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戦後俳句を読む(第1回の2)

テーマ:私の戦後感銘句3句(1)

齋藤玄の句/飯田冬眞

おのおのの紅つらならず曼珠沙華

 昭和50年作 句集『雁道』所収

 曼珠沙華を見るとき、どのように見ているだろう。まずは畦一面を真紅に染めて咲く曼珠沙華の一群が視界に飛び込んでくる。その次に焦点を絞ってゆくと、ひとつひとつの曼珠沙華の姿と色に行き着く。曼珠沙華の花の色を言葉で表すならば「紅」としか言いようがない。しかし、一本一本の真紅の曼珠沙華の「紅」の色はどんなに群がり、蘂と蘂が錯綜するほどに咲き乱れても、決して、隣で咲く曼珠沙華と同じ「紅」の色ではないのだ。曼珠沙華の「紅」の色は隣の紅を乱さず犯さずに咲き盛っている。全体では真紅一色に見える曼珠沙華も一花一花の「紅」の色は微妙な異なりを身にまとっている

 言葉と実態のもつ微妙な差異を凝視することで曼珠沙華の実相を見つけ出し〈おのおのの紅つらならず〉と表現し得たところにこの句の独自性があるように思う。言われてみれば確かに曼珠沙華の姿は、そうとしか言いようがない。まさに写実の鋭い目によって、曼珠沙華の本来の姿を描いて見せた一句といえる

 齋藤玄は「凝視と独白の作家」であると前回紹介したのだが、この句は、彼の「凝視」の側面をよく表している句だと思う。曼珠沙華の人口に膾炙した句と比較するとそれがよくわかる。試みにいくつか挙げてみる。

つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子
曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男
西国の畦曼珠沙華曼珠沙華    森澄雄
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太

 どれも秀抜な句であることはまちがいないのだが、曼珠沙華そのものが鮮烈であるゆえに〈天上の紺〉〈落暉も蘂をひろげ〉〈西国の畦〉〈腹出し秩父の子〉といった景物あるいは背景を引き合いに出すことでしか作品世界の均衡を保てなくなっている。つまり、私たちが名句だと思っているこれらの句は、読者が抱く曼珠沙華に対するあるイメージを引用することではじめて作品として成り立っている作り方なのだ。俳句とはそういうものであるのかもしれず、大方はそうした詠み方、作り方でよいのだが、齋藤玄は対象を見て視て観て見尽くして自滅するか、そこから対象本来の姿をつかみとることに成功するかのきわどい作り方をしている作家なのである。掲句はもちろん成功例なのだが、他の作品について言うと「凝視」することで対象と一体化した挙句に作者が透けて見えすぎる嫌いがある。たとえば同じ『雁道』の〈色として白梅の白なかりけり〉などは、〈白梅の白〉を凝視した結果〈色として〉〈なかりけり〉という理屈を詠むという自滅の道をたどってしまっている。いわゆる「理に落ちる」というやつだ。掲句は、他の背景、景物をいっさい用いずに曼珠沙華だけを見てその「紅」をとおして〈つらならず〉という曼珠沙華そのものの姿に肉薄した結果、命と命のありかたの実相、関係性の真理といったものの一面を言いとめているようにも読めるのだが、いかがだろうか?

日野草城の句/岡村知昭

 山茶花やいくさに敗れたる国の

 『青玄』という雑誌が日野草城の存在なくしては決して生まれなかったことを思うとき、これから「『青玄』の作家たち」の作品の数々を考えていくときに、まず取り上げるべき作家は草城こそがもっともふさわしいはずである。そしてこれから取り上げる1句こそ、草城の俳句への復帰を飾る第一歩であると同時に、草城を慕う若者たちにとっては『青玄』創刊への大いなる助走のはじまりとして、それぞれの立場がその後さまざま変わることはあっても決して忘れることのできない大切な存在、まさしく「感銘句」としてあり続けた。私にとっての「『青玄の作家たち』へのアプローチもまた、日野草城の「山茶花」の1句から始めることにしたい

