今日からのアパートぐらし秋の風 『榧の実』昭和34年
昭和の高度成長期に住居表示化を併せて地名の大規模な統廃合が行われ、福吉町も近隣の田町、新町、一ツ木町、中町、氷川町、丹後町、新坂町という情緒豊かな町とともに赤坂1〜9丁目とそっけなくまとめられてしまった。そして、昭和29年(1954)に書かれたエッセイ「騒音地獄」にあるように、近隣の様変わり、ことに東隣にあった黒田侯爵家の大邸宅の焼跡を帝産オート(現:帝産観光バス)が買収し、バス車庫となったことが大きな原因となり、きくのは赤坂の家を手放すことを考える。きくのが丹精して手を入れた赤坂の家は、万太郎に賃貸し、万太郎の終の住処となる。万太郎の死後は楠本憲吉を通じ高級料亭として使われた時代を経て、現在は赤坂霞山ビルになっている。
掲句には「平河町に移る」の前書がある。「アパートぐらし」に吹っ切ったような、諦めたような寂しさが言外に漂う。この年、きくのは53歳。そろそろ大きな屋敷をひとりで取り仕切るより、使い勝手のよい鍵ひとつで生活できる部屋の方が気楽と思える年齢である。しかし、その玄関が部屋が、照明のひとつひとつが、今までと違うことを日々あらためて思い知らされるのである。
赤坂を去る数年前の昭和31年(1956)に鈴木真砂女の句集出版記念会の折り、万太郎からきくのにも句集出版の誘いを受けるが、安住敦から「まだ早い」と反対される。それもあってか、まずは「春燈」に掲載されたエッセイをまとめた随筆集を上梓した。随筆集『古日傘』は昭和34年(1959)5月、その秋きくのは平河町へ引越している。出版することで、きくのの気持ちもひと区切り付き、あらたな生活へと踏み出す機会となったのかもしれない。
『古日傘』には万太郎が祝句が扉に書かれている。
春ショールはるをうれひてまとひけ里 久保田万太郎
愁いをまといつつも、新天地となるはずの平河町だったが、きくのの体調はおもわしくなかった。
2012/05/24 17:25腸の疾患にて東大に入院
どの室で鳴る鳩時計夜長かな 昭和34年
麻布、杉原医院へ移る
看とられて松も過ぎしとおもふのみ 昭和35年
昭和34年(1959)から37年(1962)まで、そのほとんどを病院で過ごしながら、わずか3年間のアパートぐらしだった。