戦後俳句を読む(第1回の1)

テーマ:私の戦後感銘句3句(1)

特別寄稿『3月11日』/関根かな

 3月11日から1カ月。佐藤鬼房の地、塩竈も津波による被害を受けた。3月20日は、鬼房を顕彰する俳句大会を予定していたが、3月16日に「小熊座」の高野ムツオ主宰が中止を決断した。会場となるはずの建物も津波の被害を受けたという。

 いまなお、東北に限らず茨木、千葉、そして東京も地球の揺れに怯えながらもなんとか耐えている。

 3月11日以後、筑紫磐井さんのお声掛けでたくさんの応援のメッセージをいただいた。折れそうな心が折れなかった。お会いしたことも無い方からの応援に、ただただ「俳句」という詩形の連なりを強く感じた。言葉にできない感謝の気持ちで胸が熱くなった。

 鬼房の地、塩竈の復旧と復興を見守りながら、私も、ブログのもとよりのテーマに沿うべく感覚を取り戻していきたいと思う。

赤尾兜子の句/仲寒蝉


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』

 少し前までは兜子と言えばこの句しか知らなかった。意味が分っていたかと問われると自信はなく、好きかと問われるとさほど好きでもなかったが、何故か気になる句であった。いわく言い難い不思議な雰囲気をたたえ好悪の彼岸にあるような句であった。

 兜子の句を字余りという観点から見ると、初学の頃の『稚年記』はほぼ定型遵守、『蛇』の最後の章「坂」あたりから字余りの句が8割を越え、次の『虚像』では9割以上が字余り、それが『歳華集』の最後あたりで減少し、死後に編まれた最終句集『玄玄』ではまた定型が多くなる。仮名遣いも初期の『稚年記』は歴史仮名遣い、『蛇』『虚像』『歳華集』など全盛期の句集は新仮名遣い、最後の『玄玄』はまた歴史仮名遣いに戻るのでこのことと字余りとが明らかに連動している。その意味では掲出句は7-7-5と字余りながら同じ『蛇』に収められた「ゆうべ真つ白い玉巻キヤベツ抱いて思うことないぞ」「場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う」「ナイフが掠める檻の汚れた空で蒸す夜景」などと比べれば随分と大人しい印象である。

 兜子の句は言葉を尽くして細部を描写しているように見えても同じ時代の所謂「写生」を目指した句とは全く印象が異なっている。詳しく描かれることと分りやすいこととは別次元の問題だということを思い知らせてくれる。先に挙げた3句を例に取っても「ゆうべ…」は白い玉巻キャベツというはっきりしたイメージを抱かせるものの何を「思うことない」のか判然としないし、「場末の…」はかなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある、「ナイフ…」に至っては一つ一つの単語の意味は追えても総体としてのイメージは非常に漠然としており何故この語とこの語が結び付くのか謎のまま放り出されている。

 そのような句に混じって掲出句があるということを知った上で読み解いてみよう。名詞4つと動詞2つから成り字数の割には意味が凝縮された感がある。これだけ言えば充分だろうと思えるほど言葉は尽くされている。でありながら頭の中で容易に像が結べない。読者はゴツンゴツンと言葉にぶち当たりながら自分の位置を考えつつ進んで行かなくてはならない。幾つかの謎が読者の前に立ちはだかりなかなかスムーズに前へ進めないのだ。

 音楽とはどのような?ベートーヴェンの交響曲みたいに重々しいものか、それともこれの書かれた昭和30年代前半に流行った春日八郎の『お富さん』や石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』のような流行歌なのか。岸は川岸か湖岸か、或いは海の岸か。「侵しゆく」の主体は蛇なのか飢なのか。勿論それは読者に委ねられているのだから鑑賞は自由なのだが、書かれているのが尋常の光景でないだけに夢でも見るかのような印象がある。むしろその曖昧模糊を狙っているとも言える句なのである。

