みつまたに岐るる川や秋の風
厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に生まれた土地が折り込まれているのはさらに少ない。
掲句は第一句集『榧の実』に所収され「水無瀬より橋本に渡る」の前書がある。
先日、きくのの姪にあたる野口さん(仮名)に、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。
画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。
山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、野口さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。
きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。70代となった「春燈」53年1月号では
榧の木がかやの実こぼす墓まゐり
と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。
墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方から声を掛けられ、あれこれと尋ねられたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。
ひと、われにつらきショールを掻合はす 『榧の実』
一瞥に怯みし伏目春ショール 『冬濤以後』
人のくらしに立入り禁止花ざくろ 『花野』
人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。
きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。
青胡桃旅を栖といふことば 『冬濤』
と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。
しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。
軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。
軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。
山の日のすでに秋めけりパン買ひに 『榧の実』
落葉松の秋風をこそ聴くべかり 『冬濤』
栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧 『冬濤以後』
澄む水のゑくぼの生れては消ゆる 「春燈」昭和45年11月号
しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。
晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、なかなか持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。