俳句時評 第32回 湊圭史

『俳コレ』など

週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)が届きました。一昨年の『新撰21』、昨年の『超新撰21』に引きつづき、若手の俳人を中心にしたアンソロジーがまた登場したわけですが、タイトルの「軽み」で分かるように、編集は「新撰」シリーズとは変わった「週刊俳句」(http://weekly-haiku.blogspot.com/)テイストが出ていますね。名前はよく目にしていたけれど、作品をまとめて読む機会がなかった書き手がそろっていて読むのが楽しみ。じっくり読んでから評をしたいので今回は宣伝だけに留めますが、全体の印象はリラックスした「個性」の展示というおもむき。「新撰」シリーズにあった、俳句史と対峙してやる、みたいなエッジはなさそうですが、これはこれで楽しめそうです。パラパラめくってみた中では、太田うさぎさんの句が面白そう。

きつねのかみそり迷子になつてゐないふり   太田うさぎ
なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ
四隅より辞書は滅びぬ花ミモザ

なんというか、今回、女性の句のほうが面白そう。うーむ、書いていると読んじゃいますね。あとは、岡村知昭! といっても、岡村さんの小論を担当しているんで、これもやっぱり自己宣伝かいな。そうそう、「新撰」シリーズと変わった点のひとつが、各人掲出100句の選が自撰ではなく、他撰となっているところ。このあたりも、「軽み」の印象につながっているのでしょう。(ちなみに、岡村さん句の選は私ではなく、柿本多映さん。すばらしい選句!)

もう一冊、邑書林から届いた本が、関悦史『六十億本の回転する曲がった棒』。これは、待ってました、という人が多いでしょうね。待たせただけあって、内容はぎっしりと、第一句集にはありえない重量感。装丁はそうでもないのですが、開けたとたんに目に飛び込んでくる言葉のドトウの重みのこと。とはいっても、句そのものには愉快な句も多いです。

どこの莫迦が人など造つた へい、あッしが     関悦史

いやいやテーマは重いよ、というところかも知れませんが、笑っとけばいいんじゃないでしょうか、こういう句は。それでもという方にもう一句。

京都・紅葉・殺人・岬・日本海          関悦史

表紙には、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』。こりゃあ、あまりにも句の印象にピッタリ過ぎるかもしれませんが、個人的にも好きな絵なので、喝采。関さんセレクションなのかどうか。柳人の渡辺隆夫さんが今年出した『魚名魚辞』(邑書林)の第一句が

ブリューゲル父が大魚の腹を裂く    渡辺隆夫

だったよなあ、などと考えて、ルネッサンス期フランドル派は現代短詩型作家の想像力を刺激するのに違いない、と妄想するのですが、特異な作家ふたりをとりあげて一般化するのはムリでしょうね、ハイ。

と書きつつ、妄想を進めますが、俳諧(の連歌)は正統連歌が王朝詩歌から引き継いだ美学を解体してゆく過程で成立した、というよりも、解体の過程そのものであったわけで、この過程での俗なるものの増殖に、いちばん魅力があると思うのですよね。蕉風俳諧、俳句近代化の「生真面目化」を経て、この俳諧的エネルギーは一種、抑圧されてきたのだけれども、それがふつふつとよみがえりつつあると考えると楽しくなりませんか、ならないか(笑)。そういえば、『俳コレ』巻末の座談会、岡村さんの句に対する評にこんな言葉がありました。

  一見して、不思議な作品で、意味をなさないような作り方の句が多いんですが、攝津幸彦みたいに虚の空間が広がるって感じではなくて、句の手触りが前面に立ちはだかって、こわばってこっちに向かってくる感じ。全体に不吉で、衰弱していて、荒廃している。歴史趣味的な単語や、身体の部分などの断片が絡まり合って、暗い非実在の怪しい世界を作っています。中心性とか意味性が外れて断片化させられた世界の、怨念が籠もった謎の言葉みたいな。

上田  そこまで深刻じゃないような気もしますが。摂津幸彦の場合はデータベースが共通記憶っていうか国民歌謡なんですね。この人のは、たぶん、どこまでもプライベートなもので、本人に聞くと「いや私の俳句は上から下に順番に読んでもらえればすべてわかる俳句です」と(笑)。だから、裏側を聞くとすごくくだらない事実が出てきちゃうんじゃないかと思っているんですけど。

池田  これ、楽しめばいいんでしょ? 書いてあることをそのまま読んで、ああ面白いこと言っているわね、とか思えばいいのよね。

いや、そうです、楽しめばいいんですけども・・・ってのはとりあえず置いておいて(笑)、その前の関さんと上田さんの発言。関さんのは関さん自身の俳句(の一部)に対する自評みたいですが、上田さんのちょっと緩い(よい意味で!)感じの評を混ぜると、うまく岡村さんの句の印象を言い当てているなあと感心。どこかひどく追い込まれている印象と、あっけらかんと開き直ったプライベートさ。自閉と自開が背中あわせのような・・・、フランドル派の明るい(?)グロテスクと遠くかぶるところがあるんじゃないか。小論であんまり褒めなかったんで、ここで褒めておきます。いや、やっぱり褒めてないか(笑)。池田澄子さん、髙柳克広さん、岸本尚毅さんがそれぞれ褒めている中から1句ずつ引いておこう。

防腐剤乳化剤きさらぎの雨       岡村知昭
耳うすく一月一日はどこへ
みどりごの固さの氷菓舐めにけり

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One Response to “俳句時評 第32回 湊圭史”


  1. 堀本 吟
    on 1月 5th, 2012
    @

    湊さん以下、本欄諸氏の時評を愛読しています。
    また、『俳コレ』の岡村知昭さん・・。知の彷徨の迷路性と、本来の野生の単純さをないまぜて不思議な魅力。
    関悦史句集・・真面目に生きているなあ、とその姿勢の大筋に文句を言わせない。現代の若手では、徘徊精神を自由詩の技法で表現できる嚆矢であろう。この二人には新世代の感性の幅広さを感じる。もっと褒めてあげてください。

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