 赤尾兜子の句の造りは見た物、経験した事をなるべく素直に「単純なる叙述(虚子)」によって表現する行き方からは対極にある。掲出句をもしも作者が実際に目にした出来事と仮定すれば、例えば川岸を獲物を探して蛇がくねりながら進んで行く、その向こうに公園があってゆったりしたムード音楽が聞こえて来る、といった情景を思い浮かべればよい。これを俳句に仕立てるのに音楽や飢といった言葉は不要である。ただ川岸とそこを進む蛇を簡潔に表現すればよい。ところが兜子は背景に音楽を漂わせ、蛇を飢えていると看破し、あえて「侵しゆく」という措辞を選んだ。そのことにより句はどうなったか?良くなったか否かは読者の考え方次第。しかし少なくとも川辺を進む蛇を詠んだ凡百の俳句とは全く異なる世界観を持った句に変身したことだけは確か。あたかも音楽に合わせて湾曲する川岸をパックマンのように蛇が齧ってゆく、その飢は留まる所を知らず蛇は岸の続く限り地の果てまでも進んでゆく…と言ったところだろうか。

楠本憲吉の句/筑紫磐井


汝が胸の谷間の汗や巴里祭

 憲吉の極めつけといってよい句である。しばしば、この「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないではいないかと批判する人がいるが、そうした人に限って憲吉の「巴里祭」に匹敵する程の句を持っていたためしがない。この句に匹敵する名作はそう簡単には見つからないのである。もちろんわたしは以下の連載で、「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないという迷信を打ち壊したいと思うのであるが、その意味でも1回目に取り上げるべき句だと思う。

 「巴里祭」とは、7月14日のフランス革命記念日のことであるが、もはや風俗としては何の痕跡も残っていないのではなかろうか。この句の詠まれた背景には、憲吉の若かりし時代、彼と同世代が背伸びをして見たであろうルネ・クレールの「巴里祭」(Quatorze Juillet 1933年フランス映画)を抜きにしては語れない。内容は巴里祭の前後の男女の他愛ないものがたりだが、灘万のボンボンとして生まれ、慶応大学を出て、やや前衛風のかっこいい俳句をつくる憲吉にはふさわしい映画だ。上演はたぶん憲吉12,3歳の頃である(遠藤周作が同級生だ)。だから、この映画を見なくなった現代では共感が乏しくなるのも致し方ない。

 映画巴里祭の流行った二・二六直前の騒然とした時代の、少しエロチックな、しかし明るい時代雰囲気は、戦後の同じような時代を生きている憲吉にピッタリする。「谷間の汗」で上気している若い女の生理までもがにおい立ってくるのは、この作家特有の観察眼である。この作者の句に登場する女たちはみな個性的で美しい。(作者による卑俗な自解があるが興ざめなのでここでは紹介しない。)

 出典は『楠本憲吉集』(昭和42年)、昭和28年の作品。

成田千空の句/深谷義紀


空蝉の脚のつめたきこのさみしさ

 第1句集「地霊」に収載。昭和22年、作者26歳の作。千空が萬緑の初巻頭を得た作品である。

 句意は平明、というより直裁過ぎるまでの仕立てであり、このような句に対してあまり解説めいたことを言っても始まらないだろうが、敢えてコメントを試みたい。

 蝉の殻に触れたときに感じる、その軽さやはかなさ。それらは誰しもがあげるものだ。生命(実体)のない空虚さや過ぎゆく夏への惜別などがそうした感覚を背景から支えており、そうした文脈で作られた作品も多い。だが千空が感じたのは冷たさだった。まずこの点が新しい。

 そしてその蝉の殻の冷たさを通して、千空が覚えたさみしさ。それは、もちろん千空自身のさみしさでもある。若者特有の瑞々しい感受性の発露を感じるが、それだけにとどまらないと思う。確かに「さみしさ」という言葉をそのまま用いた直截な表現であり、センチメンタル過多という批判もあるだろう。しかしこの句を読む度、蝉の殻の冷たく乾いた感触が指先に伝わってくるような感覚を覚える。そのリアリティこそがこの句の生命線であり、単なる心情吐露に終わらず読む者の共感を呼ぶのだと思う。また、下五の破調(字余り)が鬱屈した心情や哀切さを際立たせる。

 一方「さみしさ」で想起するのは、やはり「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子」だろう。二つの作品を並べたとき、双方とも若さがその背景にあるが、誓子が感じたのは高等文官試験の受験勉強(法律学)の味気なさであり、謂わば未来への試練である。目前の試験に合格すれば輝かしい将来が拓けるわけであり、炭をつぐ行為もその一歩だと言えなくもない。それに対し、千空は当時母親を青森市内に残し、五所川原の姉の家に仮寓、帰農生活を始めたばかりである。千空が感じたさみしさは、確たる将来の見えない不安、寄る辺なき身の孤独であり、蝉の殻の感触によって胸の奥底に秘めた心情が思わず口をついて出たものといえるだろう。

