戦後俳句を読む(第2回の2)

――テーマ:私の戦後感銘句3句(2)――

執筆者紹介

飯田冬眞・堺谷真人・深谷義紀・岡村知昭・土肥あき子・北川美美・横井理恵・山田真砂年

(戦後俳句史を読む)筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

齋藤玄の句/飯田冬眞

たましひの繭となるまで吹雪きけり

昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。

「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」

しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。

見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。

掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。

句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。

冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。


*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

堀葦男の句/堺谷真人

沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し

 出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。

 葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。

 しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。

 冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。

 ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。

 だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。
(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)

 「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。

 神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。

 思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。

成田千空の句/深谷義紀

妻が病む夏俎板に微塵の疵

 骨太の風土詠に定評がある千空だが、一方で掲句のように細やかな心情を綴った句もあり、こうした作品にも心惹かれる。掲句はその代表だが、他にも、

ハンカチをいちまい干して静かな空 「地霊」
墨磨れば墨の声して十三夜 「白光」

などの句がある。

 掲句の場合、一読、昭和20~30年代の仄暗い台所の光景が眼に浮かんでくる。そしてひんやりとした空気の感触までも伝わってくるようだ。実は、この空気の冷たさは台所が使用されていないからでもある。台所を差配する筈の妻は今、病床にある。その妻を気遣う作者の目に入ったのはその台所に立てかけられた俎板である。現在のプラスチック製の真っ白なそれではなく、だいぶ年季の入った木製の俎板だ。よく見れば、その俎板の表面には無数の包丁の跡がついている。ふと日が差し込んだのかも知れない。折りしも季節は夏。戸外では北国の短い夏を惜しむかのように、全ての生物がその生命の輝きを見せている。台所の仄暗さのみならず、病床に伏せる妻とのコントラストが印象鮮やかである。まるで映画のワン・シーンのようでさえある。

 しかしこの句に惹かれるのは、何と言っても俎板についた無数の疵がもつ訴求力であろう。俎板の「疵」は、その持ち主たる妻の「傷」を髣髴させるし、結婚後の二人の生活の辛苦を想像させる。

 但し、作者はその「疵」を決して否定的に捉えてばかりではないように思う。「傷」は生命あるものにしかつかない。だから、妻の病状を気遣うのは当然であるが、もう一方で俎板の「疵」に妻の健康な若さの象徴を感じたのかもしれない。さらに言えば、結婚により、慎ましやかではあるが幸福な日々を手に入れたという思いが作者の胸に去来したような気がする。その意味では師中村草田男の、

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川

に通底する妻恋の句という思いがする。

 なお掲句は「地霊」に所収されているが、昭和28年に第1回「萬緑賞」受賞対象となった作品の一つである。この受賞は、青森の若い俳人や俳句愛好者に衝撃と勇気を与えたという。そのなかに若き日の寺山修司がいた。彼はその後暫くの間、俳句創作に打ち込み、その豊か過ぎる才能の一端を開花させたのであった。

青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城

 第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。

 句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。

 草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。

 青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。

稲垣きくの句/土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ

 1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

 句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

 また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

 掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。

 しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

 「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。

三橋敏雄の句/北川美美

腿高きグレコは女白き雷

 新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。

「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。

 技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。

「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。
出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)
出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)

『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2

 優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。

 結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。

 余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。


*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集  『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊

*2)『休むに似たり』 池田澄子著

*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。

*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566

中尾寿美子の句/横井理恵

傘寿とはそよそよと葉が付いている  『老虎灘』

  句集名『老虎灘』は「ろおこたん」と読む。中国大連の景勝地として有名な地名(ピン音ではlǎohŭtān)である。実はこの地名は、寿美子にとって敗戦引き上げの苦難の記憶と結び付くものであったという。しかし、句集刊行の昭和62年にはすでに、懐かしい思い出として扱われている。苦しみも悩みも、年月に濾過されて、「ろおこたん」という、まろやかな音のみが、寿美子の中にこだましていたのである。

 跋文は永田耕衣が書いている。

 耕衣は、ウイリアム・ブレイクの詩の一節

あるべきさまにあるこそよけれ。
人が世にあるは歓喜よろこび苦悩なやみのためなり。

をひき、「歓喜」と「苦悩」とは「一如」であり、人間不断に必須とする「自己救済」のエネルギイにほかならないとする。そして、掲句について、耕衣は、「そよそよ」という措辞を「謙虚な自祝」であると言う。
 この「謙虚な自祝」に至るまでの寿美子には、「苦悩」と「自嘲」の句が少なくなかった。