 草城がこの一句を詠んだのは昭和20年11月11日、大阪は豊中の小寺正三の自宅で開かれた第1回「まるめろ俳句会」でのこと。草城がこの1句を詠むまでの様子は、この日の句会に参加していたひとりである楠本憲吉は翌年創刊した「まるめろ」の創刊号で次のように書いている

 本道をそれて道が下り坂にかかった時、左手の籔の茂みの中に山茶花の灌木がぽっかり浮き出たように咲いているのに目を引かれ、振り返りざまに眺めていると
「オヤ、山茶花が咲いていますね
 と穏やかに言われた。それはいかにも穏やかな先生の声だった

(引用は『日野草城全句集』栞所収の「先師草城のことども」より)

 楠本憲吉はもちろんのこと、伊丹三樹彦、桂信子といった他の参加者たちが一挙手一頭足を食い入るように見つめ続けていた中で草城が発した「穏やか」な声、「穏やかに」語られた言葉。「穏やか」な一瞬から詠まれた草城の1句が参加者に強い印象を残したであろうことは想像に難くないし、いま彼ら彼女たちが立っているこの場のありようを「いくさにやぶれたる国」と広い視線で捉えるときのあまりの穏やかさも、参加者たちをまた驚かせるに十分だったはずである、まぎれもなくこの国は「いくさに破れ」たのだとの思いを「穏やか」な詠みぶりを通じて草城は突きつけてきたのだから。そんな参加者たちの驚きをよそに、草城はこの1句に対しての名乗りを「又しても如何にも穏やかに言われた」と憲吉は書き残している。名乗りは幾度も繰り返され、この日の句会の最高点となった

 8月15日周辺の句で「おもひきや戦をとざすみみことのり」「戦果つ残る暑さのきびしきに」と詠んだ草城にとって、「敗れたる国」と敗戦をはっきりとした言葉で表すことへの逡巡は多少はあったかもしれない。だが自らの目の前に立つ若者たちのまなざしの熱さを前にして、自らが再び俳句に拠って立つ意思がより確かなものとなったことを深く実感したところから、草城の「いくさに敗れたる国」での再出発が始まった。それはこの日出席した憲吉、三樹彦、信子にとってもまた同じだったのだろう。草城の「穏やか」さの中に秘められた熱さを受け止めるところから始まったそれぞれの戦後。だが草城と若者たちの想いがひとつの雑誌として形になるまでにはあと3年の月日を要したのだった

堀葦男の句/堺谷真人

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒

 第一句集『火づくり』(1962年)所収。最終章「火の章」、「潜在空間」と題する25句の劈頭に置かれた作品である。広く人口に膾炙した堀葦男の代表作であり、究極の抽象表現は昭和三十年代前衛俳句のひとつの到達点を示す。安西篤は『現代の俳人101』(2004年)の中でこの句について「原色のタッチの力感でひた押しする抽象画のバイタリティを感ずる。アクションペインティングのような力強さだ。当時の時代相の低暗部にあるマグマを感覚的に表現し得た句でもあった」と書いている。的確な鑑賞であろう

 葦男は、終生、俳句表現の形象性を重んじた。句座では「心のすがたを、物のかたちで書く」という言い回しを好んで用い、時に言語遊戯や観念性に流れる連衆をやんわりと誘掖した。その葦男がこの句では黒以外の色彩と形状とを悉く消去しているのだ。互いに相摩し、相撃ちながら押し寄せて来る夥しい黒の氾濫。怒濤のような運動エネルギーだけを、作者の側もいわば「力づくで」書き切ってみせたのである

 ところで、筆者は生前の葦男から、この句の誕生の契機となった体験について直接聞いたことがある。「夕方、御堂筋を歩いていた。ふと顔を上げると、淀屋橋方面から夕闇を背景にして猛然と走って来る自動車の群が目に入った。煌々たるヘッドライトの光以外は一様に黒い塊。それがあとからあとから際限もなく押し寄せて来るさまは圧倒的だった」と

