俳句時評 第61回 中村安伸

10年前と現在――角川「俳句」平成14年6月号(1)

先日部屋の整理をしていたとき、角川「俳句」の平成14年6月号を発見した。今からちょうど10年前のものだが、表紙に「創刊50周年記念 連載大特集![俳句の過去と未来]後 10年後の俳句」とある。しかもその下には「平成24年に本号を再読しよう!」と書かれている。

ちょうど10年前に、10年後、つまりいま現在の俳壇を予想して書かれた記事をタイミングよく発見したからには、これについて何らかの検証をしてみなければなるまい。ということで、第1回時評のテーマとして、この記事を取り上げることにした。

当該特集記事は68ページにわたるもので、執筆者は宇多喜代子、齋藤愼爾、坪内稔典、高野ムツオ、千葉皓史、仁平勝、伊藤伊那男、久保純夫、筑紫磐井、奥坂まや、大屋達治、片山由美子、鎌倉佐弓、三村純也、対馬康子、和田耕三郎、佐々木六戈、佐怒賀正美、夏井いつき、坊城俊樹、石田郷子、小林貴子、山西雅子、森賀まり、櫂未知子、辻美奈子、山根真矢、鴇田智哉、ドゥーグル・J・リンズィー、瀬間洋子の30人、そして総論を阿部誠文が執筆している。

30人の執筆者にはそれぞれ2ページが割り当てられ、AからEまで5つの質問に回答するかたちで所見を述べている。

編集部から執筆者へ課せられた5項目の質問は以下のとおりである。

A-10年後には結社はどうなるでしょうか、あるいはどうなるべきでしょうか。また、句会等は?

B-10年後には有季定型はどうなるでしょうか、あるいはどうなるべきでしょうか。また、仮名遣い等は?

C-10年後には俳壇ジャーナリズムはどうなるでしょうか、あるいはどうなるべきでしょうか。

D-10年後に俳壇をリードしているべき俳人十人の、現時点での秀作各一句を挙げてください。ただし、ご自分の直接の師系・同門の人を避けてください。

E-10年後の俳句について総合的に考えること、そして現在ご自分が心掛けていることを記してください。

まずは項目ごとに執筆者たちの回答を検討してゆくことにしたい。ただし、フリーコメントであるEと阿部誠文による総論は本稿の対象外とした。

A-10年後には結社は

結社に関しては悲観的な見通しを語る執筆者が多かったという印象である。外見的に大きな変化はないが、変化しないがゆえに新しい時代の俳人たちからは必要とされなくなっていくという見方や、カリスマ性をもつ俳人が減少していくとともに、大規模な結社はなくなっていくという予測もあった。

「結社」はたんに雑誌を出している俳句クラブのようなものになって、主宰はクラブの部長といった感覚に近くなります。(中略)二千人以上を擁する大結社はどうなるかといえば、俳句クラブというより宗教団体に近くなります。(すでにその傾向がありますが)。(仁平勝)

同人誌にしか出来ぬ役割もあるが、時の流れに堪えるという点で結社の意義は大きい。(中略)百年の計をもって結社というシステムを活かしたい。(山西雅子)

現在、若手俳人で結社に所属しない選択をする人が増えている印象がある。一方で結社所属の若手実力派も台頭してきている。結社の主宰と会員という関係であるかはともかく、俳人同士がなんらかの師弟関係を結ぶことへの需要はなくならないであろう。

主宰のカリスマ性が低下するという漠然とした予想は現実のものとなっているようである。これについては、俳人たちに一種の個人主義が浸透し、会員個人に対してあまり専制的に振舞ったり、価値観に口を挟んだりすることが減ったということと関連しているだろう。そして、いま現在の俳句においてはアットホームな雰囲気の結社が増加している印象がある。しかし、さらに10年後には、逆に専制的な主宰のもと厳しい規律によって管理されるような結社に対する需要が高まっているかもしれない。

B-10年後に有季定型、仮名遣いは?

