―テーマ:「鳥」その他―
- 三橋敏雄の句/北川美美
- 楠本憲吉の句/筑紫磐井
- 稲垣きくのの句/土肥あき子
- 近木圭之介の句/藤田踏青
- 齋藤玄の句/飯田冬眞
- 永田耕衣の句/池田瑠那
- (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集)
出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)
三橋敏雄の句/北川美美
鷓鴣は逝き家の中まで石河原
シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。
さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。
鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼
新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。
塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉
白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。
そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。
「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。
『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
私は船お前はカモメ海玄冬
前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。
61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。
憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。
蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者
曇り日の風の諜者に薔薇の私語
ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘
足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し
ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し
”矛盾”それは花言葉ではない君言葉
巨花か巨船か流離のごとき熱の中
君と白鳥探すこの旅死探す旅
ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも
我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ
二日はや死と詩が忍び足でくる
鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で
鴨川を何か流るる心か何か
湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波
とある女ととある話の虫の宿
没日何色私はあなたの何色
天に狙撃手地に爆撃手僕標的
このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。
戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。
稲垣きくのの句/土肥あき子
いろ恋に邪魔なふんべつ鳥雲に
昭和39年作、『冬濤』に所収される作品である。
鳥たちがはるか大陸へと帰っていく「鳥雲に入る」は、きくのの気に入りの季語であったと思われ、第一回の感銘句に挙げた
歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に 『榧の実』所収
を始め、
似合はなくなりし薄いろ鳥雲に 『榧の実』所収
買物籠充たす玉ねぎ鳥雲に 『冬濤』所収
拍子木にきざむ豆腐や鳥雲に 『冬濤』所収
銭かぞふ女の指よ鳥雲に 『冬濤』所収
と、どれも軽い嘆きを伴うように詠んでいる。
冒頭に引いた作品には「いろ恋に邪魔なふんべつ」と、勇ましい言葉を発しながら、はるか雲間に鳥の影が紛れる様子を見ることで、実際には常識に縛られながら生きていかねばならないため息が混じる。
また、
ふつつりと絶ちし想ひよ鳥雲に 『冬濤』所収