 大阪市を南北に貫く6車線の御堂筋は、1970年の1月から南進のみの一方通行となった。同年4月に開幕した大阪万博による交通量の増大が予想されたため、渋滞緩和策として、市内の南北方向の幹線道路が一方通行化されたのだ。葦男が目にしたのは南北双方向に自動車が流れていた御堂筋である。職場は大阪市東区(現・中央区)備後町の綿業会館内にあった。綿業会館から西に300mほど行くと御堂筋にぶつかり、淀屋橋はそこから北に約800mという位置関係だ。葦男は御堂筋に沿う東側の歩道を北向きに歩いていたと思われる。帰宅中だったのであろう。いや、仕事関係の酒席があって北新地方面までゆく途中だったのかもしれない。いずれにせよ、前衛俳句の極北に屹立するこの記念碑的な一句は、近現代大阪の大動脈ともいうべき御堂筋の夕闇の中で胚胎したのである

 以下、余談。葦男の職場から御堂筋に出て、淀屋橋と正反対、南へ500mほど行くと、真宗大谷派難波別院(南御堂)がある。その近く、御堂筋の東側側道と中央4車線を隔てるグリーンゾーンに小さな石の柱が立つ。刻まれているのは「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の文字。芭蕉が客死した花屋仁左右衛門の旧宅跡だ。昭和初頭の御堂筋拡幅工事により、旧宅跡は路面にせり出す格好になってしまった。元禄七年の秋、一人の老俳諧師があまたの門人たちに囲まれて今生最後の幾日かを過ごした永訣の地を、3万台以上の自動車が今日もまた駆け抜けてゆく

三橋敏雄の句/北川美美

日にいちど入る日は沈み信天翁

 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。視点は鳥である。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳

 「世はり世はきたる地は永久とこしなへ長存たもつなり 日はで日はりまたそのいでし處にあえぎゆくなり(略)」

 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である

※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。

戦後川柳/清水かおり

揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け   渡部可奈子

 渡部可奈子(1938~2004・松山市)。「叶うなら抽象の一句で具象万句を超えたい」渡部可奈子川柳句集『欝金記』(昭和54年発刊)の序に紹介された言葉は色褪せることなく今もある。渡部可奈子は短詩型文学界で広くその名前を知られている。1968年から川柳を作りはじめたが、彼女の晩年の活動母体は川柳界ではなかった。可奈子の川柳は詩性川柳、革新川柳を方向性とする作家達の先端で書かれたもので、私性と言葉の関係性の深化において高い評価を得ていた。可奈子が川柳界を離れた理由は計り知れないが、現代川柳の問題点として挙げられる私性についてこの頃すでに感じるところがあったのかもしれない。私性(自己)と言葉(喩)の密着度を個人の思いの強さとする流れは、自己へ求める喩の厳しさと一見地続きであるようで、そうではない。時代を駆け抜けて行った可奈子作品を慕う、私達川柳人が思うのは、そのあたりの彼女の苦悩と可奈子作品が今なお放ち続けている言語の可能性だ。

 昭和40年代、50年代の川柳界は女性性の解放と叙情の表現の追求に勢いがあった。渡部可奈子も「生姜煮る 女の深部ちりちり煮る」など、情念を感じさせる句を代表句として取り上げられることが多い。しかし、彼女の川柳の本質は言葉の詩性と暗喩の鋭さである。暗喩の解り難さが、現代と比べものにならない環境であった当時、他者の川柳へ理解を閉ざした結社では難解句として敬遠されたこともあったと聞く。それでも彼女の作品は言葉を駆使する者への信頼に満ちている。

 掲出句、「揶揄」という言葉をこれほど透明な印象をもって使用した句を私は見たことがない。「揶揄らしい揶揄」と読めば「一輪」は個人の佇まいに収斂していく。「揶揄一輪」と読めば、「揶揄」はその何らかの俗っぽさを剥がれて鋭利さだけが立って在る。そこには深い精神の営みが幾度も繰り返される。そして「頭」という句語によって肉体に戻された瞬間、はたして「揶揄」はその一般的な意味を読者に渡せるだろうか。「揶揄」の語がまるで天啓のように「頭の夜明け」という句姿の美しさで、読む者の胸を貫くのである。

