企画そのものは異なるが、『俳コレ』は実質上『新撰21』と『超新撰21』に続く邑書林の俳句アンソロジー第3弾である。『新撰21』のU40に対し、『超新撰21』と『俳コレ』は幅広い世代を網羅しているが、俳壇ヒエラルキーの上位に位置する作家は最小限にし(大結社主宰の小川軽舟氏は例外)、普段あまりスポットライトが当たらない作家や21世紀の俳句を面白くしてくれそうな作家を紹介する事を特色としている。企画が異なるためか、『俳コレ』は、三冊の中では最も作家年齢層の幅が広く、しかも「他撰」を採用している点で特色が際立っている。
この度、邑書林と詩歌梁山泊の共同企画で『俳コレ』を鑑賞する事になった。句友の御中虫女史は「このあたしをさしおいた100句」という挑発的な鑑賞文を10回連載で発表するらしいが、筆者は「『俳コレ』をゆるやかに鑑賞する」という頗る弛緩した鑑賞文を5回連載する事にした。女史も筆者もアンソロジー三冊のいずれにも含まれていないので、この際遠慮せずに、二人して『俳コレ』掲載諸氏の俳句について好き放題書くことになろう。女史は脚光を浴びるのを当然の権利と思っている(と筆者は思っている)し、劇化された虫ismが売りの人であるから、素敵な毒舌も歯切れの良い罵倒も飛び出すであろうが、隠者体質の筆者は脚光など疾うに諦めているし、自己アピールする元気が女史の半分(10:5)しかないので、「ゆるやか」に書かせていただく。
さて、鑑賞文は5回に分け、『俳コレ』掲載の22人の作品から10句を選び、コメントを付けるという形を採る事にする。各自の本体掲載作品100句を対象とし、栞掲載の作品は鑑賞対象外とした。作家によっては佳句が多くて10句以上選びたかった人もいたし、逆に佳句など1句もないと思われる作家もいたが、筆者の嗜好に基づいた消去法で90句削り、作家ごとに必ず10句を選ぶようにした。
自撰数百句が他撰されて『俳コレ』に百句収められ、それを筆者が十句他撰する、という塩梅である。結社等所属の作家の場合、自撰の前に結社誌や句会での主宰・選者による他撰も入っているであろうし、結社所属の身で句集を出している作家の場合は、主宰・選者による再他撰も入っているであろう。つまり、各氏の10句は最低3つの撰、最高5つくらいの撰を経ている事になり、筆者の目に届く前に2回以上篩にかけられている。その為、筆者が高く評価するような句が『俳コレ』に掲載されていなかった可能性も高いので、筆者が『俳コレ』掲載句を基に作者評をしたり、そこから選んだ各10句を基にコメントしたりしても、各作者の実際の水準や性質を見誤っている可能性も無きにしも非ず。これも「撰」の醍醐味であろうから、前もってご寛恕を願う。
【野口る理】
串を離れて焼き鳥の静かなり
襟巻となりて獣のまた集ふ
チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪
出航のやうに雪折匂ひけり
初夢の途中で眠くなりにけり
梅園を歩けば女中欲しきかな
バルコンにて虫の中身は黄色かな
洗髪や目閉ぢてよりの声が変
脱ぎ捨てしスカート秋の火口かな
虫の音や私も入れて私たち
100句を一読、る理俳句の特色は、対象物と作者自身とを主観ないし私性で結び付ける事にあると感じた。写生句でも主観性が強く、写生以外の句でも作者が能動的に対象物と接点を創りだした事で句になっているものが多い。100句を撰んだ関悦史が吟行でのエピソードを述べているが、作者は眼前のものを只捉えたり、眼前のものから思索を只深めたりするのではなく、積極的に対象物と関わり合おうとする。そして「私」が含まれた形で対象物が詠まれる。私性といっても、短歌と違って、作家である野口る理に関するパラテキスト情報は作品鑑賞に不要だし、作中主体との距離などどうでも良いが、る理俳句の至る所に「私」が紛う方なく刻印されている。「私」が存在している事で句の存在が現出した場合が多い。作者がギリシャ哲学を研究していることと無縁ではあるまい。る理俳句は難解からほど遠く、平明な詠み口や隠し味的な女性性が特徴だが、たまに哲学的な捻りがあるのも嬉しい。