昭和41年に作られたこの作品は、30年近くの時間を共にした恋人が亡くなった年である。「ふつつりと絶ちし」とはいっても、決して自ら望んだものではなく、死によって一方的に「絶たれてしまった」関係への想いである。ことにきくのの場合、同居する関わりを持てなかったこともあり、会えるの会えないのという焦燥に人一倍苦しめられてきた。待つことに慣れている身には、もう二度と会えないという実感がなかなか湧かないのではないか。やり場のない憂愁を胸に抱きつつ、空の彼方に消えてゆく鳥たちを遠く眺め、この失意をどこか遠くへ持ち去ってもらいたいという願いが込められているようだ。
こうしてみると、元来感傷的な季語ではあるものの、きくのの「鳥雲に」にはことさら現実を逃避したいこころ、また社会のしがらみからの解放を願うこころが描く幻影に見えてくる。
近木圭之介の句/藤田踏青
残酷ニデスネ。エエ梟ノヨウニデス
「層雲自由律2000年句集(注①)」所収の平成6年の作品である。梟という字は鳥と木から成り立っており、獲物を木に突き刺すその方法がちょうど磔に似ていることから晒す、猛々しい、強い意志を示す語となっている。梟師、梟首、梟猛、梟雄などの強く厳しい言葉などが多いのも頷かれる。
さて掲句だが、その梟の残酷さを示すが如く、異常なドラマ展開の中での問答形式で表されている。しかも漢字とカタカナ表現でその切っ先の鋭さ、ゴツゴツ感から残酷さを増幅させているかの如くに。この様に句読点を含め、自由律の表現には如何様にもドラマの展開を拡げていける自由と奔放さが潜んでいる。しかしこの作品あたりが一行詩とのギリギリの境界に立つものであろうかとも。俳句というものを形式ではなく詩的内容で捉える限り許容される範囲と考えるのだが。
おんなの骨に梟なき 月日すぎました 昭和62年作
この句の場合は、亡くなった女の記憶が月日の中で角質化してゆく過程を、梟の鳴き声をおんなの骨に潜ませることによって再認識させる構成となっている。また一字空白はその時間的な落差を示しているものと言えよう。狂言に「梟山伏」というのがあり、梟にとりつかれて奇声を発する病人を直そうと山伏が祈るが、自分が奇声を出し始めるという内容のもので、梟の鳴き声はそのように意識下で伝搬してくるようである。
梟と言えば山頭火の「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」という句があったのを思い出す。やはり梟はネガテイブな雰囲気を持っているようである。
圭之介には鴉の句も多くみられる。
木の椅子が一つ 鴉ぎようさん啼いていた 昭和23年作 注②
鴉よ かれ独りの ときのうしろ姿を おもえ(山頭火)昭和25年作 注②
二羽の黒い鳥が的確に空間 昭和28年作 注②
人間笑う以前カラスぎようさん笑う 昭和38年作 注②
生(なま)のもの口にしてカラス不敵に笑う 昭和40年作 注②
あらうみからすをとばす 昭和48年作 注②
鴉の場合はその存在が常に人間(自己)に対峙するものとして表現されている。その数が一羽でも二羽でもぎようさんでも、その不穏な反意は裏返せば人間そのものに存するとも言えよう。つまりは人間の奥底に潜んでいる鴉をえぐり出すが如くに。それは山頭火に対しても同じような思いであったであろう。
その他「鳥」に関する句と詩の断片を若干列記する。
鳥の渡る湖がランプもう灯していた 昭和24年作 注②
鳥ら空の道の明るさにつづく 昭和30年作 注②
気管の奥に断崖 海鵜の啼く時もある 昭和55年作 注②
鳥の貌北へ北へその日河口空瓶(くうびん)一個 昭和56年作 注②
署名をする海鳥の啼く古里の中で 昭和58年作 注②
林の部分が明るいのは其処へ一羽で行くんか 昭和59年作 注②
<パレットナイフ 2> 注③
Ⅰ この時間は黄泉のくに珈琲房
星座と呼ぶ仮面の女 そのまなざし
(ドリップがこれから香るのだ)
Ⅱ 憎悪は一本の影
太陽に位置の確かさ
Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た
どこにも通り抜ける道を持たずに
――いらだちのサラダ私に青い
Ⅳ 刃のごとく窓に映る河
内なる凶
沈黙と溶暗
Ⅴ 虚空(そら)が一羽の鳥を溶岩に変えて堕した
二枚の翼の重さ 鳥の半生
注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊
注②「「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊
齋藤玄の句/飯田冬眞
冬の雁空では死なず山の数
昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
齋藤玄は鳥が好きだった。
鳥好きに雀ばかりの麗かさ 昭和47年作 『狩眼』
と表白していることからもうかがえる。数量的な根拠としては、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集だけで110の鳥の句があり、全体の12パーセントに相当する。(三句集合計938句中、『狩眼』43句、『雁道』43句、『無畔』24句)
前回の「桜」13句に比べると「鳥」の句は8.5倍に相当する。
