俳句時評 第4回(冨田拓也)

枠組みの内部と枠組みの外部で    冨田拓也

I(インタヴュアー) 今回から月に一度俳句の時評を行うようにとの御下命です。

T(冨田拓也) はい、なんとかやってみたいと思います。ということで、皆様これからはどうぞよろしくお願いいたします。

I 早速ですが、これから一体どのようにこの時評を展開してゆくつもりですか。

T そうですね。私としてはこれまでと同じように常に自分自身の問題意識を起点として様々な俳句の問題について考察してゆくしかなさそうですね。

I 「これまで同じように」というのは「―俳句空間―豈weekly」での連載のことを指しているわけですね。

T はい。2008年8月15日にウェブ上で創刊された「―俳句空間―豈weekly」で、私が連載をはじめたのは第3号(2008年8月31日)からでした。その連載の中で、これまでの「俳句の歴史」を大まかに振り返ったり、「新古典派」や「ライトヴァース」といった俳句の事柄についてなど、自分なりに色々と考察を続けてきました。

I たしかその連載における最初の数回が「戦後の俳句史」について辿ってゆく内容のものでしたね。

T はい、そうでした。戦後の俳句から「昭和三十年代世代」の俳句作者、さらには現在の「ゼロ年代」の俳句作者まで、非常に大雑把なかたちではありますが一応眺めてきました。

I 現在は2011年となりましたが、ここ最近の俳句の状況について以前に連載を行っていた頃と何か変わった点などは見受けられますか。

T そうですね。飯田龍太が亡くなったのが2007年で、その後2010年に森澄雄が亡くなっています。この二人と同世代の金子兜太はいまも健在で活躍を続けており、そして、やはり「昭和三十年代世代」の作者である長谷川櫂、小澤實、岸本尚毅、小川軽舟、中原道夫などの各氏が、それぞれ結社での主宰や句集の刊行など旺盛な活動を示しています。

I 金子兜太は1919年生れで、現在92歳。長谷川櫂は1954年生れで、現在57歳。小澤實は1956年生れで、現在54歳。岸本尚毅は1961年生れで、現在50歳。小川軽舟は1961年生れで、現在50歳。中原道夫は1951年生れで、現在60歳ということになりますね。

T あと他に現在における主要と思われそうな俳人たちの存在を、少々いい加減ながらもいくつか挙げてみると、八田木枯、津田清子、和田悟朗、柿本多映、後藤比奈夫、宇佐美魚目、小原啄葉、岡本眸、今井杏太郎、加藤郁乎、大峯あきら、友岡子郷、有馬朗人、鷹羽狩行、稲畑汀子、澁谷道、茨城和生、矢島渚男、宇多喜代子、安井浩司、竹中宏、大牧広、鷲谷七菜子、高橋睦郎、大石悦子、池田澄子、坪内稔典、黒田杏子、大木あまり、手塚美佐、秦夕美、宗田安正、角川春樹、鳴戸奈菜、澤好摩、高野ムツオ、久保純夫、筑紫磐井、千葉皓史、西村和子、辻桃子、林桂、江里昭彦、堀本吟、仁平勝、今井聖、夏石番矢、秋尾敏、島田牙城、中田剛、中岡毅雄、片山由美子、対馬康子、正木ゆう子、永末恵子、水野真由美、奥坂まや、鎌倉佐弓、あざ蓉子、岩田由美、石田郷子、櫂未知子、夏井いつき、山西雅子、坊城俊樹、佐々木六戈、加藤かな文、といったあたりとなるはずです。

I まだまだ他にも俳人の数は少なくないはずですが、これだけ見ても、当たり前かもしれませんが、やはり以前とさほど変わり映えしない風景のようですね。

T そうですね。ただ、この数年でインターネットでの作品発表や評論活動、そして若手俳人の台頭が随分と顕著になってきているといえそうです。

I 2007年に『澤』7月号で「二十代三十代の俳人」の特集が組まれたのを皮切りに、その後の2009年には若手俳人のアンソロジー『新撰21』、2010年には『超新撰21』が刊行されました。『新撰21』、『超新撰21』の編者の一人である高山れおなを含むこれらの作者たちの活躍はこのところ論作ともに大変めざましいものがあります。

