短歌時評 第55回 田中濯

散文化という方法

短歌を評するときに、「この短歌は散文化している」と言えば、それはおおよその場合、非難を意味する。また、短歌の口語化と散文化が、ほぼ同意義で語られることもある。その場合、「口語化」という言葉も非難を意味することがほとんどだ。とはいえ、例えば穂村弘の短歌を口語化していると言うことはできても、散文化しているとは決して言えないように、この二つは全くかけ離れた概念であることは明らかである。あるいは俵万智を論ずる場合に、この二つは混ぜて論じられがちなのであるが、これはやはり、注意深く腑分けして考えなければならない事柄なのである。このことには、強く注意を喚起しておきたい。

さて、散文化を話題にした評論は、すでに1958年の第3回現代短歌評論賞「短歌散文化の性格」(秋村功)から見える。しかし、その由来が古いわりには、散文化が「方法論」としてきちんと論じられたことはほぼないとさえ言えるだろう。なぜか。私の答えはしごく単純である…、つまり論ずるに値する作品がほとんどなかったためである。また、前項でも述べたように、「散文化」はほぼ常にネガティブなイメージで語られており、これを積極的に評価するむきはこれまであまりなかったことも影響しているだろう。

本稿で私が俎上に乗せたいのは、香川ヒサの新作である第七歌集『The Blue』(2012.5)である。香川の作品は、理知的などと評されるが、その本質は徹底的な「短歌の散文化」にある。また、香川は文語体であることにも留意されたい。ここでも、「口語化」と「散文化」は異なる相貌を見せている。

ジェームス・ワット生まれた街の大学の名もパブの名も「ジェームス・ワット」
シンフェイン党員ならむシンフェイン事務所に一人老女坐れり
うす暗き廊下にアダム・スミス像移動させしはどんな力ぞ
失業者スラムはあれど餓死なきは産業主義ゆゑとエドウィン・ミュア
世界中に大観覧車周りつつ二十一世紀の空削りをり
船体をジブクレーンが囲みつつ艤装するなり駆逐艦そびゆ

香川の方法論は徹底している。ひとつの歌、あるいは隣接する歌において、同じ言葉や同じ構造を繰り返す。それは、リフレインというよりは単語の再掲にしか見えないほど無骨である。繰り返す単語は、かなりの割合で、ジェームズ・ワットやシンフェイン(党)などの固有名詞が多い。また、舞台は限定されている。『The Blue』の舞台は大ブリテン島及びアイルランド島であり、つまりは「イギリス」「アイルランド」なのだが、その風景は偏っている。産業都市(の廃墟)と古城・牧草地・巨石、さらには海や空といった実に特徴的だがティピカルなものを徹底して描いているのである。特に都市(およびその廃墟)における風景として香川のお気に入りのものは、観覧車とクレーンである。この二つの巨大構造物は、この歌集のなかで完全に「シンボル」として成立している。すなわち、このふたつは、香川にとって二十世紀と二十一世紀を結びつけるシンボリックな結び目なのである。

舞台は限定されているが、「思想」もまた一貫している。背景にあるのは、2008年のリーマン・ショック、つまりは新たな世界恐慌であり、1929年がさらなる背後に控えている。経済の盛衰あるいは資本主義の限界を、冷静で皮肉に、かつささやかな愛情と哀れみをもって眺める香川は、実はどこにいても同じ感情しか持っていないように見えるし、そう表現している。それはもちろん、香川の自制の結果である。シニカルさは知性なくしては存在しえないと確信しているかのようだ。歌集の最後に置かれた次の一対の歌が厳しさを備えるのはそのためである。

教会の影は芝生を移りつつこの公園から出ることはない
往く人の影は芝生を移りつつこの世界から出ることはない

香川の歌一つ一つには、実は歌の「厚み」「滋味」はほとんどない。例えば、歌会などで論じられた場合、高評価を受けることはあまりないだろう。端的にいえば、退屈だ。しかし、全体を通してみると、単調だが、微妙に変調があることに気付く。それは、ラヴェルの「ボレロ」に似ている、と言ってよいだろう。歌集単位で見ないと判断できない、としか言いようがないが、そこには明確なオリジナリティがある。「散文化した短歌」のひとつの頂点となっていると理解すべきである。

しかし、次のような歌はどうだろう。

木の柵に進入禁止と記さるる言葉の後ろに回つてみたり
実用に使はれることもうあらぬゆゑ崇高である蒸気機関は
草原に草食む羊 私に見られなかつたらゐなかつた羊

これらの歌は、理に落ちている。歌集単位では自己模倣であり、文藝全体では、ある「ありがちなタイプ」の世界把握である。実はこのレベルの歌は、無視できない数存在している。私が諸手を挙げて香川の歌を評価できないのは、実にこの点にある。歌集全体の微妙な単調さのなかで、出来不出来の差が激しいのである。これはなかなか困った問題である。香川の歌を見る限り、「散文化という方法」は確かに有効である。しかし、その道は、相当に険しいのではないかという思いを禁じえないのである。フォロワーがなかなか現われないのは、そのせいであるのかもしれない。

風景画の始まりに空描くため一滴の黄は落とされにけむ
石の塔立てる岬の砂浜に人ゐて人は不自然に動く

一方で、香川は上記のような歌も歌集に混ぜてきている。これらの歌は、ごく一般的な評価軸からも高い点が与えられよう。おそらく香川は、香川にとっては「旧式」の短歌的技量を出すことを、控え避けているのである。それはたとえ難点があろうとも、作家性として深く尊敬すべき態度であるように思える。そして、香川ヒサが、今後も常にウォッチし続けるべき対象であることは、これは全く疑いようがないことであるだろう。

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