時実新子の句/吉澤久良


妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ

 句集『有夫恋』(副題「おっとあるおんなのこい」1987年)所収。表紙裏にこの句が載せられていて、「言ってくれました、女の気持ち。」との田辺聖子のコメントがついている。時実新子の代表句である。新子が「川柳界の与謝野晶子」と言われ、「不貞川柳」などという批判もありながら『有夫恋』がベストセラーになったのも、奔放な情念の激しさが読者に衝撃を与えたからだろう。

 川柳にはなじみのない読者が多いと思われるので、川柳界の事情を多少説明する必要があるだろう。川柳では一部を除き、作者自身の〈心の真実〉を書くことが川柳の価値であり、存在理由であると思われてきた。作品は作者の〈心の真実〉によって保証され、読者は作者と作中主体とを同一視して、作者の〈心の真実〉に共感するという形で、川柳の授受は行なわれてきた。そういう文脈の中で、田辺聖子のコメントも理解できるし、新子の評価もあったのだろう。そして、そのような川柳の事情は昔の話ではない。現在でも、川柳では〈心の真実〉信仰派が圧倒的に主流派であり巨大勢力である。

 私は、掲出句を作者の〈心の真実〉の反映として読もうとは思わない。

「ゆらりゆらり」という身体の揺れが、「妻をころして」別の女のところに行く男の心理の揺れに重ねられ、その揺れは男を待ち焦がれる女の心理にも共鳴する。ゆっくりと罪へと滑り落ちてゆく怖れ。怖れをどこかで意識しながらも、それを圧倒する情念。浮遊するような心もとなさ。「ゆらりゆらり」というオノマトペは実に見事である。「来よ」という古語が、王朝時代の妻問いのイメージを呼び出してある種の華やぎさえ感じさせ、事態の生臭さを昇華する働きをしていることも見逃せない。現実の時空とは違う作品空間を準備しているのだ。このように綿密に計算された一句が、〈心の真実〉の直截な表現であるはずがない。新子は実際の自分に近い仮構の作中主体を作り上げた。しかし、前述のような川柳の授受の形のせいで、読者は実際の新子と仮構の作中主体とを混同しかねない。新子はその混同を意識的に利用しようとしたのではないかという気がする。

 〈心の真実〉ではなく作中主体の仮構性にこそ、この句の現代的な価値があるのではないか。そのような読み方をすることによって、この句は一個人の〈心の真実〉という呪縛からもっと広い読みの世界に向かって解放されると私は思う。

上田五千石の句/しなだしん【「星」の句からみる五千石の真実(1)】

 前のプロローグ(自己紹介)にて

ゆびさして寒星一つづつ生かす   五千石(昭31年作)

を第一句集『田園』から挙げ、私の愛誦句であることは書いた。
 この句の特筆すべきは、とても能動的であること。「ゆびさして」「生かす」のだ。見上げた夜空に星を一つ見つける。一つ見つけると目がどんどん闇に慣れてゆき、また一つ、また一つと星を見出すことができる。五千石はその行為を「生かす」と言いきった。それも、星の一つ一つを確認するように「ゆびさして」である。

        ◆

 このとき、五千石はきめらく星を「ゆびさして」「生か」したいほどの心持ちにあったのだろうと推察する。

 この句について五千石は、自註(*1)に次のように書いている。

俳句によって、自分という存在が、ハッキリしてきた。
そうなると自分を中心に宇宙の全てが、いきいきしはじめた。

実は、五千石は一浪のあと入学した上智大学二年の春頃、いわゆる神経症に悩まされていたのだ。

五千石は、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「俳句との出会い」のなかで、次のように記す。

大学二年の夏休みを、私は一か月も早くとらざるをえませんでした。
神経症が高じて、どうにもならなかったからです。(中略)
死は私に直面していました。

 そんな状況にあった五千石は、帰省後に母の導きにより、秋元不死男の俳句に出逢う。

 同書によれば、後日、五千石が参加した俳句会は「忘れもしない、昭和二十九年七月十七日のこと」で、「私を苦しめぬいた神経症は、その夜をもって完全に雲散霧消、神経症の患者ではなくなった」という驚くべき事象の日であり、「かくて秋元不死男は私のいのちの恩人」となったのだ。

