火の鳥の羽毛降りくる大焚火 五千石
第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。
「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。
◆
火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。
◆
この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。
五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。
◆
題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。
この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。
◆
掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
*2『上田五千石全集』 富士見書房刊