余寒原稿あと二時間で妻起きる
昭和63年『方壺集』より。
あまりにも楠本憲吉の軽薄さを述べすぎた。他の「戦後俳句を読む」ではこれほど主人公の悪口を書いている例はないであろう。それは、憲吉がそう読める俳句を書いているからであるが、逆にそうした読みが可能であることを本人も覚悟しているせいもあるであろう。小悪人ぶったスタイルを、本人も肯定しているのである。
しかしそうした句ばかりが並んでいると、時折、そうした演技の向こうに見える憲吉の素顔も見つけることが出来そうだ。
掲出の句など、夫は夫、妻は妻で全く別の生活をしているように見えながら、夫は妻の起き出す時間を知っているのである。最低限の関心を持っていることが伺える。それがどうしたといえるかも知れないが、憲吉にしては珍しいことであるのは間違いない。
ほうれん草炒めつつ妻の古き唄
昭和43年『孤客』より。
妻が知っているのは古い唄だと言うことに作者が関心を持ち心が動かされること自体、ちょっと今まで見てきた憲吉とは違う思いがして違和感を感じるのである。今まで見てきたというのは、
寒厨(かんぐりや)暗いシャンソン歌うな妻
惜春や妻の寝息のアンダンテ
終い湯の妻のハミング挽歌のごと
のような派手さのあふれた句のことである。
そしてその時感じる違和感は決して嫌なものではない。かえって、こんな心境にほんの僅かでもなれることにほっとする感じを抱く。
正直言って、楠本憲吉は嘘つきである。四六時中嘘をついている、俳句は上手に嘘をつくことだからそれは決して非難されることではない。しかし、こと男女関係や人間関係を俳句に持ち込んで嘘をついていると、日常生活と文芸の間の揺らぎが、人格的な嘘つきに見えてしまうことがある。憲吉はそれに近い。しかし、そうした嘘つきが洩らす僅かな溜息や眼差しを見逃してはならない。