執筆者紹介
関根かな・筑紫磐井・藤田踏青・吉澤久良・仲寒蝉・しなだしん・池田瑠那
テーマ:私の戦後感銘句3句(2)
佐藤鬼房の句/関根かな
佐藤鬼房と塩竈
佐藤鬼房は、昭和60年に居住していた塩竈で、俳誌「小熊座」を創刊し、平成14年に亡くなるまで主宰をつとめた。塩竈には、鬼房の息吹を感じる場所がある。
鬼房が良く行き来したという東北本線塩釜駅に続く線路沿いの細い道を、一歩一歩踏みしめながら歩くと、その昔は入り江だった赤坂交差点に着く。一角には鬼房の句碑が佇んでいる。
縄とびの寒暮傷みし馬車通る
鬼房の揺るぎない代表句であり、金子兜太も「時々口にする好きな句である。
」と語り、さらに「私はこの句を最初にみたとき、ふっと、潮のにおいを嗅いだような記憶がある。そして、空は鈍く、車輪の向うに光り、ときに、その空のかわりに鈍い海の光があるようにまで思えた。
」(「寒い罅~佐藤鬼房について」初出『俳句研究』昭和42年12月号)と述べている。
あまりにも静謐な一句である。鬼房の句を読み始めた当初は、あまり揺さぶられなかった。
毛皮はぐ日中桜満開に
轍より血が噴く死なぬもののため
残る虫暗闇を食ひちぎりゐる
など言葉の表層の強烈さに牽引され、好きになる句が多かったからだ。しかし、俳句を熟読するという行いに身を沈めると、「寒暮」の句の時空間の深さと広さを感じるようになった。十七音の中の縄とび、馬車という具象のひとつひとつが寒暮のころに、淡々と時を刻んでいるかの雰囲気だが、実はそれぞれに違う静かな力を内包し、だんだんに結合しながら塩竈という地の磁場を形成し、地と句が紛れもなく合致しているのだ。
寒暮の碑の前に無心に立つと、馬車が往来していた原風景が蘇り、心が解かれるような安らぎを覚える。
交差点を横断し少し行くと、塩竈神社を囲む森の近くに「鬼房小径」がある。鬼房の七つの句碑が点在する小さな公園。碑は夜空に浮かぶ「小熊座」七つの星の間隔を正確に復元して配置されている。
「小熊座」の首星、北極星に見立て置かれたのは、
姥杉の樹齢や緑雨こまやかに
の句碑。
父の日の青空はあり山椒の木
野口雨情の童謡「山椒の木」の返答句とも言われる代表句だが、鬼房は父を早くに亡くしており、鬼房が実際よく散歩をしたこの場所に、亡き父と散歩できるように句碑は建てられたという。
この小さな空間に鬼房自身の光と鬼房を愛してやまない人々の心が溢れている。桜やツツジも植栽され花がほころぶ季節には、また趣の違う「鬼房小径」があるのだろう。
「鬼房小径」を後にし、海へ行く。塩竈神社参道前の本町通りを過ぎ、港を眼の前に置く。海風に少しの間吹かれ、今度は仙石線の本塩釜駅から帰路につく。
3月11日の震災以前は、仙石線は動いていた。4月24日現在、まだ復旧していない。
昨日、震災後初めて塩竃を訪ねた。東北本線は、ダイヤも戻りつつあり、「寒暮の句碑」も「鬼房小径」も津波の被害は免れた。海に近づくと、景色が変る。そこかしこに瓦礫が集められ、倒壊しそうな建物には「危険」の貼紙。ずいぶん撤去された後だろうが、前部が大破した行き場の無い車も見られた。
だが、少しずつだが確実に、以前の街並みを取り戻す塩竃の「磁場」を感じた。
「寒暮の句碑」に、寄り添うように咲いていた健気な黄水仙の花が、緩やかな復興を祈っているようだった。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
郭公や過去過去過去と鳴くな私に
最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。
万緑叢中死は小刻みにやってくる
黄落激し滅びゆくものみな美し
死んでたまるか山茶花白赤と地に
過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。
掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。
「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。
* *
(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。
近木圭之介の句/藤田踏青
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル
「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。
「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。
掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。
圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。
Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構
感受性は非存在の座から訴える
Ⅱ よどむ思念はいつか変貌
偽りの衣装
演技のなかで透視される実体
ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。
ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ 平成5年作
イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク 平成9年作
荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。
時実新子の句/吉澤久良
なわとびに入っておいで出てお行き 時実新子
草野心平の「富士山 作品第肆」に、少女たちがうまごやしで花輪を作ってなわとびにし、そこに富士山が入ったり出たりする、という場面がある。牧歌的でおおらかな時間が流れている。掲出句から最初に連想したのは、そのイメージだった。「なわとび」という童話的世界、「おいで」「お行き」という親しげな呼びかけ…。しかし、掲出句は本当にそのように調和的で寛容だろうか。