これまでにも「冬」「精神」「夏」「色」の項で、玄の鳥の句を紹介してきた。あらためてあげておくが、内容に関しては重複するので割愛する。
玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作 『舎木』
骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる 昭和16年作 『舎木』
膝立てて大露の雁をゆかせけり 昭和17年作 『飛雪』
つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨 昭和48年作 『狩眼』
すさまじき垂直にして鶴佇てり 昭和49年作 『狩眼』
寒風のむすびめごとの雀かな 昭和50年作 『雁道』
雁の道のごとくに死ぬるまで 昭和53年作 『雁道』
雁のゐぬ空には雁の高貴かな 昭和53年作 『雁道』
雁の道はなかりき水景色 昭和53年作 『雁道』
雀らの地べたを消して大暑あり 昭和53年作 『雁道』
このなかでは、〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉が秀抜。大空に舞う鷹を〈鉄片のごとき〉ととらえた感性は現代的である。厳寒の大空を舞う鷹に自己を重ね合わせながら、その鬱屈感が象徴的に表現されている。この句の鑑賞と作句時期の時代背景については「色」の項で詳しく述べたので、そちらを参照されたい。
戦前の作品では、ほかに次のようなものがある。
枯るる園雌雄の鷹をわかち飼ふ 昭和13年作 『舎木』
鷲鬱と青き降誕祭を抽(ぬ)く 昭和15年作 『舎木』
〈枯るる園〉の句は、自註(*2)によると函館公園に飼われていた鷹で、雌雄が別々の檻に入れられていたようだ。大空を舞うことも、つがいで寄り添うこともままならない檻のなかの鷹の凄まじさを詠んでいる。冬枯れてゆく動物園の情景に24歳の玄は己を投影させていたに違いない。
〈鷲鬱と〉の句では、降誕祭、つまりクリスマスの夜の鬱屈した心理を鷲に託して描いているが、言葉が具体的な心理を射抜いておらず、上滑りの感は拭えない。総じて、戦前は「鷹」「鷲」「雁」など比較的大型の鳥を詠み、青年期の作者の鬱勃とした心情と重ね合わせた作品が多いようだ。石川桂郎、石田波郷に出会う前ということもあるのか、この二句からは凝視の果てに対象の本質をえぐり出す、晩年の玄作品に特徴的な「確かな眼」はあまり感じない。
癌の妻風の白鷺胸に飼ふ 昭和41年作 『玄』
割腹死鶲(ひたき)撒かるる空の端 昭和45年作 『玄』
主宰誌「壺」を休刊し俳壇から遠ざかっていた昭和28年から昭和45年までの沈黙期の作品から二句あげた。〈癌の妻〉の句は第三句集『玄』に収録された連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」のなかの一句。ベッドから起き上がった妻の後ろ姿と畦に佇む白鷺の風姿が重なり合って哀切。自注には「醜くなった妻を俳句でしか飾れない」と悲痛な文章を残している。(*2)
〈割腹死〉の句の前詞は「三島由紀夫の死」。死と鳥の組み合わせはヤマトタケルの昔から度々現れてきた文学的モチーフではある。オレンジ色の胸を持つ鶲の群れが空を飛ぶさまを〈鶲(ひたき)撒かるる〉とした措辞が印象的。
笹鳴のまにまに麻酔きかさるる 昭和52年作 『雁道』
病室の空のいづちへ揚雲雀 昭和52年作 『雁道』
患者食こんにやくつづき百千鳥 昭和52年作 『雁道』
三句ともに「入院、腹部切開手術を受く 五句」中の句。入院生活の日常の寂しさを描きながら、どこかに明るいユーモアを感じるのは、〈笹鳴〉〈揚雲雀〉〈百千鳥〉といった季語の恩寵であろうか。鳥の鳴き声や軽やかな振る舞いが病者の心に明るく健やかなものを与えているのが読み取れる。師である石田波郷と同様に死線をさまよいながらも詠嘆に流されることなく、一種の軽みさえ感じる句をなせたのは、俳句に対する信頼と一句独立の精神が根底にみなぎっている故だろう。
蹼(みずかき)に乗つたる鳥や雪催 昭和52年作 『雁道』
〈蹼(みずかき)に乗つたる鳥〉も軽妙な感じを受ける句だ。それは「蹼」という難しい漢字のあとに〈乗つたる鳥〉というひねりを加えた表現の効果だろう。重苦しい印象のある〈雪催〉の前を切字の「や」で一拍置いているのも良い。言葉の重い、軽いを交互に配しながら水鳥の姿を描出しており、巧みである。
冬の雁空では死なず山の数 昭和53年作 『雁道』
〈空では死なず〉も読みようによっては諧謔のように見えなくもない。雁にとっての〈空〉は日常であり、そこで死ぬことはないという断定は、自己の死に引き寄せて考えているようにも読めてくる。下五を〈山の数〉と抑えたことで雁の骸を抱いている山が累々と連なっている景が見えてくる。山をすべての命の根源として捉えるならば、根源回帰への希求ともとれる。
生きかつ死なねばならない恍惚と恐怖。玄の鳥の句を読むたびにそのことがしきりに胸にこみ上げてくる。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
