅡ」に出席した。出席者は160余名。

このシンポジウムは秋山佐和子、今井恵子、川野里子、佐伯裕子、西村美佐子、花山多佳子の超結社の6人の女性歌人が2009年7月に始めたもので、今回は「前衛前夜」の二回目。今回の「前夜」の範囲は広く、1920年代から前衛短歌運動の活発になる1955年ころまでが含まれた。

秋山佐和子と佐伯裕子がそれぞれ1時間ずつ基調発言を行った。秋山の発言のタイトルは「短歌の新形式――石原純の歌と論」。佐伯の題は「戦後短歌の時間軸――阿部静枝・葛原妙子・斎藤史」。

石原純(1881~1947)はアインシュタインにも学んだという理論物理学者であり、一般には原阿佐緒との恋によって有名な、と形容がつく歌人だろうか。岩波書店の「科学」の創刊から立ち会ったと聞けば比較的身近に感じられる。

美しき⁄数式があまたならびたり。/ その尊さになみだ滲みぬ。 『靉日』
停車場の名をかかげある⁄ろしや字が眼に触れにけり。/ ただにさびしく。

石原の歌集は1921年刊の『靉日(あいじつ)』一冊しかないが、そこに収められているのは一首目のような、いかにも物理学者らしい歌であり、後半には、滞欧経験とシベリヤ鉄道の印象をうたった海外旅行詠の嚆矢ともいえる二首目のような歌が入っている。この二首は『現代短歌大辞典』から引いた。

このように多行書きであったり句読点がついたりと形式に工夫がされてはいるが、ほぼ定型の短歌を作っていた石原は、1921年の「アララギ」からの脱退を機に、そしてさらには関東大震災の翌年、1924年の「日光」の創刊への参加をきっかけに、「新短歌」という自由律多行書きの短歌を提唱するに至った。

雲には だれもさはれない。
でも、あそこでは ちひさな清浄な水つぶが
いつも ふしぎに踊つてゐるのであらう。   「雲」(1940年3月)

「新短歌」をはじめて読んだ私には、この作品は「自由詩」としか思えないが、当時の「アララギ」のリゴリズムに身を硬くし、そのうえ関東大震災に叩きつけられた人々には、このような清新な内容と自由な韻律は非常に魅力的だったであろう。

この「短歌の定型」に関する試みよりまえ、1920年に、石原は七章から成る「短歌連作私論」を発表して、「連作を通して一つの纏まつた形に造り上げらるべき思想若しくは感情があらはれて居なくてはならない。そうして全体が同じ気分において統一されてゆかなければならない」などの、後の連作論につながる論を立てている。

発表者の秋山は、石原純の「韻律を変化させる」発想と、そして「短歌連作論」が昭和30年代の前衛短歌運動の「主題制作」の水源となった、という見方を根拠として、石原純の歌と評論とが「前衛前夜」に位置するものである、と結論づけた。

佐伯裕子が基調発言で挙げた阿部静枝(1899~1974)の作品とそれにまつわるエピソードは興味深いものだった。

ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる   阿部静枝「磯曲」(『霜の道』1950年刊)
生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し

阿部は年表から見ると「歌人」というよりは「文化人」という側面が大きいという印象があるが、1949年創刊の「女人短歌」の編集を担当するなど、歌人としての活動も活発だったようだ。佐伯の阿部静枝への注目は、そのフィクショナルな作歌法ゆえだった。

上に挙げた「磯曲」の歌を「ふつうの境涯詠を読む現在の読み方」で読めば、阿部が「ひそかに子を生み落し、それを里子に出し、自分をそのような目に合わせた世間に復讐するという情念をもって生きている」かのように読めるが、「磯曲」は実は、阿部が当時の世相を踏まえてフィクションとして作った一連である。阿部は社会への関心が強かったのだろう、1949年には無理心中に失敗して三人の子供を殺し、当時新聞を賑わせた浦和充子に取材して作った「雑草」という一連を「女人短歌」の創刊号に発表している。この「雑草」が「磯曲」制作の根っことなったと思われる、

