戦後俳句史を読む (21 – 2)- 稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子

引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号

掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。

福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。

南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。

一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。

「春蘭」同号には

開け違へはたと屏風につき當る

これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる

お隣の雪吊が化粧部屋の外

なども並ぶ。

当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。

掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。

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