永田耕衣の句/池田瑠那
空を出て死にたる鳥や薄氷
「空」の果てには、一体何があるのだろうか。何もないのかも知れない。それでも鳥は空の果て、空の尽きるところを目指して力の限り飛んで行く。その結果、命を落とすことになったとしても――。
掲句は『正法眼蔵』中の「鳥もし空を出づればたちまち死す」を踏まえるとされるが、ここではそうした仏教的背景は一先ず措き、一句から思い浮かぶ景を味わってみたい。
「空」とは鳥にとって、自然の理に適った生活圏であろう。それを出る、とは愚かしく無謀な挑戦とも取れるが、反面、既定の安全圏を抜け出そうという不屈のフロンティア精神の表れとも取れる。取り合わせられた季語「薄氷」の儚くも美しいイメージから察するに、耕衣は空を出て命を失った鳥に対して、愚かしさよりは共感や悼み心を覚えているのではないかと私は考える。
飛躍するようだが、私は掲句から、1986年(昭和61年)1月に起きたスペースシャトル・チャレンジャー号の空中分解事故を連想していた。シャトル打ち上げ時に7人もの尊い命が犠牲になった痛ましい事故のニュースは、当時小学生だった私の脳裏にも深く刻み込まれている。大気圏の外に何があるのか。人類が得るものなど、何もないのかも知れない。それでも人は宇宙を目指す、命を危険にさらしてまでも。
思えば人類の歴史を振り返ってみても、折々「空」の外を目指す鳥のような者が生まれるようである。大航海時代の冒険者や、極地をゆく探検家……、のみならず、学問研究の世界あるいは芸術の世界にも、常に、限界を超え「空」の外を目指す鳥はいる。
「空」の内に自足して一生を終える鳥たちには捉えられぬ何かを求めて空の果てに挑み、ついに命を失った鳥の骸が早春の地に墜ちて来る。その挑戦を讃えるように、轍に、水たまりに張った薄氷が一斉に煌めく。(昭和五十年『冷位』より)
※参考文献 「澤」平成二十三年八月号
(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑤(仲寒蝉編集)
- 出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)
5.家族・家庭と遷子について述べよ。
筑紫は〈全く関心がない〉と言う。
原は興味がないと言う。
中西は俳句から見る遷子は〈良き家庭人だった〉と言う。
百舌鳴くや妻子に秘する一事なし (『山国』)
に明治生まれの潔癖さを読み取り〈この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるもの〉であり〈句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるもの〉と評価する。
次に示すように『雪嶺』の息子を描いた句に親の本音を、娘の結婚の句には〈手放しで喜ぶ良き父の姿〉があり世の父親と変わらないと言う。
かすむ野に子の落第をはや忘る
帰省子に北窓よりの風青し
秋の苑子を嫁がせし父歩む
横道に逸れるが、その中で2句目の「青し」に注目する。『草枕』の「梅雨めくや人に真青き旅路あり」の〈「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある〉と述べ、上の句の〈「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている〉と指摘する。それを踏まえて〈遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか〉と言う。
ただ華やぎを添えるものではあっても家族を描いた句は『雪嶺』では傍流。家族を描いたものでは『山河』の死の前後の父を描いたものが良かったと言う。
深谷は〈私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れない〉と断わりつつ〈敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれている〉と述べる。
仲は『雪嶺』には息子の反抗や受験、娘の結婚を詠んだ句があるが〈内容としては市井の優しい父親の域を出ていない〉と言う。また『山河』にある〈老いた父母を詠んだ句は淡々としており患者を見る目とほとんど変わるところがない〉が、〈母の句の幾つかは彼にとって母は永遠に若く気風のいい存在だったことを示している〉と述べる。
5のまとめ
5人中2人が興味なしと回答している。回答のあった3人に共通していたのは、遷子はよき家庭人、よき父親であったということ。ただ家族を題材にした俳句については中西が『山国』の「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」を評価した他は遷子の句業の脇役的存在との認識であった。個々では中西が『山河』の死の前後の父を描いた句を、仲が母を描いた句を評価している。