発表の中でとくに興味深かったのは、創刊から4年目、1953年発行の「女人短歌」16号の全作品が「作者名なし」、つまり「詠み人知らず」として発表されたとの報告である。16号の後記によれば「作家につながる興味や既成概念を排して作品そのものを鑑賞するため」だという。

雑誌の全作品から作者名を外す。作者名は次号で明らかにする。現在の雑誌がこのような冒険をすることができるだろうか。まず、無理だろう。当時の女性歌人たちが想像以上に実験精神にも遊び心にも富んでいたことに感心し、羨ましく思った。

混血児生みし否めば黒杭に生ゆる黒茸わが踏みにじる   阿部静枝(「女人短歌」第16号)
人間の種にかかはる智恵もたぬ犬ら素直に吾子と遊べり
むしろわがけものになりたし犬たちと戯れつつ臭く智慧足らぬ子よ
病みすたる身なり唇赤く塗りのしのしと行きさげすみに對ふ

これは「女人短歌」16号に掲載された阿部静枝の一連10首のうちの4首である。黒人との混血児を生んだ女(われ)が辛く苦しい思いで子供を育てており、子供も外に出れば苛められて、犬だけが素直にわが子と遊んでくれる、という悲痛な内容の一連である。当時の世相を反映しているのだろうが、比較的恵まれた女性の集まりとたぶん自他ともに認めていた女性歌人の集団の発表の場である「女人短歌」という舞台に載るには、驚くような内容であったにちがいない。

これに対して葛原妙子が「短歌に於ける虚構について」という一文を17号に寄せ、次のように反発している。

「(前略)混血の子を生んだ母親の呪詛と反抗がうたはれてゐた。いよいよ女人短歌も面白くなつてきたと思つた。この作品の傾向について自分の好みは別としても、このような境涯の作者がこのように歌をよみこなせるといふ驚きと、かうした作者の初登場をこの様に快くむかへることが出来た女人短歌の雅量を(中略)『これはいはゆる小説的虚構の導入かな』といふところへ私を落着かせてしまつたのである。(中略)私自身は短歌に虚構を否定するものではない。だがそれは前述の歌に見るような虚構とは違ふ。それは、人のことでなく自分ののつぴきならぬ内實を、観念そのままであらはすことを忌避したい場合に限り用ひられる。その観念を如何にして詩として昇華せしめ、象として結晶せしめようかと苦慮するときに、過去の經驗、嘱目、又あり得べき經驗の一切が動員され、かつその中から現在自分の表出したいと思つてゐる内實に最も適合するものが選ばれるのである。(中略)われわれはすでに常識の世界で云ふところの『事實』のみに於て組立てられた『うた』の貧しさに飽きてゐる。といふよりもそれのみを人生の真實として他を省ぬ信仰の度しがたい一方性をあげつらふ任務がある。われわれはまぼろしを取り戻さねばならない。(中略)さて前述の作品に話を戻さう。この作者の虚構が(中略)『ひとに成り替つてその心境ないし行動を詠むために構成されたもの』である事は前述した。しかし作者はかうした方法を驅使する事についてはおそらく一つの目的を持つてゐた事と思はれる。それはこの敗戦日本の犠牲者としてのさうした女性達の苦悩と反抗を代辯し、世に訴へてやらうといふ情熱のそれである。その情熱はその發する動機に於て誠實である。だが、作者が如何程観察が正しくまた愛情に富んでゐたとしても、他人の生活や、心に成り替つて歌ふといふことについていささかの危惧も感じないであらうか。(後略)」

葛原の文意をゆがめないようにずいぶん長く引用してしまったが、葛原はこのように、短歌における「詩の虚構」には賛成するが、「ひとに成り替わる」「小説的虚構」には反対である、という姿勢をはっきりと見せた。

こんにち、実際の「現実」とは異なる場に「われ」を置いて、あるはげんじつの「われ」と異なる「われ」をうたうことについて、ふたたび賛否の声があがっている。現在の私たちは阿部静枝の一連を読んでどう感じるだろうか。