1句目、焼鳥の肉を串から外した頃には焼かれた後のジュワッとした音も止んでいた、という句意であろうが、生命のない肉塊となってしまった鶏が物言わない、という句意にもとれ、焼鳥の味わいよりも食肉の倫理問題を考えさせられ、良い意味で不気味。2句目も人間用に加工された動物が詠まれる。死んでいる以上、能動的に集まれず、人間の手により受動的に集まっているところがポイント。3句目、漫画『ピーナッツ』ないしアニメ『スヌーピーとチャーリー・ ブラウン』の中だからこそ雪も幸せな形で擬人化されるのであろう。4句目、「出航のやうに匂ひけり」という比喩表現の半ばに「雪折」という季語を挿入して一句に屈折を生み出し、雪折の雰囲気を出している。ちなみに「出航のやう」な匂いも謎だが、雪折を構成する要素の具体的に何が匂っているかも謎。でも、何となく雰囲気的に謎を解かなくてもよい気になってしまう。5句目、覚醒夢が終わって只の夢に移る瞬間の事か、レム睡眠からのんレム睡眠に移行する事か不明だが、めでたい新年の季語にめでたくないものを採り合わせるという新年の句の王道を踏まえている点が好い。6句目は、メイド(メード)や家政婦とも違う女中がほぼ滅亡した21世紀だからこそ成立する句。7句目、「バルコンにて」の「にて」が面白い。バルコンでなければ虫の中身は別の色をしていそう。この意味で非常に独創性のある句。「バルコンの虫の中身の黄色かな」では別の味わいになってしまう。8句目、声質の変化に着目したところがユニーク。風呂場で独唱しているのか、温泉や銭湯で複数名で入っていて雑談しているのか。9句目、冠雪する前の火口を想起しているのだろうか。字面の割にはエロスよりも真面目なジェンダー論を感じさせる。10句目、る理俳句の私性を代弁しているようで面白い。
【福田若之】
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて
卒業の絵筆に沖が染みている
僕のほかに腐るものなく西日の部屋
とんぼとんぼ溶接されたように飛ぶ
春はすぐそこだけどパスワードが違う
暗いものが朝顔を抑えつけている
初詣に行こうよぶっ飛んで、いこう
ヒヤシンス幸せがどうしても要る
水着絞れば巻貝のやうになる
草田男忌夜空の沖のふかみどり
若之俳句を読むと、青春だねぇ、抒情だねぇ、いいなぁ、って言ってしまいそうになる(あっ、言ってしまった)。現代口語の多用、名前通りの偽りない「若」さ、(世代を問わず)若い詩人に付きもの一定の明るさと一定の暗さ、という特色は世代的典型であるが、強い視覚性、句読点や空白の使用の二点は作者独特のものと言える。強い視覚性というのは、絵の構図になりやすい句が多いという事である。但し、純粋な写生句ではなく、野見山朱鳥のような幻視に近い。作者は絵画の実技や研究も行っており、その資質が俳句に生かされているのであろう。句読点や空白の使用は、前衛俳句ではすでに用いられているものであるが、若之俳句におけるその使用は現代口語短歌のそれに近い。高柳克弘は「無理をしすぎている……成功作があまりないようです」と評していて、確かに若書で未熟なところもあるが、筆者には詩心に満ちた魅力的な句が多く感じられ、正直10句以上採りたかった。作者の性格からして、「無理」をしているのではなく、純粋に天真爛漫なのだろう。作為がありそうで余りない、手垢の付いていない感じが好きである。無論、加齢とともに句風は多少変質するであろうが、将来が楽しみな作家である。