T たしかに『新撰21』(越智友亮、藤田哲史、山口優夢、佐藤文香、谷雄介、外山一機、神野紗希、中本真人、高柳克弘、村上鞆彦、冨田拓也、北大路翼、豊里友行、相子智恵、五十嵐義知、矢野玲奈、中村安伸、田中亜美、九堂夜想、関悦史、鴇田智哉)、『超新撰21』(種田スガル、小川楓子、大谷弘至、篠崎央子、田島健一、明隅礼子、ドゥーグル J. リンズィー、牛田修嗣、榮猿丸、小野裕三、山田耕司、男波弘志、青山茂根、杉山久子、佐藤成之、久野雅樹、小澤麻結、上田信治、小川軽舟、柴田千晶、清水かおり)に入集の作者については、最近、総合誌などでもよくその名前を見かけます。

I しかしながら、この『新撰21』、『超新撰21』のようなアンソロジーがそろそろ他の出版社から企画、刊行されてもよさそうなのですが、いまだにそのような動きは確認できないようですね。

T まあ、出版不況という事情もあるのかもしれません。

I やはり以前の80年代の頃の若手ブームとは、そういった点で状況が些か異なる部分があるようですね。

T あと、インターネットの方では「週刊俳句」、「―俳句空間―豈weekly」、「俳句樹」、そして、今回創刊された「詩客」などのサイトにおいて俳句の作品発表や様々な評論活動が行われています(「―俳句空間―豈weekly」は100号で終了、「俳句樹」は8号以降現在まで更新なし)。

I これらのサイトを見ていると、現在であっても随分とレベルの高い優れた文章の書き手が何人もごろごろしているという事実に少々驚いてしまうところがありますね。

T そうですね。それこそいままでの状況というものが、あまりにも鎖された性質のものであったのかもしれません。なかなか優れた書き手の存在を総合誌などのメディアの方が上手く掬い上げることができなかったというか。

I おそらくいつの時代であっても、きっとそういった書き手というのはひそやかに潜在していたのでしょうね。

T ネットの普及によりそのような状況が変化し、この数年でこれまであまり表舞台に登場してこなかった隠れた実力者たちが発言をはじめたようなところがあります。

I その他に何か現在の俳句の状況における注目すべき動きのようなものは確認できますか?

T そうですね。いくつかキーワードを挙げてみましょうか。例えば、「ネット」、「若手俳人」、「俳句想望俳句」、「ユニット」、「ライトヴァース」、「主題」などといった言葉が挙げられそうです。

I そういえば、この中のキーワードである、小野裕三が『新撰21』において創出した「俳句想望俳句」という言葉が割合話題になりましたね。

T 一応「俳句想望俳句」という言葉の意味するところは、現在の地点からかつての俳句作品を想望して俳句を作る、ということであるのでしょうが、よく考えて見ると「俳句の原点」を目指すという意味では所謂「新古典派」の俳人たちが随分以前から同じようなことを遂行していたといえるところがありそうです。

I 「新古典派」といえば、長谷川櫂、千葉皓史、小澤實、岸本尚毅、小川軽舟、中原道夫、田中裕明、中岡毅雄あたりの「昭和三十年世代」の作者たちの存在がそれにあたりますね。

T 『超新撰21』、『新撰21』の若手の俳人の中には、「俳句想望俳句」的な俳句の書き手が多数存在します。こういった俳人の存在というのは、「新古典派」の作者たちからの影響の強い、いうなれば「新古典派チルドレン」とでもいえるところがありそうです。

I 「新古典派チルドレン」ですか……。まあ、現在の若手俳人で、長谷川櫂、小澤實、中原道夫などの弟子の方の数は少なくないようですね。この「新古典派チルドレン」的な作者たちの感性というか志向性について、彼らと年齢の近い世代の一人であるあなたは一体どのように思われますか?

T そうですね。「新古典派チルドレン」の方たちはやはり割合古典的というか、俳句の典形性、形式性に対しての親和が強い傾向にあるように見受けられますね。私自身にしても、詩歌を読みはじめたころに割合強い関心を抱いていたのは、歌集では塚本邦雄の『感幻楽』や句集では赤尾兜子の『歳華集』、『玄々』など古典的な色合いの強い作品でしたし、このように自らの歩みの原点を省みると、私自身も割合所謂「新古典派」的なメンタリティーについては色濃く備えているところがあるとは思います。

