短歌時評 第58回 長谷川と茂古

「二つの歌集―廣西昌也と永井祐」

 2003年5月から2007年10月にかけて、11冊の刊行をもって完結した短歌雑誌があった。「短歌ヴァーサス」である。ほんの5年ほど前のことなのに、随分遠くなったような気がする。荻原裕幸責任編集とあるが、筆者には2002年に始まった歌葉新人賞選考委員である荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘各氏による、新しい短歌を模索するための活動を主とする紙媒体、という認識があった。当時は、「ネット短歌」と十把一絡げの反発も大きかったが、歌壇の活性化には随分貢献したといえる。正直なところ、筆者自身も「短歌ヴァーサス」に登場する新人の歌の多様さに、すごく面白いと思ったのと、どう読めばよいのか分からないのと受けとめ方が別れた。大きなうねりの中では、しっかりと見分けることができなかったが、そろそろ三氏の仕事について、あるいは登場した歌について、新たな分析や再評価する時期が来ているのではないかと思う。

歌葉の斬新な点であり、多くの人の共感を得たのは、新人賞の選考を公開したことだった。ネット上のリアルタイム・スペースにおいて、選考委員が時には丁々発止のやりとりをする。読者はそれを読むことで、秀歌とは何か、についてそれぞれ考えることができたに違いない。歌葉新人賞には、斉藤斎藤氏(第二回、2003年)や笹井宏之氏(第四回、2005年)らがいるが、第五回歌葉新人賞を受賞した廣西昌也氏の第一歌集『神倉』(書肆侃侃房)が、今年5月に刊行された。

ひも状のものが剥けたりするでしょうバナナのあれも食べている祖母  (『神倉』)

 よく知られた歌である。「あとがき」には、この歌に登場する作者の祖母についても書かれている。いろいろと語られた歌ではあるが、「あれ」は、一体何という名称なのか。自分は「食べる派」、「食べない派」なのか。もとより、バナナの「ひも状のもの」に着目したところが面白かった。

廣西さん、名前は何?と問われるに坂本と言う旧姓を言う
弟が、僕が乳児になっていて父が思わずいないいなーい、        (同)

 歌集巻頭の連作「末期の夢」から引いた。「廣西さん」と呼ばれ、何(誰)の名前を聞かれているのか、一瞬考えた後「坂本と言う」結果を導きだす。旧姓を聞かれた状況は読者に知らされないのだが、「旧姓を言えば良いんだな」と作者の思考の跡を辿るような感覚がある。斉藤斎藤氏の「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」も同じ読後感がある。二首目、連作の最後に置かれた歌。父を亡くした後、記憶のなかの父であっても、「ばあ」と出てはこない。読点で結句を終わる、途中で切られた感じがなんだか痛々しい。死とは生の完結ではなく、突如として区切りをつけられるものだと思い知らされるようだ。

与謝野氏が来て大騒ぎせりとかや明治には強き「中央」ありき
どの辺を与謝野夫妻は歩きしや明治の人の志は羨しけれ         (同)

前回の時評で紹介した西村伊作と同じ、新宮市に作者は生まれた。街には、与謝野夫妻が訪れた足跡があるのだろう。「神倉」は、新宮市の地名であり、神社の名前でもあるという。この歌集の魅力の一つは紀州熊野が持つ、地のエネルギーが感じられるところだ。

「たのむでえ」「たのんどくでぇ」「たのむどお」差が少しあり交わしあう声
おとこらがおとこなるべく叫び合う地に火天に火さらに昂ぶれ
あけぼのは薄むらさきにみはるかす熊野の山が起き伏しにけり     (同)

いわゆる「ハレ」の時の人の姿や、熊野という土地に対して信頼のような感覚を持つ歌が、この歌集にぐっと深みを与えている。加藤治郎氏の帯文を紹介しておく。

<家族、医療、そして風土を通じて、廣西昌也の歌は、生の根源に繋がっている。我々も、その路を辿ろうではないか。>

廣西昌也氏の受賞作品「末期の夢」が掲載された「短歌ヴァーサス」No.11(2007年)には、永井祐氏の「スイカ」十首があり、第三回歌葉新人賞(2004年)の一次選考通過者にも同氏の名前をみることができる。続いて紹介するのは、永井祐第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』(BookPark)である。

あ 4時の28分 思うとき一つ傾きもうそうじゃない
嫌になりつけるラジオのFMのDJのこえ落ち着いていた
太陽がつくる自分の影と二人本当に飲むいちご牛乳
アルバイト仲間とエスカレーターをのぼる三人とも一人っ子
昼過ぎの居間に一人で座ってて持つと意外に軽かったみかん (『日本の中でたのしく暮らす』)

29分になった、とは言わない。28分ではなくなったと、ほんの少し前の、過去になってしまった状況に淡い叙情が浮かび上がってくるようだ。理由はわからないが「嫌になり」、ラジオをつけたら、「DJのこえ」が聞こえた。落ち着いた声に感情の波が変化しただろうことを思わせる。自分の影がみえるような太陽の位置。背に陽があたっているのだろうか。自分は「本当に」いちご牛乳を飲んでいる。影が飲んでいるのは、いちご牛乳の影である。いちご牛乳がうまいとか、冷たくて最高!とは詠われていないのに、「いちご牛乳」の存在感に驚く。自分達はアルバイト仲間である、エスカレーターで上っている、三人いる、三人とも一人っ子である、という景色を淡々と忠実に写す。一人っ子だからどうだ、ということは何もない。プチっと切れた唐突感、とでも言おうか。実際、日常において頭に浮かんだ思いには、必ず結びがあるわけではない。「あれ?」とか「おっ」とかで終わるとりとめのない事柄も案外多い。五首目を読んだ時は、石川啄木の「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」が、ぱっと浮かんで、そのギャップに笑ってしまった。この歌集の最大の魅力は、タイトルにある。震災後1年を経てなお、さまざまな問題が山積みされた現在の「日本の中でたのしく暮らす」。ガツンと強い衝撃を受けた。参った。

今後、これら二冊についての書評や評論が続々と出てくるだろう。新しい読みや、どんな風にその魅力が語られるのか楽しみである。それがまた、現代短歌における新しい動きをよびおこすはずだと確信している。

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