まず、葛原の言う「小説的虚構」と「詩的虚構」の分け方はまちがっていると、私は思う。小説であろうと詩、あるいは短歌であろうと、「虚構を作ろう」と思って作る作者はまずはいないのではないだろうか。いわゆる「現実」からはみだした「私」を書くとき、「われ」をうたうとき、それは別の「私」を、「われ」を作ろうとするのではなく、「私が沁み出す」、「われが沁み出る」という言葉がふさわしいような感覚ではないかと、考える。「14歳の花子」のせりふを書いているとき、作者は間違いなく14歳の花子になっているのであり、「91歳の太郎」の想いをうたうとき、作者は91歳の太郎なのである。つまり、「われ」ではない「あなた」に、「彼」に、「彼女」に、そして「木」に、「犬」に、「蛙」に、「金魚」にと、アメーバーのように「われ」が沁み出していって溶けあってしまう、あるいは「われ以外」のものが「われ」に沁み込んできて溶けあってしまう、あえて説明すれば、そんな感覚で葛原のいうところの「虚構」は成り立つのではないだろうか。そして、その「われ以外のもの」は、実は自分のなかにいる。誰でも自分のなかをさがせば、14歳の花子が、91歳の太郎が、そしてときには木が、蛙が、いるはずなのだ。

その目で見ると、阿部静枝は「阿部静枝」から沁み出していって「混血児を生んだ女」と混じり合うことをしていない、つまり、阿部は阿部のまま、女は女のままの状態でこの一連を作っているように見える。小説だろうが短歌だろうが、こういう対象と溶けあうためにはよほどの準備と気力、体力、技術がなければ不可能と思われるが、阿部は「沁み出す」わざを知らなかったのか、または準備、気力、体力、技術が足りなかったのか、作られた作品では「女」を「われ」と呼びながら、その「女」はわざとらしい身ぶりを見せ、大袈裟なせりふを吐く、「われ」ではない他人になってしまっている。

この作品をもって葛原が「小説的虚構」と決めつけるのはことばの使い方を誤っていると思われるが、葛原にそう言わせてしまう弱さが阿部の作品にはあるのだ。

佐伯は阿部静枝に関する言及のあと、斎藤史、葛原妙子の作品を挙げ、このふたりは自分のなかにある本質的なものを崩していないとして阿部との違いを強調したが、斎藤、葛原の作品には「沁み出したわれ」は見られず、もともと作り方のちがう作品を比べても比較にはなりにくいだろう。

いずれにしても、現在ふたたび短歌の世界でさまざまに考えられている「虚構」、つまりべたで一面的な現実以外の世界に立脚しての作歌が、60年前にすでに問題になっていたこと、つまり問題がくり返されていることは非常に興味深い事実である。

くりかえす、といえば、石原純の試みた「短歌の定型への挑戦」もいままたひとつの問題としてあらためて提示されていると言えるのではないか。「口語短歌の興隆による韻律の見なおしの問題」として。

資料の提供のしたかにいくつか疑問があった。ものごとを整理して考えやすくするためにも、資料にはすべて西暦年号を入れるべきではないだろうか。また、いわゆる「先行文献」「先行研究」がほとんど明示されていないのは問題だろう。そして、傍線をやたらに引いた資料を配布するというのはどうしたことだろう。読むのに非常な苦痛を強いられるし、楽屋裏を見せられているようで興醒めである。資料を整理して、必要なものだけを配布することを考えるのもたいせつなことである。

というような疑問点はあったが、今回のシンポジウムは、現在浮かびあがっている問題が90年前、あるいは60年前にすでに問題提起されていたことを明らかにするという点で、非常に意味深いものだった。

そして、石原純の「新短歌」の提唱が関東大震災後の混乱の中でおこなわれ、阿部静枝や葛原妙子らによる「虚構を」、あるいは「まぼろしを」うたうという姿勢が敗戦後の既成秩序の崩壊のさなかにうち出されたことを、あらためて思い出す機会になった。これは決して偶然のことではない。

東日本大震災という巨大な事件後の現在、私たちはさまざまな既成概念の組み立て直しを迫られている。いまが、まさに新しい問題提起をおこなうべき段階であることが、今回の「読み直し」によっても明らかになった。

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