葉桜の季節
3月はじめ、元タレントの山口美江が51歳で亡くなったというニュースには驚いた。ビートたけしと丁々発止の軽妙なやりとりが記憶にあるが、突如仕事を辞めたのには、父親の介護があったという。
汗たれてトイレで父を支へをり五十二歳の誕生日けふ 小島ゆかり『さくら』
近代より私性を重要視する短歌では、恋、家族の生死、病気といった身巡りの出来ごとがよく詠われる。介護もその一つ。誕生日に、父親をトイレに連れてゆく。初句の「汗たれて」の現実が、ガツンと読者を打つ。屈強な若い男性が汗をたらすのでは、おう、がんばってるね、というくらいであるが、52歳のたおやかな女性が「汗たれて」と詠うからこそのリアルな効果である。
わが父は三つの赤子になりたまひ顔くしやくしやにイヤイヤをする 同
花びらの顔にかかればうれしくて父はかがやく鼻水たらす 同
高齢化に伴い、認知症患者の数も増えている。介護保険制度が導入されて10年経たが、施設不足は解消されたとはいえない。また、身内という意識もあり、自宅で介助する人の負担が大きいのも現状だ。これら二首は、赤子のようにイヤイヤをする、花びらが顔にかかり、鼻水を垂らしながら喜ぶ父親の姿のみ描かれている。読者は、父親をみている作者と並び、子として歌に表現されなかった感情を作者と共有する。
フランス製の絵具の黄色丹念に顔に塗りたる母が出迎ふ 有沢 螢『ありすの杜へ』
わたくしを知らぬといふ母ひきつれて氷川神社にヨーヨーを釣る 同
実の母に「あなただあれ」と言われても、神社のお祭りに連れていく作者。以前、家族で楽しんだ場所に行けば、何か思い出すかもしれないという望みがあったのだろうか。「ひきつれて」に実感がある。絵を描いていた母親は、フランス製の、と指定するほど美にこだわりがある。その人が顔を黄色にして出てきた。ここで、さらに踏み込んで考えてみる。介護の現場を知る人なら「フランス製の絵具」が、汚物に変わることは容易に想像がつく。自分一人でみるのはもう無理だと思う瞬間である。歌にするとき、あえて「フランス製の絵具」とした作者の思い。もちろん、これは筆者の深読みである。事実はわからない。誕生からじっくり時をかけて築いてきた親子の関係が、突然壊れる。ともに過ごした濃密な時間と現状のギャップは、簡単に埋まるものではない。
一方、元気な高齢の方たちもいる。先日、故蟹江ぎんさんの娘さん四姉妹がTVに出演していた。98歳、94歳、91歳、89歳。話も楽しい。2011年7月に発表された厚生省の「平成22年簡易生命表」によれば、日本人男性の平均寿命は79.64歳で世界第4位。女性は、86.39歳と世界1位。大変に喜ばしい。ただし、良いことの裏側には問題もある。ご存知のように、出生率低下と相俟って、日本は急速に高齢化が進み、3年後の2015年には、およそ4人に1人が65歳以上になると見込まれている。歌野晶午の小説、『葉桜の季節に君を想うということ』の世界が、現実味を帯びてくる。
この、超高齢化社会を見据えてか、角川「短歌」の4月号の特集は「60代からの短歌」。団塊世代の歌人競詠のほか、「60代だからこそ歌えること」(大下一真)、「60代で短歌を始める意義とは―新しい出発のために」(大島史洋)と、定年後、第二の人生がスタートした、新規読者に向けた内容として読んだ。また、「短歌往来」4月号の特集は「老いはおもしろい―短歌と俳句」として小高賢と坪内稔典の対談。こちらは、「モーロク俳句」vs「老いの歌」の図。「本人の意識とズレ」る面白い歌や俳句を通して、老年の歌・俳句の可能性について語られている。小高氏の発言に、
<女性は老いの歌がまだ少ない。男性の方が圧倒的に面白い。今のところは。>
とあるので、最近読んで面白いと思った女性歌人、若林のぶ(1926-2008)の歌を引きたい。
機嫌よく万年筆に向きをりぬ長きいのちのそこいらあたり 若林のぶ『鳥は鳴く』
ちぎれ雲とぶやうに行く精一杯生きたふりして手を洗ひをり 同
犬も猫も鳥も鼬も好まざり蓼科の馬刺し柔らかく食ふ 同
自分のことを「長きいのちのそこいら」や「精一杯生きたふりして」と表現する。肉体から離れたような感覚と、ふてぶてしさ。ペットとしての小動物のことかと思いきや、「馬刺し」のオチ。ほかに、「燃えるごみと燃えぬごみありどちらにも区別されずにわれといふごみ」の大胆さは、一筋縄ではいかない。あとがきに「八十歳の第八歌集」とある。斎藤史に師事したというのも頷ける。
一昔前、総合誌の目次にある歌人の名前は、十年もすると随分変わったものだが、これからはどうだろう。あまり変わらないのではないか。「馬場あき子の新境地」とあってもおかしくない。
作者紹介
- 長谷川と茂古
1961年生まれ。「中部短歌」同人。第一歌集『幻月』。
平成23年(2011)、結社「短歌」賞受賞。