I ということは、あなたも「新古典派チルドレン」の一員であるというか、もっといえば「隠れ新古典派チルドレン」ということになるのでしょうか。

T 「隠れ新古典派チルドレン」……。なんともややこしい名称ですね。ただ私の場合は、そういった私と近い世代である「新古典派チルドレン」たちのように「伝統」という概念や価値観といったものを単純にそのまま素直に受け入れられないところがあるというのが、実際のところでしょうか。例えば、詩人の谷川俊太郎の言葉に、

七・五(もしくは七・七)の、リズムと言うよりはメロディが、いかに強くわれわれを呪縛しているかは、交通標語ひとつをとってみてもあきらかですが、その呪縛から自由になることは想像以上に困難です。あまりにもあからさまな七五調にはついてゆけぬぼくの感性は、尺八や琵琶の古典に感動しながらも強い嫌悪を覚えるアンビバレンスと同じく、その中に七・五的な肉声への想いを断ちかねています。そのようにわれわれを縛ってくるものこそ伝統なのでしょう。それを断ち切ることができるのではなくて、それを受けつぎつつ変えてゆくことができるだけなのだと、そう考えるところに短歌、自由詩の別はないと思います。

「七・五肉声の魔」より  『現代歌人朗読集成』(大修館書店 1977年)

という言葉があるのですが、まさしくこの「尺八や琵琶の古典に感動しながらも強い嫌悪を覚えるアンビバレンス」といった部分に近い感覚を抱き続けているというのが実際のところです。

I このあたりが「伝統」という概念を、あなたが全面的に肯定できないところであると。

T そうですね。なにかしら「和」的なものに対して親和と違和の入り混じったような複雑な感情をおぼえるというか、どことなくそういったものから一歩引いてしまうようなところがあります。あと、そもそも私には「伝統俳句」という呼称における「伝統」という概念自体が具体的によくわからないところがあるのです。

I 思えば、この「伝統俳句」の「伝統」とは、具体的には一体何を指し示す言葉なのでしょうね。

T それがよくわからないのです。そもそも日本の文化というものは、縄文時代からはじまって、弥生時代、奈良時代からの宮廷文化、鎌倉以後の武士の文化、江戸時代の町人文化といった流れがあり、これらの文化の変遷というものには果たして共通した一貫性というものを単純に見出すことができるのかという疑問がまずあります。そして、俳句における「伝統」ということを考えてみる場合、俳句以外の短歌、もしくはその他の詩型との関係性というものは考慮に入れなくていいのかなどといった問題もあります。

I このあたりの問題については、なんとも複雑なものがありますね。

T 「伝統俳句」という概念に関する高柳重信の言葉に、以下のものがあります。

 昨今の俳壇では、俳壇諸流の便宜的な色分けに際して、前衛俳句という呼称と、それに対比されるべき伝統俳句という呼称が、しばしば使用されている。しかし、この「伝統俳句」という呼称も、よく考えてみると、「前衛俳句」の呼称と同じように、ずいぶんと奇妙な命名ではなかろうか。それは、一見、俳句の伝統の一切を独占するように見せながら、その実、単に、或る固定した一党派を意味するだけにとどまっている場合も見受けられる。もう少し言葉を強めれば、俳句の伝統について、ほとんど何も学ばず、何も考えるところがなくとも、その「伝統俳句」という一党派に身を投ずれば、その日から、俳句の伝統の継承者の一員と見做されたり、また見做したりする不思議さが、さほどの抵抗感もなく受けいれられているようにさえ見えるのである。もちろん、このことは、「前衛俳句」と呼ばれる一党派についても、同断である。このような風潮が招くものといえば、すなわち、俳壇の弛緩のみであろう。

『俳句研究』 1971年5月号 〈特集 俳句の伝統〉「後記」より

I これは四十年近く昔の言説ということになりますが、現在でも割合通用するところのある内容と言えそうですね。

T 結局、このあたりから現在まで俳句の状況というものは、もしかしたらさほど変わっていないところもあるのかもしれません。

I 俳句における「伝統」とは何なのかという点については、昔からさほど具体的な説明や規定がなされていないままであると?

T もしかしたら、俳句における「伝統」とは何か、といった問いについては、誰もあまり考えたくないというか、それこそ多くの俳人たちはそういった本質的な部分についてはあまり詳しく知ろうという意志を持っていないのではないでしょうか。

I まあ、こういった問題については、どこかしらふれてはならないような空気感とでもいったものが少なからず感じられるところはありますね……。

T もっといえば、結局のところ、現在、俳人の誰もが「伝統」という名の甘やかな自己肯定の幻想の内にまどろんでいたい、ということであるのかもしれません。

I うーん……、しかしながら、それは単純にいけないことなのですか?