有季定型、仮名遣いという問題がどう変化するかを論じるのに、10年というのはやや短かすぎるスケールのようである。執筆者たちも、ほとんど変化しないだろうという予測をする一方で、有季、無季の問題、表記の問題に関する自らの所見を述べていてそれぞれに興味深い。ただ、あくまでも10年前の所見であるからここで個別には取り上げないことにする。

なお、この時期、有季定型遵守派と無季容認派との対立が現在よりも激しかったことが以下のような言説から見受けられる。

有季定型を否定する詩が、あくまでも「俳句」を名乗り続ける必要があるのかという素朴な疑問は、常に心にある。確固たる誇りと自負をもって現代詩という大陸へ大いなる旗印をかかげ民族大移動なさればよいではないか、と思う。(夏井いつき)

俳句が本当の文学を志向するならば、(全部とは言わないまでも一部は)無季自由律に移行して当然です。しかし、芸事として隆盛を極めるならば、日本舞踊の型と同様(なぜ必要かの説明はつかないものの)芸事の約束としての有季定型は中々なくならないでしょう。(筑紫磐井)

現在もこれらの対立が消滅したわけではないが、強い口調で相互を否定するような言説はほとんど聞かれなくなった。その理由はさきほど結社の項目で述べた個人主義化の傾向と関わっているかもしれない。また、無季俳句を推進する陣営の勢力が弱まったことで、有季定型遵守派の無季俳句に対する危機感が薄れたということもあるだろう。

この10年で俳句の世界に起きたさまざまな変化のなかで最も大きいもののひとつが『新撰21』に始まるアンソロジーのシリーズや、芝不器男俳句新人賞などによって紹介され、注目されるようになった若手俳人たちの存在である。そしてその中核を占めるのが俳句甲子園をきっかけにして俳句と出会った人たちである。

作品面では長谷川櫂、田中裕明、岸本尚毅、中原道夫、小澤實、小川軽舟、櫂未知子といった俳人たちに代表される、いわゆる昭和30年代俳人と呼ばれる世代の影響が強く、伝統俳句の形式と技法に、前衛俳句に由来する詩的言語感覚を導入したスタイルが中心となっている。一方で口語や自由律を志向する者もいるが、それらのスタイルの違いが派閥間の対立や排他的な議論につながらないのがこの世代の特徴のひとつかもしれない。

俳句作品と作品批評のディベートをセットにした俳句甲子園の競技形式にも関連しているかもしれないが、この世代の俳人たちは、俳句のスタイルを相対化して見ることができているようである。かつて結社に依拠していた旧世代の俳人たちの一部が、自らの採用したスタイルこそ俳句の本流であるという宗教的思い込みをもち、他のスタイルを排撃するということが少なくなかったが、この世代においてそのような動きは希薄である。

スタイルの違いによる排他的な議論は、俳句甲子園世代のみならず減少してきているように思われる。つまり、世代を越えて個人主義的傾向が広がっているのである。作者としてのスタイルの違いは説得し平準化すべきものではなく、その多様性を尊重すべきであるというごく当然のことに気づく人が増えたということかもしれないし、自らの信条を主張することよりも他人との関係を悪化させないことを重視する姿勢のあらわれかもしれない。

C-10年後には俳壇ジャーナリズムは

総合誌の役割に期待する声も大きいが、一方で総合誌は整理されてゆくという悲観的な見方をする執筆者もいる。しかし、

現在、「俳壇ジャーナリズム」といえるのは、『俳句』『俳句研究』の二誌のみ。(大屋達治)

と評されたうちの一誌『俳句研究』が休刊してしまうという事態を想定した執筆者はいなかったようである。

ところで、アンケートの項目としてインターネットに関するものは用意されていないが、この分野について触れている執筆者は多い。私も個人的に関心の深い分野でもあるし、この10年間に起きた俳句の世界におけるさまざまな変化は、直接的にせよ間接的にせよインターネットに関係しているものがほとんどと言ってよいだろう。