句が象徴的な意味を持っているという観点から読むとしたら、「なわとび」とは、人を入れ人を出て行かせる器である。それは家とも読めるし、世間とも読める。所属する様々な集団や人間関係である。そして、そこに出たり入ったりする個々人の心情に焦点を絞る読みも、そうさせる器のあり方に焦点を絞る読みも、いずれも可能である。前者であれば、句の読みは個々人の喜怒哀楽に流れていくし、後者であれば、読者はそのような世の中のありかたについての感慨へと着地することになる。そのような象徴的な読みは、いずれにしても叙情的な詠嘆に拡散していくと思われる。
しかしこの句には、そのような読み方では掬い取れない、何か冷ややかなものを感じてしまう。この句では憎悪や罪悪感などの激情は書かれてはいないが、他の句との関連で、「器」に対する抜き差しならない新子の心情が透けて見えるということはあるだろう。しかし、他の句を含めた全体的な印象や作者の既成イメージから一句を読解するのではなく、取り上げた一句を可能な限り独立したテキストとして読みたいと考えている。もちろん、そのような方法が不適切な場合もあるだろうが、個々の句の丁寧な読みの先に自分なりの時実新子像が描けるのではないかと考えている。掲出句において問題にしたいのは、「おいで」「お行き」という丁寧表現である。
敬語の本質とは、相手(客体)を遠ざけるということである。私はあなたにはとても近寄れません、という意識を言葉や行為で表明することによって敬意を表すという性格のものである。掲出句で「おいで」「お行き」と言われている客体は読者である。敬語の働きによって、読者(おそらくは客体としての新子自身も含め)は作者からやんわりと突き放される。この決定的な拒絶が、先に述べた冷ややかさを感じさせるのではないか。川柳では共感を期待して句を読む読者が多いが、この句には入り込みにくいに違いない。一見やさしい口調で語られている冷ややかさには、「入ってこい」「出て行け」とストレートに(別の言い方をすれば、稚拙に)書かれた場合とは比べものにならないぐらい、底冷えのする不寛容がある。
赤尾兜子の句/仲寒蝉
大雷雨鬱王と会うあさの夢 『歳華集』
はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。
ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場
などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。
毒人参ちぎれて無人寺院映し
は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。
解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし
にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。
さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。
こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。
『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。
上田五千石の句/しなだしん
木枯に星の布石はぴしぴしと 五千石『田園』(昭32年作)
第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。
この句について五千石は自註(*1)で、
冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。
と記している。
この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。
木枯に星の布告はぴしぴしと 五千石
違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。
句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。
原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。
◆
この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。
それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
永田耕衣の句/池田瑠那
てのひらというばけものや天の川
今から約三百万年前、直立二足歩行を始めた人間が、知恵と、自由になった前肢とを用いて作り出して来た膨大なモノ達を思う。……その中には、人間の知恵では扱い切れぬモノや、多くの人間の命を脅かすモノも、あった。
てのひらを「ばけもの」と観じる掲句には、そうしたモノをも作り出してしまう人間を怖れ、また憐れむ思いが感じられる。作者耕衣は自分自身も人間でありながら、人間をふっと離れ、人間を眺めているのである。そのまなざしは、人間が誕生する遥か以前の(そしてわれわれにも確かに繋がっている)原始生命体のものではないか……。そう感じられるのは取り合わせられた季語「天の川」の、壮大なスケールのせいだろう。天の川銀河の片隅に奇跡的に生まれた地球、またその地球に奇跡的に発生した生命の、かけがえのなさがまず思われる。そして時間的にも、空間的にもあまりに巨大な「天の川」の前に、人間存在の儚さや、進化の過程における異形性が鮮やかに浮かび上がって来るのである。
とはいうものの、である。掲句がもし、
掌という化物や天の川
という表記だったら、どうであろうか。人間の異形性は強く打ち出されるが、どうも余情に欠ける。上五中七と平仮名書きであることで、人間を不気味な者として怖れるばかりでなく、優しく憐れんでいるような風情が生まれているのである。この優しみは……遠い母なる原始生命体の、あるいはその擬人化としての「神仏」のものではないか。十代から禅に親しんだ耕衣の句には、『涅槃経』にある「悉有仏性」の精神に通じるものが少なくない。(一例を挙げれば、落花を一柱の仏と観じている「落花尊四方に乾坤白し黒し」)あらゆるものに仏性は宿る、勿論、宇宙の異端児であるわれわれ人間にも。
自分の内なる仏性が人間を離れ、天の川的スケールから自分のてのひらを見、怖れ憐れむという超感覚の世界が、わずか17音の中に開けているのである。(昭和45年刊『闌位』より)
- 戦後川柳/清水かおり→今回は欠稿とさせていただきます。