T そういわれるとなかなか難しいところですが、ある程度は仕方の無い部分もあるとはいえ、今後の俳句という文芸における「質(クオリティー)」ということを考えると、やはり単純にそれでいいとはいえないのではないでしょうか。

I さて、このあたりで先程の話題であった「俳句想望俳句」について少し話を戻したいのですが。

T そうですね。「俳句想望俳句」については、先にも言ったように、既に「昭和三十年世代」の作者たちによって相当数の作が成されてしまった後であるように思われます。

I そういえば、「昭和三十年世代」の作者たちが俳句の典型性を志向するような作品を書きはじめてから現在まで随分と時間が経過していますね。

T そして、もはや「俳句想望俳句」的な手法というものは、それこそ「昭和三十年世代」の作者たちだけにとどまらず、この現在、俳句の世界におけるそれこそ多数を占めている状況にあるといっていいはずです。

I かつてならまだしも、現在においては既にほぼ主流となっている、と。

T 現在の私自身の「俳句想望俳句」に対する考えとしては、率直にいって、現在この「俳句想望俳句」による俳句の書き方では、今後もある程度の成果については期待できるとは思いますが、結局それ以上の「ある一線」を越えられない限界性というものが出てくるのではないかという気がします。単に過去の俳句表現のみを志向する書き方では「何か決定的なもの」を作品の内に獲得できないのではないかという予感がどうしてもしてしまうのです。

I と、いうと?

T この「俳句想望俳句」という概念における欠点というものについていくつか指摘してみると、まずは、表現として新しい要素を導入できないという点がひとつ。続いて、延々と似たような作品の書き方を繰り返すことにより表現の疲弊を引き起こしてしまう可能性が高いという点が次に挙げられます。また、問題になるのが、俳句表現というものは果たして過去へそのまま戻ることは可能なのかという点ではないかと思います。

I なかなか難しい問題ですね。

T そもそも「俳句の原点」を目指すということは、はじめから俳句における「答え」というものが予めある程度規定されてしまっているということになります。そうなってくると既に存在する「お手本」をなぞる行為と近接してくる側面がある、即ちそれこそ「芸」に近い俳句の書き方となるのではないかと思われるのです。

I 「俳句想望俳句」と俳句における「芸」という考えは若干異なるものであるのかもしれませんが、俳句というものは単なる「芸」ではないということをいいたいわけですか?

T もし俳句が「芸」であるとするならば、なぜこの現在、多くの結社において多くの俳人たちが過去と同程度の水準でその作風をそのまま受け継ぐことができているように見えないのか、という疑問がどうしても出てきてしまいますね。

I 確かに芸であるとするならば、もっと優れた作者の存在が俳句の世界に大量に存在していてもおかしくはないはずですが、現実をみるとやはり単純にそうであるとは言い難いところがあるというのが実際のところでしょうね。

T 俳句と芸といった問題について考えるために、ここに草間時彦の発言を少し引用してみましょうか。

 俳句の歴史というものを見ていくと、芭蕉(ばしょう)の時代はそういうことがなかったでしょう。お稽古事を避けようとしたのはやはり子規(しき)でしょう。別の意味で避けようとしたのは碧梧桐(へきごとう)じゃないかと思うんです。それを虚子が女流俳句会を作って、お稽古事へ持って行っちゃったんだ。

それに反対したのが波郷、草田男、楸邨の人間探求派だ。戦後において、金子兜太さんの前衛俳句派もやはりお稽古事から俳句を引き離そうとしていた。ところが、いまや兜太さんもすっかり妥協しちゃった(笑)。それで、いまやお稽古事俳句全盛になっちゃったですね。

『証言・昭和の俳句』上(角川選書 平成14年刊)  聞き手=黒田杏子

I 草間時彦がこのような発言をしていたとは、少々意外な感じがありますね。碧梧桐は当然として、人間探求派の俳句というのも単に「お稽古事」の俳句ではなかったのですね。

T あと、草間時彦は他にも『近代俳句の流れ』(永田書房 平成8年刊)という著作において、俳句と芸の問題について少しふれています。これがすごい内容で、それこそ全文を引用したいところなのですが、ここではその文章である「俳論の貧困」の要点だけを抜粋しておきたいと思います。