10年前には存在していなかった「週刊俳句」「詩客」といったサイトが、総合誌とはまた異なるかたちで「俳壇ジャーナリズム」の一翼を担っていると言ってもそれほど言い過ぎではないような気がする。

ただ、特集執筆者のうち当時インターネットユーザーであったと思われる人は少数である。あきらかな誤解や10年前の時点で考えても若干古い知識を前提とした記述も少なくない。

 「インターネット句会は匿名性を基本とするものであろう。」(久保純夫)

 「インターネットでの未見の句友たちとの個々の繋がりを愉快としつつ(後略)」(夏井いつき)

ハンドルネームの使用と匿名とを同一視することはできないが、インターネット上でのコミュニケーションが現実世界と切り離された仮想空間での出来事であるかのような見方が根強かったことが上に引用した記述から伺える。10年前の段階ではインターネットユーザーは比較的少数であったから、インターネット上のみでの交流の比重が比較的大きかった。こうした状況が変化していったのは、単純にインターネットユーザーが増加したからであろう。

以下に、もう少し詳細に当時の状況を伝えていると思われる記述を引用する。

 

短歌の世界では、すでに”ネット歌人”といわれる若者が出現している。ネット歌会で活躍し、歌集も出版している。そしてその多くが結社に所属していないらしい。(山根真矢)

当時ネット上で活動していた歌人たちが一同に会した感のあった「題詠マラソン」の第1回が実施されたのが2003年であり、当該特集の翌年であるから、上記の記述はかなり正しく当時の状況を伝えたものといえるだろう。俳句においても2005年に「記念日俳句」というイベントが行われた。その後の情勢はご存知のとおりだが、現在「ネット歌人」「ネット俳人」という言葉は殆ど使われなくなった。それはもちろん、俳人、歌人のネットユーザーが減少したからではなく、増加したからである。また、ネットでのコミュニケーションの場が掲示板からSNSへ移行したことも理由のひとつであろう。

日本で最初に大規模に普及したSNSのmixiがサービス開始したのが2004年である。SNSは現実社会における人間関係をネット上に反映させるものであり、これによってネット上のコミュニケーションは仮想空間ではなく、現実から地続きのものとなって特別視されなくなったのであるが、このようなサービスが可能になったのも、年代などの偏りはあるものの、ネットユーザーが多数派になったからである。

インターネットにより、さまざまなコミュニケーション手段のコストが低下した。そして、距離やタイムラグを越えることで、コミュニケーションをとる相手の選択肢が増加した。しかし、いかにコストが下がっても、1人の人間がコミュニケーションに使用することのできる時間やエネルギーは有限である。結果として、考え方や趣味が共通し、気が合う人同士でのコミュニケーションは増加したが、それ以外の人と積極的につながる意識は薄らいでしまったように思われる。

「俳壇ジャーナリズム」という言葉、とりわけ「俳壇」という語に複雑は反応をする読者もいるかもしれない。俳人(この語が適切かどうかについても議論はあるだろうが)たちは、自らが直接属している結社、同人誌、カルチャーセンターの教室、あるいは学校の俳句部といったものの上位に、それらを統合した存在があることを想定している。「俳壇」と呼ばれるもの、あるいは人によってはこの語がまとっているイメージに違和感を感じて、「俳句世間」等の語で呼んでいるものがそれにあたる。

すべての俳人を含む、たった一つの「俳壇」というものがあるというのはもちろん幻想であろう。俳人が個々に意識している「俳壇」はそれぞれ異なるものである。

かつての俳句総合誌は「ひとつの俳壇」を前提としており、俳句総合誌を読むことで俳壇の全体像を俯瞰することが出来ると考えられたし、俳句総合誌に作品が掲載されれば、すべての俳人に読んでもらえるという期待も存在していた。

