戦後俳句を読む (19 – 1) ―「男」を読むー  近木圭之介の句 /  藤田踏青

接続と切断 ひとり男のかげ

平成16年の圭之介の晩年(92歳)の作品である。「接続と切断」とは男としての人生に対する複雑な思いとそれへの回顧でもあろう。それ故「かげ」とはネガテイブな面だけを示しているのではなく、「かげ」全体が人生そのものを包含しているという意味を持ち、背中合わせの存在として対峙している。そして「かげ」そのものも現実の明暗の中で接続と切断を繰り返しているという二重構造にもなっている。また一字空白は時間と空間と思考の異化という自己と実在との分化作用を示しており、それが上句と下句への両方へ覆いかぶさる効果をももたらしている。この様な人生に対する思いは当然、晩年の作品に多く見られる。

男朽ち 牡丹ボウボウ        平成9年  注①
沈黙の叫び 男あり 或いは欲望   平成16年
夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年
ただ一つの生 男はさぐる      平成18年

朽ちて形を失ってゆくが故に男であり、牡丹なのであろう。そして沈黙の中に夢の中に、欲望としての獣が尚も蠢いているのも男ならではの事。己という「ただ一つの生」とは果して如何なるものであったのか、そこでは生と死が呼び交わしているのであろうか。そのような男の姿は次の詩にも表れている。

「パレットナイフ 37」抜   注②
 
Ⅴ 言葉は主体から完膚なき迄に引き離され
  男は拙い道化役でしかなかった
  冷たい土の上ああ蝶はもう飛べない

ここには沈黙と道化役と飛べない蝶としての自己があるばかりである。そしてそこには男の少し淋しい自画像があるばかりである。

自画像をすこし笑わせておく     昭和32年  注③
顔の左右の分離する自画像を持つ   昭和38年
自画像が笑わなくなっていた     昭和39年  注③
自画像の風化した頤が微笑する    昭和40年  注③

自画像の笑いの変遷は男の自嘲的な人生を物語っているのであろうか。そしてその分裂した角質化した笑いはやがて風化した頤に嵌められた存在になっていったのかもしれない。また常に関門海峡を見つめていた圭之介の内部と外部とでは次の様なドラマも展開されていた。少し長いがその詩を掲げる。

「パレットナイフ 1」   注②
 
 
Ⅰ 航海に出ようともせず汽船はどろどろ
  五臓を流れた。季節は春である
Ⅱ 男には男の悪の火。
  菜の花はいちめん炎え 下弦の月。
Ⅲ 卵 かなしみの町 敗北をみとめる男
  タンカーの標識燈 みな憎めない
Ⅳ 血冥ク路地裏
  海難事故報ハシル
  二月ノ雨ガ燐ノ如ク凍ル
Ⅴ 死者がふりむき聞いたもの未知のこえ
  それは海流と共に消えた

全て過ぎ去り、残ったものは浪の音だけだった。

男がいて鍵穴 浪の音する 昭和35年   注③


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊

注③「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

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