・昭和二十年代の根源論争、つづいて社会性論争、三十年に入っての造型俳句論、さまざまな論争が俳壇で行われ、それによって、俳句に新しい血が生れた。しかし、そういう論争は四十年を過ぎると、次第に影をひそめ、五十年になると、もはや、論争は存在しなくなってしまった。

・若い人が出て来なければいけないのだが、このごろの若い人は、利口で、俳壇秩序に従順で、それを乱そうとしない。

・論争不毛ということの影響としては、俳壇に新しい風が起こらないという以外に、俳論の書き手が育たないということを見逃してはいけない。

・俳句の歴史の上では、俳論によって実作が引出され、実作によって、俳論が起る。これは現代ばかりではない。芭蕉の言葉を綴った去来抄、三冊子にしても立派な俳論であるし、子規没後の虚子と碧梧桐の論争など、多くの俳論や論争が繰り返されて、俳句の栄養となって来た。

・俳句以外の芸術社会で、批評のない社会があるのだろうか。小説、美術、どれも内部批評が盛んで、それによって、新しい芸術運動が生まれている。その反面、内部批評の存在を許さない社会も存在する。それは、茶道や花道などの家元制の社会である。ここでは論争が行われたということを聞いたことがない。既成体系を崩そうとする者は、その社会から追われるのみである。私が、十年先、二十年先を危惧するというのは、俳論、論争、内部批評を抛棄した俳句が、家元制社会に近付いていくのではないかということなのである。

「俳論の貧困」  昭和61年1月 「梓」5周年記念号

I こうみると、俳句の世界に論争がなくなって、内部批評が行われなくなった場合、俳句に新しい血を導入できなくなってしまうということなのですね。

T 俳句がお稽古事になってしまうと、そういった弊害が確実に出てくるということになるのでしょう。

I やはり俳句というのは、単純に「芸」ではないと。また、俳句が「家元制」を採用した場合、あまりいい結果とはならないという例がこれまでに割合見受けられるところがあるというのも事実ですね。

T あと、俳句を芸だと主張する人や、「俳句想望俳句」といった考えを支持する人たちがしばしば口にするのが、「俳句における作品意識自体が近代のものに過ぎない」、「作者という考え自体が西洋的な芸術観の産物である」などといった意見です。

I そういった言説については、たしか坪内稔典や長谷川櫂あたりの作者も、度々似たような主張を繰り返していますね。

T 坪内稔典は『潮』2010年7月号で「俳句が第二芸術であることを肯定する」といった意味の発言を行っています。坪内稔典が、近代的な価値観といったものに疑義を呈しはじめるのは、大体1980年代あたりからで、『現代俳句入門』(坪内稔典編 沖積舎1991年刊)を繙読すると、そういった内容の文章をいくつか確認することができます。

I ちょうどその時期にあたる1983年には、中村草田男、高柳重信、寺山修司が亡くなっています。

T このように見るとなんとも象徴的な感じがしますね。また、この頃から俳句ブームが本格化し、どんどん俳句が大衆化してゆく時期ということになります。

I そして、もう一人の「反近代の雄」ともいうべき長谷川櫂の第一句集『古志』が1985年に上梓されます。

T うーん、すごい。まさに時代の流れというものがそのまま目に見えてくるようですね。

I そして、意外にも、この坪内稔典と長谷川櫂の二人は「反近代」という点において、同じコインの表と裏の関係にあるということができそうです。

T そういえば、これらの作者というのは、もはや二人とも自らが作者であるということをどこかへ打ち遣ってしまったようなところがありますね。

I それこそ現在二人ともかたちこそ違え如何に大勢の人たちに受けるかということが目下の主眼となっているというか……。

T まあ、それはそれとして、俳句表現における近代の問題についてなのですが、よく考えてみると、西洋的な芸術観や文学観などといったものを抜きにしてみても、近代以前の日本の詩歌の世界には、芭蕉や蕪村、一茶などといった、それぞれの時代における多くの俳人たちとは一線を画す傑出した作者というものが確実に存在していたわけですよね。

I 事実としては、そういうことになりますね。近代以前であっても芭蕉、蕪村、一茶などが突出した存在であったのは疑いのないところでしょう。

T こう見ると、現在しばしば繰り返される「俳句における作品意識自体が近代のものに過ぎない」とか「作者という考え自体が西洋的な芸術観の産物である」といった言説というものは、はたしてどこまで正しいものであるといえるのか少々疑問に思えてくるところがありますね。

I 近代以前にも、作品への質的なこだわりは存在したと?