 さらに続けて「ゆびさして」の句にふれ、

俳句によって、初めて私自身と巡り会うことができたのでした。
言葉をかえて言えば、”私の中の自然を大切にする”ことを知ったということです。 
今日の私の生き方と私の俳句観は、すべてそこから導かれてくるのです。

と述べている。

 ちなみに7月17日の俳句会というのは、秋元不死男が出席した吉原市(現富士市)での「氷海」吉原支部発足の会であった。この件についてはまた別途述べたいと思う。

        ◆

 「ゆびさして」の句が成ったのは、先の神経症の件が起こった昭和29年5月頃から数えておよそ1年8カ月後、ということになろうか。この句は、五千石の、俳句開眼の一句であり、自我開眼の一句、そして「いのちの一句」でもあったのだ。

 若き五千石の青春が迸っている作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』 角川学芸出版刊

近木圭之介の句/藤田踏青


古里 石も眠い

 「ケイノスケ句抄」(昭和61年発行)の中の昭和55年の作品である。明治45年に生まれた圭之介(旧号:黎々火)は小学校1年生までの7年間、金沢の地で育った。そして1年生が終了した後、山口県長府市の伯父の許へ養子となり移り住んでいるので、この古里は金沢を指しているのではないか。叙情を抑え句材とする物「石」を冷静に描写する事によって「古里」への思いを円環的に形象化している。そして埋もれ去った時間の中で古里は眠りに居り、石もまた掴みどころ無く眠いのである。

 この句は4・3・3のリズムの十音であり、自由律俳句での所謂短律句である。荻原井泉水が主張した自由律俳句では、大正末から昭和初期にかけて短律の句が数多く作られ、その主宰する俳誌「層雲」では昭和4年に層雲第7句集が「短律時代」と称して刊行されているほどである。代表例としては次のような句がある。

 咳をしても一人(9音)  尾崎放哉  大正14年
 草も月夜   (6音)  青木此君楼 大正15年
 陽へ病む   (4音)  大橋裸木  昭和6年

井泉水の主張では「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」(「新俳句入門」より)とあり、上掲の句なども構成的に二句一章の構造をもち、意味上の句切れと音調上の句切れを共に備えている。圭之介は昭和7年に「層雲」に入門しているので、当然そのような新しい短律の世界を見つめてはいるが、放哉や山頭火とは異なる詩性を尊重する短詩的傾向の作品開拓へと進んでいったのである。

 自由律俳句の短律については高柳重信が次の様に言及している。「大正時代にはロマンチックな人道主義と、ほとんど純粋無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それ等の俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。・・・・中略・・・・自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙をあいするようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった」(「俳句形式における前衛と正統」より)。これは多分に放哉や山頭火を念頭に置いた論であろうが、短律という形式は戦後においても掲句のように脈々と生きづいており、戦後は信仰心というよりはより一層詩的な方向へと展開されていった。

 また、圭之介は昭和16年と昭和53年の2回「層雲賞」を受賞しているが、戦前戦後を通じて二度の受賞者は「層雲」では氏ただ一人である。その2回目の受賞の前年(昭和52年)の作品に次の様なのがある。

古里では黄昏が咽喉から溢れて来た

 これは前掲の作品とは異なり、二十一音の長律の作品である。自由律俳句の本義である「一句一律」の主張は当然、このように一人の作者の中で短律と長律の並存という可能性をも秘めているのである。
 尚、氏の没後(平成22年)に刊行された「日没とパンがあれば」では掲句はそれぞれ「古里 眠い石も」「能登で黄昏が喉まであふれてきた」となっているが、その詩画集的な趣きを考えると、俳句臭を取り去り、詩的に推敲した為かも知れない。

稲垣きくのの句/土肥あき子


歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に

 きくのの句集は生前3句集、没後1句集、計4句集ある。このたび3回続く感銘句の鑑賞は、それぞれの句集から一句ずつ取り上げていきたい。

 掲句は1963年に刊行された第一句集『榧の実』に所収されている。「春燈」に投句を始めた1946年から1962年まで、40〜50代の作品が収められている。「春燈叢書第18輯」とある本句集は、扉の木版画に当時「春燈」の表紙も手がけていた川上澄生、題字は宮田重雄という瀟酒な装丁であり、句集というより、上質の和菓子の箱のようにも見える。とはいえ、そこに並ぶ俳句は甘い菓子を思わせるものは少ない。