1句目、好奇心旺盛な猫が本能の赴くままに興味対象に歩きだすのであるが、哲学的な雰囲気をまとわせた結句が効いている。2句目、青春俳句の典型。高校時代に描いた絵画を思い起こしている。卒業記念に海の絵を描いたのかどうかは定かでないが、厭味のない感じで心の海原を感じさせてくれる。3句目、西日で傷むのは食料品でなく作中主体という逆転の発想がツボを抑えている。4句目、「溶接」という言葉はなかなか出てこない。あくまでも推測だが、作者はハンディクラフトを日頃から愛している人間だと思う。5句目、20世紀には詠まれなかったであろう内容。パスワードが判ればすぐにでも春に到達できる、というプレ青春的な気分。6句目、朝顔というネアカで意外に詠み難い季語を、「暗い」・「抑えつけ」の二つの影で挟み込む事でうまく料理している。7句目、読点が楽しい。最近の初詣は、家族と行く厳かな行事では必ずしもなく、仲間たちと行くイベントとしての本意も付加されてきている。8句目、花名の語源であるギリシャ神話の美青年ヒュアキントスを連想させる。9句目、佐藤文香の句「少女みな紺の水着を絞りけり」と違って、少女用のスクール水着に限定されないし、中年男性の妄想を掻き立てるような内容ではないが、作者なりの挨拶句かもしれない。10句目、出色の出来。草田男の万緑の句が背景にあるかもしれないが、黒い夜空の彼方が深緑という視覚的把握が鋭い。
【小野あらた】
サイダーの氷の穴に残りをり
栗飯の隙間の影の深さかな
春愁や鯉のぬめりの絡みあふ
黒飴の傷舐めてをる夜長かな
人文字の隣と話す残暑かな
茸飯の茸ぺろりとはがれけり
コロッケの中の冷たきクリスマス
順番に初日の当たる団地かな
雑煮餅具の食込んでをりにけり
白魚の目の裏側の暗さかな
今のところ、あらた俳句は、都会的な日常における写生詠が多く、主観は少なめ。虚子や素十に通じる「余白」の使い方があり(つまり、大らかな把握、及び一句に詰め込みすぎない姿勢)、句風は所属先の「銀化」よりも「ホトトギス」に近い。大らかな把握といっても対象はミクロが中心で、トリビアリズムの鬼とも云いたくなるような実直さ。しかも、老成しているというか、コンクールや句会等で勝つ術を心得ているのか、如何に些細な内容や報告でも真っ当な句に昇華させてしまうポイントを押さえている。現在の年齢でここまで詠めるのは驚異的であり、褒めるべき事である。しかし、老婆心で言わせてもらえば、この先の成長が心配になってくる。神童が進化も深化もせずに、このままの調子で作品を作り続ければ、一定水準の句はできても代表句のない凡百の俳人になってしまう。トリビアリズムは極めれば武器になるが、作者には予定調和や当然性を憎む姿勢、安易な技法で「よくできた句」を作ろうとしない姿勢、もっと対象物を凝視する姿勢(瑣末な事と神が宿る細部は別物)、そして、必要に応じて敢えて「余白」を潰してまで写実を極める姿勢を養ってほしい。作者の潜在能力がどこかで開花すれば素十を超えるかもしれない。
1句目、サイダーを飲み終わったら、氷のくぼみにまだサイダーが残っていた、という巧い客観写生句。量産できそうで、案外できない句。2句目、素十の「蟻地獄松風を聞くばかりなり」に通じる怖さがある。栗飯という日常的な料理に奈落を見出したのは手柄。3句目、鯉でなくその「ぬめり」が絡み合うのがポイント。4句目も同じ発想で、黒飴でなくその「傷」を舐めているのがポイント。5句目、省略を生かしているし、人文字の設定と残暑が合っている。6句目、簡単な文明論になりそうで好い。7句目、「冷たし」にせず、「冷たき」にしたところが巧い。前者ならクリスマスの寒い時期にコロッケが中まで冷たくなってしまった、という季重なりの失敗句になるが、後者ならクリスマスが冷たくて、それがコロッケに入っている、という孤独な境涯詠のようにも読める。8句目、岸本尚毅が指摘したように「順番」を「順々」にした方がより良いが、めでたくないもの(この場合は社会的秩序が初日にも及んでいるような寂しさ)を新年のめでたさと取り合わせる王道を踏まえている点で合格。9句目、句の前半に漢字を持ってきて内容を視覚的に支援しているのが良い。10句目、非常に細かいものを詠んでいる点では作者らしいが、珍しく幻想を詠んでいる。白魚の目の裏側ってどうなんだろう、と読者に考えさせる時点で勝ち。