T 例えば『俳諧問答』に芭蕉の、

一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。

という言葉がありますが、この「作者」、「名人」という言葉だけを見ても、やはり近代以前の時代であっても作り手としての高い水準への志向や熱望といったものが存在していたのではないかということを窺わせるものがあります。また、芭蕉には他に、

句は天下の人にかなへることはやすし。ひとりふたりにかなへることかたし。人のためになすことに侍らばなしよからん。

という言葉が『三冊子』に見えます。

I こういった言葉を見ると、それこそ現在の坪内、長谷川の大衆へ歩み寄る方向性とはまるで反対のベクトルを示しているように思えますね。

T どうみても「一億人の俳句」(長谷川櫂)や「第二芸術論を肯定する」(坪内稔典)などといった意識とは別のものでしょうね。

I また、近代以前の時代といっても、その時代が単純に優れた部分ばかりであるというわけではないのですよね?

T そうですね。例えば加舎白雄という俳人には四千人もの弟子がいたそうですが、現在ではその弟子たちの作品は殆んど読まれていません。こういった例は他にも多く、近代以前の時代が単純に俳句にとっての正解であるかのような考えは、割合幻想の部分もあるのではないかという思いのするところがあります。

I 近代以前の時代といっても、必ずしも多くの俳人が優れた作者であったわけではないと。

T まあ、当然ながら、近代以前の時代であっても、非常に優れた部分もあれば、そうではない部分もあったというのが実際のところであるのでしょう。

I ともあれ、現在、西洋的な価値観というものについては、やはりある程度見直されるべき部分があるというのは事実だと思いますが、だからといって、この現在における俳句作者としての意志や可能性といったものまでをも早々に放擲し去ってしまっていいものなのかという疑念はやはりありますね。

T あくまで私見なのですが、このような坪内稔典や長谷川櫂らの意見、あるいは「俳句想望俳句」及び「俳句は芸である」などといった反近代を旨とする考えや意見といったものは、おそらくこの現在(もしくはここ二十~三十年)における「流行の言説」である可能性が高いのではないかと思います。

I たしかに現在こういった言説を唱える人を目にする機会は少なくありませんね。小川軽舟も『現代俳句の海図』(角川学芸出版 2008年刊)において似たような内容の文章を書いていました。まるで猫も杓子もといった具合に誰もが口を揃えて同じような意見を繰り返すので少々驚いてしまいます。

T しかしながら、現実的な問題として、これまでの枠組みを早々に打ち捨てたからといって、そのことで必ずしも容易に優れた俳句作品が書けるというわけでも、俳句という文芸が豊かになるというわけでも単純にはないのではないかという気がします。

I 思えば「近代に過ぎない」といった意見は、少々短絡的な言説であるといえるかもしれませんね。果たして本当にこれまでの俳句の歴史というものを単純に「西洋」「近代」の被影響下にあったに過ぎないの一言だけで簡単に片付けてしまっていいのかどうか少し疑問です。

T 本来的にはそういった近代の部分をも含めた上で、現在の俳句というものを考える必要があるのではないかと思います。少なくとも、私としてはこのような言説をこれからも誰もがそのまま受け入れてしまうのなら、俳句という文芸にとって今後あまり有益なものとならないのではないかという気のするところがあります。

I しかしながら、一方で「俳句想望俳句」や「俳句は芸」などといった考えや意見というのは、単純にデメリットの要素のみを有しているというのでは必ずしもないわけですよね?

T そうですね。私としても「俳句想望俳句」や「俳句は芸である」、あるいは「第二芸術論を肯定する」といった言説を一方的に否定したいというわけではなく、俳句にはそういった側面も確かにあるということは認めつつも、俳句における作り手の皆が皆同じような考えを持ってしまうと、少し問題があるのではないかということを言いたいわけです。もし、作者として「近代にとらわれていた」の一言で済む(あるいは納得できる)のならばそれはそれでいいわけですが、俳句という詩型は一方でやはり表現でもあるわけですから、単純にそれだけで済んでしまう性質のものではない部分というのも確実にあるのだと思います。