 可奈子の句の特徴は言葉の意味を更新させるようだ。句語によって創られた一句のイメージが、次にはそこに使われている句語へと逆に吸収されていき、新たな背景を持った言葉へと変化していくように思えるのである。

戦後俳句史を読む/筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢         兜子
汝が胸の谷間の汗や巴里祭         憲吉
ゆびさして寒星一つづつ生かす       五千石
古里 石も眠い              圭之介
妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ    新子
歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に       きくの
肉体を水洗ひして芹になる         寿美子
空蝉の脚のつめたきこのさみしさ      千空
おのおのの紅つらならず曼珠沙華      玄
山茶花やいくさに敗れたる国の       草城
ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  葦男
日にいちど入る日は沈み信天翁       敏雄

筑紫磐井:いよいよ、「戦後俳句を読む」が18人の作家の参加で始まったが、16作家の1句鑑賞を読み終わったところ(実際は締切に間に合わなかった執筆者がいたり、今回は欠稿の執筆予定者もいたので12人の鑑賞を対象にした)で、いささか気が早いが「戦後俳句とは何なのか」を語ってもらいたい。

北村虻曳:俳句について人と話し始めた頃、自分の句を披露したところ、「これはどういう意味か。もし貴男自身が句の主体だったりしたら最悪だ」と言われた。私はその最悪を意図していたのだが。これで自身を直接的に出すことは、ある種の俳人のタブーに近いことを悟った。俳句は、基本的に事物を詠み、場合によってはそれに自己が投影されるという方式である

 一方近年出席している歌会では、とくに断らないかぎり主体はほぼ作者とみなすと言う意見をよく耳にする。作者の登場は普通のことなのである。作者でないとしてもほぼ人は登場する。すると表される事柄に時代性の差や個性はあっても、多くの人の腑に落ちるのである。川柳はそういう意味では短歌よりも徹底している。人の行動原理を確認したり、発見したりすることが主流である。これに飽き足らなくて抵抗する柳人も存在するが

 そこで選ばれた句を作者との距離ということで、直裁に自己を投影しているものから、象徴性の高くして、自己を離れた抽象に至っているものといった感じで並べて見た。

  • 憲吉・新子・きくの・寿美子・五千石
  • 千空・玄・草城
  • 圭之介・敏雄・兜子・葦男

とでもなろうか。

 しからば、これらの句の「戦後性」はどうであろうか。普通に考えると前に並べたものが時代を越えた普遍性があるということになろうが。案外、新子や寿美子のような句は戦前には詠まれにくかったという気がする。女性は時代には正直というべきか。一方後に並べた句は前衛的なのであるが、戦前のダダイスト詩人などとの親近性を感じる。抽象的な一種の前衛性は必ずしも新しさと比例するものではないのだ

 でも題材から見ると、兜子・葦男の句は、映像や音楽の時代を感じさせる点で、戦後の社会のものであると感じる。兜子の「音楽」から私が聞くのはジャズのジミー・スミスである。また葦男の詠んだものは、堺谷が実際に作者から聞いたように、御堂筋であってもよいし、工場、あるいは通勤の群衆の風景でもよい。戦後の工業社会の風景を想起させる

この二人と巴里祭という時代の言葉が入っている憲吉の句をのぞけば、題材は「世は変われど人性は変わらず」と言った姿を描いている。それぞれ表現の仕方に新しい発見と独自性があるから皆さんが取り上げられたのであろう

堀本吟:今回の鑑賞でうかがえる戦後俳句の特徴のひとつは《開放感》である。風俗、ジェンダー、文化の全てに浸透する変化に応じている。混沌、流動の時代の「実感」「写生」「日常」「想像力」とは何か、と考えさせる。戦時の抑圧からの解放は自国の敗北という痛みをともなう。そういう伝統への反省としての「前衛俳句」の登場があろう。またそれぞれ方法を自由に模索できる時代になって、創作の姿勢がのびのびしている