 掲句から見えてくるのは一人の女である。他人の手を借りずに、女が一人でできるものは数あれど、指の包帯ほど厄介なものはない。片手で押さえながら、歯も動員し、最後に作る結び目にくっと力を入れるときの視線は、確かに宙を見上げるかたちになる。それもどちらかというとぶざまな姿であると自認しつつ。

 きくのは短い結婚生活を経て、20代を映画女優として自活の道を得た。役柄を見ると、女客などが多く、大きな役でも主役の姉あたりであることから、スターというほどではないが、それでも10年間に45本という出演本数は立派な女優として活躍していたことを意味するものである。また、これは一般の明治生まれの女性の典型からは外れた人生でもある。結婚、出産、子育てという周囲の常識から見ると、遥か遠くの銀幕の女性であり、きくの自身「一般とは違う女」であることをじゅうぶんに意識していただろう。そして、そろそろ30歳になるという頃、女優を辞め、俳句を始める。仕事を辞める直接のきっかけが何であれ、己の美や老いをもっともはっきり自覚する職業であることを思うと、30歳は潮時と考えたのかもしれない。

 きくのの作品には生活感がないと言われてきたというが、女優であった経験が自身の運命をごく客観的に見る術を身につけたのだと思われる。ストーリーがあり、背景があり、役者がいる。これらを実生活のなかでも、自然と感知していたのではないかと思われる。

 掲句に漂う空気は孤独であるが、対極に渡り鳥を自由の象徴としてはばたかせることによって、大きな空間が生まれた。雲に紛れる彼らの目指す先の安住の大地へ、思いを馳せる。包帯の白が実に映像的である。

 同句集に収められる〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈似合はなくなりし薄いろ鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉などからも、現実を静かに見つめ、嘆き悲しむ見苦しい姿は決して出さず、かといって目を閉ざすわけでもない妙齢の女が凛として佇っている。

中尾寿美子の句/横井理恵


肉体を水洗ひして芹になる     (昭和六三年)

 掲句は、中尾寿美子の没後に出された句集『新座』に収められている。「肉体を水洗いしたら芹になるだろう」と言っているのではない。本当に「水洗いして」いま正に「芹になる」瞬間が詠まれているのだ。言葉の上からそう読むべきであるだけでなく、寿美子の句集を順に追っていくと、芹になるに至る寿美子の姿が見えて来る。今ここにいる「わたくし」を突き詰めていって、寿美子が到達した一つの確かな存在感、それが、清々しい「芹」の姿だったのである。

 上記は『天為』200号記念特集「検証・戦後俳句」もう一つの俳人の系譜(平成19年)に掲載された拙論「中尾寿美子論 ――わたくしを水洗いして―― 」の冒頭の一節である。掲句は、作者の寿美子が本当に自分自身をざぶざぶ洗って清々としている実感を詠んでいる。昭和五五年の句「はればれと水のむ吾れは芹の類」で予感していたが、やっぱり寿美子は芹だった。みごと芹になりおおせた寿美子の感覚が、読み手である私の体にも、すうっと染み通ってきた。

 かつて、平成15年の天為150号記念シンポジウム―「不易流行」試論について―で、川本皓嗣氏はパネリストたちにこう問いかけた。

 素直に今を生きている自分、それを詠むことが新しみを出すことだという(中略)―でも、そんなに素直に今を生きることはできますか。

 川本氏は、俳句というものは伝統でがんじがらめになっているジャンルであり、自分というものの素直な流露を妨げるものの方が多いことを指摘した。そして、そこから解放される努力が必要だと説いたのである。

 言葉にするという行為が生の実感から遠ざかる危険なものであることを、私たちは経験的に知っている。だからこそ、詩は短くあらざるをえないのだ。世界で一番短い詩、俳句は、説明せず、生きて今ここにあることの感覚をそのまま言葉に写し取ることができる。中尾寿美子の晩年の句は、感覚の素直な流露を体現している。その代表が、掲句である。

川本氏の問いかけに対し、今ならこう答えられる。

「晩年の寿美子は、それができましたよ。」
と。(その1 了) 

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