鳥が逃げても飛べない女赤い芥子     (35年)『天沼』
めんどりが卵を置いて去る花野      ( 同 ) 同
白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ     (42年)『狩立』
死なば樹にならんと思ふ朧の夜      (43年) 同
消えぬため笑ふ茫々菜種梅雨       (45年)『草の花』
三椏の花の無口は身にひびく       (48年) 同

 なんとも寂しい。「自嘲」と「苦悩」のためいきが読む者にも染みてくるようだ。特に、『草の花』には、ためいきの結晶のような句が目立つ。

その『草の花』刊行2年後の昭和52年7月、師、秋元不死男が没する。寿美子が病気の悪化に苦しんでいた時期でもあった。翌53年「氷海」が終刊し、「狩」同人となるが、その翌54年には辞し、不死男の年忌明けをもって、句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。同年10月には、「琴座」の同人となり、2年後の昭和56年8月には、第四句集『舞童台』が刊行されている。

 このころから、寿美子の句は、苦悩を突き抜けたかに見える「さっぱりとした感じ」をまとい始める。病床を詠んでも、嘆くのではなくむしろそこに命のあることをかみしめているかのようであり、徐々に、寂しさを透視する勁さが備わってくる。

階段の途中にて寒明けにけり      (53年)
眼の中も暮れてしまへば葱畑      (54年)
初夏やたたみ目のつく素魂など     (55年)
そよそよと今日のところは野水仙    (56年)

 とことんまで悩み、寂しさをかみしめ尽くしたからこそ、からりとした明るさが開けてきたのだろう。『舞童台』という句集には、そんな寿美子の羽化の跡を見ることができる。

傘寿とはそよそよと葉が付いている

 かつては「今日のところは野水仙」と控えめすぎるほど控えめだった寿美子も、いつか大樹となって葉がそよぐ歓びをうたっている。(本人は決して大樹だなどとは言っていないのだが、読む者は、年輪を重ねた大樹がにこにこと風に吹かれているのを仰ぎ見る様を思い描く。)それでもまだあくまでも「そよそよ」というところが慎ましく、耕衣の言う「謙虚な自祝」のよろしさが好もしい。

 こんなふうに年をとれたらいいなあと、心から寿ぎたくなるのである。

富澤赤黄男の句/山田真砂年

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男

 句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。
この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。

 さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。

 密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。

 落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。

 赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。

密林の詩書けばわれ虎となる

の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。

 さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。

瞳に古典紺々とふる牡丹雪
銃聲がポツンポツンとあるランプ
向日葵の貌らんらんと空中戦

など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。

 この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。

戦後俳句史を読む:草城/筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

筑紫:俳句では「師系」という言葉がしばしば言及される。しかし詩の人々にはこの言葉は理解しにくいだろう。むしろ、戦後俳句にあっては俳句の集団(しばしば雑誌名)として捉えた方が分かり易いと思う。ちょっとここで、今回の「戦後俳句を読む」で特に相関度が大きいそうした集団を眺めておこう。以下の通りだが、それぞれの集団を指導した作者としては草城(執筆者岡村。以下同)、赤黄男(山田)、憲吉(筑紫)、兜子(仲)に今回の連載は集中しており、これらの相互の関係を理解しておくとそれぞれの鑑賞も理解しやすいのではないかと思う。

このうち、「旗艦」は「京大俳句」とならぶ戦前の新興俳句の代表的な雑誌である。

今回は「戦後俳句を読む」で取り上げている16人の作家のうちから、特に注目する作家の活動から戦後というものを考えてみたいと思う。その際、上のような関係にも鑑み、また北村、堀本の二人との事前の話も総合すると、早い時期に日野草城に焦点をあてる意味があるように思う。

北村:日野草城について桂信子編著『日野草城の世界』(梅里書房)を読んだ。そこにある200句を見ると、戦前と戦後には大きな差がある。初期の句には、文化的生活をふまえた軽快さがある。そうした句は、機知に富んでいるし、いわば「そつなく」できあがっているというのが私の最初の感想である。しかし戦後の句には、そのような自在さは無くなり、ある種の難渋する様、それを何とか越えようとする様が詠まれはじめる。

晩涼や木を挽ける音挽き切りし
鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとおる
冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
生きるとは死なぬことにてつゆけしや