 次は《男女、性にかかわる表現の自由》だが、西東三鬼と楠本憲吉は。風俗や日常に潜む欲望への果敢な俳句化が興味深い。自由律と川柳については後で述べたい

 三番目が《抒情表現、「星」にシンボリックな希望を託するありかた》に注目した。特に青春は、今を詠うことが未来への指標だ。戦後出発の時期に重なり、五千石の句にその典型的表現をみいだす

 最後に《多様な方法の模索、だが全く「新しい」言語風景はない》という感じだ。かろうじて兜子の内部意識世界の幻景が独創的なぐらいだ。しかし、一句一句は面白かった。作られた時代には気がつかなかった視点からの発見があり、それによって句が甦っている、という爽やかな快感にとらわれた

筑紫:「戦後俳句を読む」を企画した段階では、いささか軽い俳句鑑賞的読み物になるのではないかと思ったが、メンバーは十分事前研究もし、本格的な戦後作家論を執筆するという態度で望まれているので驚いた。戦後俳句史研究会が発足したと見ても良いかもしれない。しかし、ひとつ言っておけば膨大な資料が全てではないような気もする。私の書いたもので恐縮だが、楠本憲吉の「巴里祭」の句には憲吉の自句自解があり、これによれば銀座のキャバレーのホステス(ご丁寧に店の名前、女の名前まで入れている)の胸の汗だととくとくとして書いているのだが、こんなものは不要である。触発のメカニズムは分かっても、「読む」ではないからだ。時代文脈を読み取ることができるかどうかが大切だろう。お二人の指摘もそういった点にあると思う

 さて、おそらく今回の「戦後俳句を読む」の最も大きな特徴のひとつは、少ないながらも、川柳、自由律俳句作家を含めて戦後俳句をまとめて読もうとしたことだと思う。圭之介、新子という顔ぶれは、詩歌梁山泊の詩人、歌人以上に、俳人にとって衝撃的なのではないか。(種田スガル、清水かおりの参加した)『超新撰21』で狙ったところを「戦後俳句を読む」でいっそう明確にしたということになろう。今回は戦後俳句史論の初回なので特にこの点に絞って論じてもらいたい。まず、時実新子からお願いする

北村:私は最初新子の掲出句を「自分の中の妻を押し殺して俺のところにやってこい」と詠んでいた。しかし彼女はやはり吉澤氏の読みを期待しているのだろう。新子は誰かに成り代わって詠むことは得意ではなく、まっすぐ詠むだろうから。ところで吉澤氏の指摘するように、新子の作中人物はフェイク新子なのである。新子の自由の象徴である。この仮構の主体は新子以上に新子であり、純化された姿であるという逆説も成立する。川柳人が意識的に「実際の自分に近い仮構の作中主体を作り上げた」(吉澤)ことは画期的であったのではないだろうか

堀本(新子川柳の虚構性)

「〈心の真実〉ではなく作中主体の仮構性にこそ、この句の現代的な価値があるのではないか。そのような読み方をすることによって、この句は一個人の〈心の真実〉という呪縛からもっと広い読みの世界に向かって解放されると私は思う。」(吉澤久良)

 時実新子は、ジェンダーの面から理解や誤解がなされる作家であるが、吉澤がそれを技法的に読み解いたのはすぐれている

 しかし、新子が、べたな私生活暴露ではないフェイク新子を創造した言葉の天才であるとしても、いくつか問題点がでてくる

 時実新子の川柳も、プラスマイナスいずれも時代の価値観の枠内であるから、内容は殆ど自己追求、自分をまるごと作品世界にいれこむいわば私小説空間である、近代以後の文芸全般、自身の内面をうちだし虚構化する、その方法を採っていたから。そのことが創作倫理の根幹にあった。だから、新子は、全く新しいことをしたわけではない、自身も読者もその全てが自己告白だとは思っていなかったはずだ

 なぜ、『有夫恋』は大衆にうけたかである。これがベストセラーになったのは、当時の女性観の中で、不倫の恋も辞さない悪女ぶりが、女性の秘める欲望を表したもの。新子の心の中の「自由の象徴」(虻曳)に私小説に近い大衆小説風だからこそ安心して感情移入できた