10年前においてもそれが幻想であると気づいていた俳人は多かったはずだが、インターネットを使用する層と使用しない層の間の乖離が進んだ今日において、もはや「ひとつの俳壇」という幻想をもつ者は存在しなくなり、俳句総合誌の役割も変容せざるを得なくなったようである。

10年前の特集執筆者の多くが、俳壇全体を俯瞰する批評眼を「俳壇ジャーナリズム」に求めていた。具体的には総合誌の編集者にそれを求めていたわけであるが、当の総合誌が最も重要視していたのは、結社や協会のパワーバランスであった。「鋭い批評眼」と「誰ひとり敵にまわさない姿勢」を共存させることは困難である。また、俳句に対する深い洞察をもちながら、どの結社、協会とも等しく距離を置いている人物というのも稀少であろう。

D-10年後に俳壇をリードしているべき俳人10人。

各執筆者が10名の俳人を、作品一句とともに紹介している。(ただし1人も挙げていない人が1名、10人以下の人数しか選んでいない人が2名いる。)

こちらで取り上げられた俳人を集計した結果を以下に挙げておく。(同じ順位の俳人の掲載については順不同。)この結果から何を読み取るかは、読者の皆様におまかせしたい。

  1位   櫂未知子 16票

  2位   長谷川櫂 15票

  3位   正木ゆう子 14票

  4位   小澤實 13票

  5位   片山由美子 12票

  6位   中原道夫、岸本尚毅 11票

  8位   石田郷子 9票

  9位   奥坂まや 8票

  10位   高野ムツオ 7票

  11位   田中裕明、宇多喜代子 各6票

  13位   夏石番矢、坪内稔典、筑紫磐井、五島高資、今井聖 各5票

  18位   大串章 4票

  19位   橋本榮治、西村和子、友岡子郷、仙田洋子、黒田杏子、大石悦子、茨木和生 各3票

  26位   矢島渚男、黛まどか、坊城俊樹、能村研三、野中亮介、仁平勝、鳴戸奈菜、夏井いつき、永末恵子、中岡毅雄、鴇田智哉、辻桃子、高山れおな、齋藤愼爾、小島健、如月真菜、鎌倉佐弓、小川軽舟、大高翔、遠藤若狭男、上田日差子、藺草慶子 各2票

  48位   依光陽子、四ッ谷龍、山本洋子、山西雅子、宮坂静生、三森鉄治、三村純也、三木正美、星野高士、日原傳、中村和弘、中田剛、土肥あき子、寺井谷子、辻美奈子、対馬康子、千葉皓史、竹岡一郎、高橋睦郎、高澤晶子、大屋達治、大道寺将司、鈴木鷹夫、須川陽子、島田牙城、坂本宮尾、小林貴子、倉田紘文、久保純夫、川崎展宏、金子兜太、加藤耕子、片岡秀樹、恩田侑布子、岡本眸、大屋達治、大峯あきら、浦川聡子、宇佐美魚目、岩田由美、今瀬剛一、池田澄子、あざ蓉子 各1票

なお、秀句として取り上げられた以下のような作品をあらためて読んで、それぞれに秀作であり、10年の風雪には十分に耐えていると思ったが、一方で10年前とは異なる感懐を受けてしまうことに気づいた。

春の水とは濡れてゐるみづのこと   長谷川櫂
春の山たたいてここへ坐れよと   石田郷子
手をつけて海のつめたき桜かな   岸本尚毅

なによりも私自身の境遇がこの10年のあいだに変化した。それだけではなく「水」「山」「海」という語の意味するものに新たなニュアンスが、深い陰のように刻みつけられてしまっている。いわゆる震災詠にはほとんど興味を持つことができないが、震災が読者の感性を変化させることによって、過去の俳句作品を変質させてしまったことに慄然とした。

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