自由詩時評 第42回 森川雅美

新しい口語詩

 今年も詩集の新人賞の季節が来た。日本に四つある主要な詩集の新人賞のうち、歴程新鋭賞以外の、中原中也賞、H氏賞、詩人クラブ新人賞の三つは、二月から三月に決まる。各賞、ほぼ三冊目くらいまでの詩集を対象にする。一番古いH氏賞は新人賞とはいえ、比較的落ち着いた年配の詩人の詩集が、受賞することが多い。詩人クラブ新人賞もH氏賞と同じような詩集が候補になり、少し受賞の決定が早いので、ここ数年、H氏賞の有力候補の詩集がとっている。もうひとつは、現在、新人詩人の登竜門ともいわれ、作家など他分野で活躍している詩集の受賞でも話題になる、中原中也賞だ。

 その中原中也賞の審査員の一人でもある、荒川洋治がまた強引な発言をしている。「現代詩手帖年鑑」のアンケートで以下のようにいっている。

 いま、「ある国」では、言論の自由さえおびやかされる時勢。「災害」特需ともいうべき、しまりのない、たれながしの詩集、歌集が出るなど、事態の単純化が目立つ。時節柄、誰もことばをはさめないのをいいことに、ますます彼らは増長。詩とはその程度のものと見られるのだから、正しくは、詩の「被災」である。

 まったく当たってないとはいえない。確かに、現在大手出版や新聞などのメディアが、詩を現在の癒しや救いのための、極めて卑小なものとして扱い、またそのようなものを求める読者も少なくない。営業、売上優位の現在の出版メディアの問題、でもあるのだが、そこを詳述すると詩の時評から外れてしまうので、今回は踏み込まない。ただ何も垂れ流しの詩集は、震災があったからというだけでなく、それ以前に、柴田トヨなどとても詩とはいえない代物が、詩でございと出回っている。あるいは一般に受ける詩などとは、あいだみつおを見れば分かるように、そんなものなのかもしれない。荒川は、震災を扱えばメディアが注目する、そのような状況に詩人や歌人が流されることの、危機を警告している。とはいえ、このようにひとからげに一刀両断にいってしまうことで、大状況は見えても、個個の作品が見えなくなる危険もある。問題は状況を語るのではなく、その中からいかに優れた作品を拾い上げるかだ。

制御棒脱落事故はほかにも
一九七九年二月十二臼福島第一原子力発電所五号炉
一九八○年九月十日福島第一原子力発電所二号炉
一九九三年六月十五日福島第二原了力発電所三号炉
一九九八年二月二十二日福島第一原子力発電所四号炉
などなど二〇〇七年三月まで隠蔽ののち
福島第一原子力発電所から南南西へはるか二百キロ余
束京都千代田区大手町
経団連ビル内の電気事業連合会ではじめてあかす

(「みなみ風吹く日」部分)

 二〇一〇年に弦書房から刊行された、若松丈太郎『北緯37度25分の風とカナリア』から引用した。詩人の藤井貞和さんから教えられた、南相馬市在住の詩人だ。確かに、これを詩として提示した時、戸惑いを覚える人もいるだろう。書かれていることは事実の羅列で、言葉の衝突による緊張感はない。とはいえ、現在を生きる感覚として、このような言葉をあえて選んだのであり、事実をかざりなく置くことによって、現在の原発事故や、その背後にある日本人の負の心的風景まで描こうとしている。いまから見れば予言ともいえる詩集だ。

 自由詩なのだから、形は自由なのである。書く事と書かれたものが一致した時に、「自由詩」は力を持つ。いわば、そこにはいま最も書かれるべきと考える、形が現れるのだ。確かに、メディアを気にして、売名に走る者はいる。とはいえ、そこにばかり強調しすぎると、見えなくなるものがあるのも事実だ。多くの詩人が現在の困難な状況と対峙し、言葉を紡いでいることを私は信じたい。

 若松の詩は原発と切り離せないが、このように詩の書く事と書かれたものが一致するのは、もっと日常の場でもある。そして、そのような言葉が、現在の危機を思いもよらずに、浮き上がらせることがある。また、荒川の強引な発言の続きを引用する。

それでも若い女性の何人かが(男は口数多くても、ただのコドモだから、だめ)、その国の時勢など考えないで、、元気に、ものかげで、いい詩を書いていこうとしている気配。

 このような部分を読むと、留保なくちょっと待てよといいたくなる。荒川は別の場所で、「小説家としてやってきたひとの詩以外は、ほとんど見るべきものがない」というような内容の発言もあるが、そのような大部分を否定する発言からは、何も先が見えないだろう。男の子の肩も持ちたくなる。書く事と書かれたものが一致した、若い男性の作品を引用すれば、荒川がいうほど今の詩も絶望的でないことが分かるだろう。手前味噌で申し訳ないが、「詩客」に寄せられた二つの作品を引用する。

切歯
切歯があって
滑りやすいフローリングに戦線をつくっては
繁茂するザッパ
をふたたび釘打ちならべて
触れられずにはいられない
マル秘の火
(倫理は後からついてくる)
公共的ではないガールフレンドと
(おいしい、おいしい耳朶をもっている)
電話しているあいだにも

(金子鉄夫「ザッパ」)

次回までの課題として
あそこまで行って
帰ってくる
おれの在庫を話してる
1番いいのは狙いが外れて
線で結ぶと出てくるよ
ここまで言って分かることは
緊急外来が来い
どちらかと言えば埋まってる方が悪いと思う

(鈴木一平「親の話はやめろ」)

 どちらもまだ詩集も刊行してない、最も若い世代の書き手の一人だ。共通するのは、言葉の出所が一つではなく、多数の声としてあることだ。そのことが極度に情報化された、現在を描くとともに、存在の根拠を失いかけた危うさや、自分から遠いところで動いている、生命の危機すら予感させる。もちろん声高に叫ぶのではなく、呟きのような声を集めることで、浮かび上がらせようとする。その意味においては、事実を置き語らせようとする、若松の作品とも共通するだろう。言葉は他方向から発せられながらも、それを共有し結びつける糸がある。これらの声もまた、現在を的確に表す、詩の形といえるだろう。

 その延長線上に、ネット時代の新しい口語の可能性が、少し垣間見えてくる。

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