I さて、ここから現在の具体的な俳句の状況へと目を移したいのですが、元祖「俳句想望俳句」ともいうべき「昭和三十年世代」の作者たちにおける「新古典派」という枠組みがこのところ徐々に崩れつつあるのではないかといわれはじめています。このことについて一体どのように思われますか。

T そうですね。この数年、長谷川櫂、中原道夫には似たような表現の繰り返しがその作品の上に見られはじめているという意見がちらほらと出てきていますし、小澤實、岸本尚毅は現在の俳句表現に対して従来のままではいけないのではないかという意識を抱いているようです。小川軽舟にしても『超新撰21』の自選作における最後のあたりの作品をみると、これまでとは少々異なる変化の兆しのようなものを若干ながら確認することができます。

I これらの面々を見ると、どの作者もこれまでに既にある程度の成果を達成してしまったようなところがあるのかな、という気のするところもありますね。

T そうですね。そもそもこれらの作者というのは、若い頃から既にその作風をほぼ完成させてしまっていたようなところがあります。それがここにきて、そろそろこれまでのやり方のみでは少し難しい局面へとさしかかりつつある、ということであるのかもしれません。

I また、現在の我々を取り巻く現実の諸相というものも、以前よりも少しシリアスな状況になってきているようですね。

T そうですね。最近は東日本で大きな震災が起こりましたし、いまだに福島県の原発の問題が収束していません。これらの影響によって今後これまでとは社会の様相が少しばかり変わってくる可能性も考えられそうです。

I そういった周辺の環境の変化に伴って、俳句の方もこのあたりで良くも悪くもいくらか変化せざるを得ない状況にあるということになるのでしょうか?

T どうなのでしょうね。しかしながら、一応これまでの俳句の歴史を眺めてみると俳句表現というものは、当然のことかもしれませんが、常に社会状況の変化や動きと少なからず呼応している部分が確かにあり、今後そういった変化というものが作品の上になにかしらの影響を及ぼしてくる可能性というのは、やはり考えられるところでしょうね。

I さて、結局のところ、今後、俳句というジャンルを力強く輝かせたいと希うのなら、一体どうすればいいのでしょう?

T なかなか難しい質問ですが、筑紫磐井に以下のような言葉があります。

現代から見るとき新興俳句は遠い過去の歴史のように見えるし、新興俳句作品も現代俳人が作っている句とは無縁のように見えるかもしれない。しかし、新興俳句と伝統俳句(当時「伝統俳句」とは呼ばなかったようである)は車の両輪の関係にあって、どちらに片寄っても俳句は不健全な発展しかしなかった。いってみれば、新興俳句が文学性を意識したとすれば、伝統俳句は俳句の固有性を意識した。どちらかを無視することは、文学性のない因習的な芸事、伝統性のない無国籍詩になってしまうのだ。それは、新興俳句と競い合うことのない現代俳句のありさまをみればよくわかるだろう。

「俳壇観測 3  新興俳句を読んでみよう!」より 『俳句四季』2003年3月号

I 俳人の多くは大抵の場合自らの正しさばかりを主張する傾向がありますが、この評者はそういった単眼的な思考から一歩引いた地点において全体の状況を別の角度から俯瞰し得る特別な視力を有しているようですね。

T こうみると、やはり異なる作風である者同士が競い合い、それぞれが相克しあうことによって、お互いにその真価を十全に発揮できるようになる、ということであるのでしょう。

I どうやら俳句の世界というものは、あまり一つの作風や考えのみに偏り過ぎてしまうとよくないといえそうですね。

T ということで、現在どのような俳句を書くにせよ、あるいはどのような俳論によって自らの意見を主張するにせよ、俳人のそれぞれ一人一人が自らの持てる力を尽くし、各々の能力や実力を高め合い鎬を削ることで俳句という文芸を盛りたててゆく他に、この俳句という詩型を活性化させ得る手立てはない、というべきでしょうか。

執筆者紹介

冨田拓也(とみた・たくや)

1979年、大阪府生れ。

2002年、第1回芝不器男俳句新人賞。

共著『新撰21』(邑書林)。

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One Response to “俳句時評 第4回(冨田拓也)”


  1. 5月20日号 後記 | 詩客 SHIKAKU
    on 5月 24th, 2011
    @

    […] 今週の「俳句時評」を読みながら、技術や文化が多方面において変わってしまう時代において、個々人の研鑽によって積み上げた経験知とでも言うべきことがらと、バズワードとしての […]

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