北村:私の考えでは、大衆は私小説を事実の告白と受け止めていたのではないか。また「大衆の憧れ」と言っても複雑だ。反感に裏打ちされた憧れだから。女性の人気者の人気とはそういうことが多いのだ。私の内に大衆が住んでいるから分かるのだけれど

堀本:読者は、時実新子を悪女に見立てることで遊んでいた、とは言えないか。半分ぐらいはほんとかな、とかおもって。一見川柳の中では新しくみえる新子の自己像の古さ(それが悪いというわけではない)が見えてくるのではないだろうか

 それから、自己像(=アイデンティティ。私性もその一部)は、完全に描きうるものではない。だから、表現の仮構(虚構化)がもとめられる。「ゆらりゆらりと妻を殺して」は、夫である男に、関係の解体をせまっているのであるけれど、「妻」である自分と自分の「夫」との関係も両方こわれる。これは、自分も含めた女性一般の抱く「愛」の理想像(?)ともいえる。新子の面白さは、古い恋愛観の中で、一番悪女の面を強調した自己像を創造し、こういう自己解体まで表現してしまった、と言うことだと思う

筑紫:吉澤の鑑賞を読んで感じたことは、世の常、「俳句」と「川柳」があるように言われているが、たしかにそうかもしれないがそれ以前に「俳句の読み」と「川柳の読み」があり、それを踏まえて「俳句として詠まれた作品」「川柳として詠まれた作品」、その結果としての「俳句」と「川柳」が存在していると見ることができるということだ。吉澤の鑑賞は時実の読みを既製の読みから開放しようとしているようである。説得力があると共に、既製のジャンルからは危険視される試みになるかもしれない。とはいえそれは、五七五形式に「俳句の読み」があると思っていたものが実はそれが極めてローカルなものに過ぎず、パラレルワールドとしての「短歌の読み」「詩の読み」もあることを失念していたことに気づかせてくれる意味で貴重な提言かもしれない。いずれにしても、こうした契機は時実だからこそ生まれるのであろう。時実については俳句の側こそ学ぶことが多そうだ。吉澤のいい連載を期待している

 次は近木圭之介についてであるが、川柳以上に自由律俳句についてはよく知らなかったことに我ながら愕然としている。たぶん、論者のお二人についても同様だと思うが。思うに、時実新子の場合と違って、圭之介については埋もれた作家を再発見するやり方で鑑賞が進むのだろう。

北村:具体的な作品に早速入りたい。「古里 石も眠い」を見ると、いつか私の不確かな記憶に染み込んでいるトリスタン・ツァラ?の詩の一節「村の根元で石垣が倦怠を編んでいた」を思い出す。このような発想は昔へさかのぼれるだろう。圭之介は実際にも明治生れであるが。独自性はやはり含蓄に賭けた型式にあるのだろうか。

堀本:圭之介「古里」の句は草城句の世界とおなじ自然にいるはずだが、「石も眠い」という表現は「眠い」のに緊張感を与える喩(メタファー)である。永遠のハイマート、かつちいさな存在の悠々たる自由など存在全体(古里)の「喩」だ。

 詩形の特徴については、藤田踏青の解説が丁寧で啓発された。短律の世界では、極小字数をあまる大きな意味世界のイメージは、「喩」のふくらみに預ける面が強い。でも、これに成功すると「自由律俳句」の一見律にならない律がふわっと立ち上がってくれる。自由律俳句のこの繊細かつ悠々たるタッチは戦前戦後をつうじて変わらない魅力だ。一句一律という考え方は定型俳句にはない。思考と律を媒介する要素として「喩」との関係を考えると、ここから学ぶところが大きい。

筑紫:この第1回目の感想は?

北村:川柳、自由律俳句は、独自の課題と魅力があるのに、とかく等閑視されてきたので、この二人の鑑賞者の起用は適切かつ画期的。俳句にとっては自己の詩形をみなおす絶好のチャンスである。カリスマ新子と自由律の戦後作家が登場して興味深い。

堀本:同感。

筑紫:ありがとう。一応今回はここで終わりたい

(「戦後俳句を読む」(第1回)了)※今回は山田真砂年は原稿未到着。

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