【松本てふこ】
おつぱいを三百並べ卒業式
不健全図書を世に出しあたたかし
爽やかや表紙に18禁の文字
下の毛を剃られしづかや聖夜の子
読初の頁おほかた喘ぎ声
寒鴉兵器の黒さとぞ思ふ
足裏の血管太く昼寝かな
洋梨の尻より腐りはじめけり
蟷螂の眼はなれてかはゆかり
霾るや触れれば鬼となる遊び
松本てふこは、伝統俳句の牙城とも云える結社に所属しながらも、非常に現代的な素材を独特な視点から詠める作者である。普段の穏当な句とエロスを詠んだ句(筑紫磐井曰く「らしからぬ句」と「いかがわしさのある句」)とは内容も出来も落差が激しく、筆者は後者に軍配を上げたくなるのだが、出版社でBLコミック等の編輯に携わっている作者としては前者も後者も日常詠の一部であり、地続きの一つの世界を詠んでいるつもりなのかもしれない。しかし、客観的に見れば、彼女のエロス詠ないし職業詠は他の日常詠とは内容や素材だけでなく、出来も違っている気がする。これは資質なのであろう。もしてふこが別の仕事に従事していたら、彼女の職業詠は同じくらいに輝くのであろうか、もしてふこが外国に住んでいたら、彼女はその地の現代的素材を同じくらいに詠めるだろうか、と訊かれれば私は返答に窮する。なぜならてふこの「いかがわしさのある句」は仕事や現代風俗を詠んでいるから優れているのではなく、仕事や現代風俗を通じてすぐ得れた官能の詩となっているからである。現代日本では、エロスといえば、バレ句や下ネタと同一視され、露悪的な二流の作品に見られる傾向があるが、本来はタナトスと並んで一流の詩人がライフワークとして取り組むべき二大テーマの一つである。それに資質があるという事は、てふこが一流の詩人としての資質を持っている証左である。てふこの句はいかがわしいが、決して下品でも際物的でも露悪的でもない。ある種の品格を感じる。無理な願いかもしれないが、誰でも詠める優等生的な句は練習程度にとどめて、このまま独自の句境を歩んでほしい。
1句目、有沢螢の歌「講堂に八百人の母がいて出産したる八百の顔」に通じる豪快さがある。学校という禁欲的な場は、性や肉体の部位を集合体として即物的に詠むのに適している。ただ、女子生徒の「おつぱいを」幻想するよりも男子生徒の「のどぼとけ」にした方が視覚的効果は更に増すと思うが如何。2句目、句の出来以前に、筆者は作中主体に感謝したくなる。似非人権、誤誘導プロパガンダ、衆愚主義、各種利権、及びファシズムの哀しい組合せが愚かな条例や法律を日本中、世界中で生み出している。善意を建前に、思想、表現、芸術が狩られていくのを見るのは忍びない。束の間の「あたたか」さ。3句目、束の間の「爽やか」さ。4句目、意外な季語を使っているが、動かない。エロスは根源的な聖性を呼び起こす。5句目、めでたくないものを詠むべきという新年句の王道に沿っている。6句目、作者にしては珍しくタナトスに挑んだ、優れた社会詠だが、フロイト的解釈をしてエロスの句として味わっても良い気がする。7句目、自分の足裏はまず見ないから、目の前で寝ている他者の足裏であろう。結果の太さからいって男性だろうか。自分に足裏の血管を見られる位置で昼寝する関係にある。8句目、一句のポイントは単純に「尻」。そこから腐りはじめているのは、もちろん何かの暗喩である。桃の尻はよく詠まれるが、洋梨の尻、しかも腐りはじめている状態は類想がなさそう。9句目、「かはゆかり」という現代で多用されている語彙に歴史的仮名遣いを施して古風に見せたところが新鮮。10句目、子供の鬼ごっこではなく、大人の鬼畜な遊びが連想される。季語の斡旋も「触れれば鬼となる」という表現も非凡。
<つづく>
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執筆者紹介
- 堀田季何(ほった・きか)
「澤」・「吟遊」・「中部短歌」所属、「朱馬」代表。第三回芝不器男俳句新人賞斎藤慎爾奨励賞、第二回石川啄木賞(短歌部門)。