敗戦に加え、病と休職の境遇がより「もの」を凝視することを強いたのである。岡村が選んだ掲出句はその始まりの句であろう。寒さの中に裸で立つ「寒い赤」の山茶花、敗戦の国土を象徴する。

堀本:モノの凝視や写生を虛子に学んだのだが、もともと、草城は、蕪村の句《お手討の夫婦なりしを衣更》に俳句開眼したと言う面白いエピソードがある。「物語性」を取り込んだ新しさはそういうところにも感じ取られる。高濱虛子には〈舌端に触れて夜霧の林檎かな〉で感覚的な把握を注目された。これも草城のセンスのモダニズムがはやくからみとめられたあかしである。その延長にある「ミヤコホテル」(昭和9年、「俳句研究」)は、結婚の日常的なあり方を風俗小説ばりの連作(物語)にしている。「ミヤコホテル論争」は、ゆくりなくも時実新子の『有夫恋』をめぐるスキャンダラスな反応を想い出させる。これには秋元不死男、西東三鬼は肯定的、久保田万太郎、中村草田男は断然反対の立場だった。水原秋桜子は、「草城君のこれが連作の標本になったら困る」、というような趣旨で批判的だった。なお、詩壇では、室生犀星が賞賛、萩原朔太郎に勧めたが、朔太郎は懐疑的だった。(以上は、伊丹啓子『日野草城伝』2000・沖積舎、参昭。

しかし草城はまた「俳句は詩の一分野である」「究極に於て間接に一般芸術に於ける鑑賞表現を云為することになる」(ホトトギス大正11,10)(松井利彦『近代俳論史』(昭和41・桜楓社))という見解も披露している。

「戦旗」創刊号の「宣明」(昭和10年)では

吾人ハ新精神ヲ奉ジ、自由主義ニ立場ヲトル。・・・陳套ノ排除、詩靈ノ恢弘ニ在リ。俗流ノ手ヨリ俳句ヲ奪還シ、以テ純正ナル文学的発展ヲ作品ト理論トノ上二実現セシメムコトヲ期ス。定型ハ・・・死守スベキ社稷ナリ。(以下略)。(伊丹公子《日野草城ー早熟にして晩成》より抜粋)

と述べ、虛子の方向とは公然とそれてゆく。翌年昭和11年、「ホトトギス」から除名される。

この言挙げのもとで、無季俳句、連作俳句、戦火想望俳句などを発表。俳句の詩性を追究してゆく。この時期の連作のモチーフがだんぜん面白い。《事務風景》。《愛しき消費—ありがたきボーナス》《退職期》《浄房》(トイレでの排尿のことを句にしている)。他に口語、外国語をひらがなで書く、等々。スタイルが多彩である。ただ、強固な社会正義やイデオロギーをもった人ではなかっただろう。「京大俳句」の顧問にもなるが、統制のすすむ過程で、次第に沈黙してゆく

筑紫:ふうん。

堀本:戦後の第一声『旦暮』巻頭に誌された有名な箴言「俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある」、時代の文化風潮や庶民感覚の先端を覚る感性はおとろえていないのではないだろうか。

ともあれ「極端に早熟な」作家は、終戦をむかえ、「極端に晩年の成熟」(どちらも山本健吉評)という時代へはいる。

昭和24年「靑玄」(日野草城主宰)を創刊し、桂信子、伊丹三樹彦、公子、楠本憲吉らが傘下に集う。病床の日々で詠んだのが<高熱の鶴青空に漂へり>である。今回岡村が取り上げているので参照してほしい

草城は、日常詠と境涯俳句に没したといわれながら、こういうところに、冨澤赤黄男、高柳重信。林田紀音夫、楠本憲吉など反骨の詩性を啓発した新興俳句の始祖の風格をみせている。

日野草城と言う作家個人の面白さは、時代や世相の変化を持ち前の感覚に取り込み内面化したところにある。

筑紫:モダニズムという価値観が評価できるかどうかについて私はやや懐疑的である。むしろ俳句史的に面白いのは、高浜虚子の低調な客観写生時代→4Sの個性的時代という直接的な移行ではないことである。間に、草城が入っていることである。4Sの先輩に草城はあたり、草城に負けまいとするライバル心が4Sの活躍の原動力となっていた。それは東大俳句会の復活以前に草城が中心となった京大俳句会の発足と活躍があることも同様である。新興俳句の代名詞である「戦火想望俳句」も火野葦平の「麦と兵隊」の読後俳句として草城が提案した表題であった。ジャーナリスティックで人騒がせな、時代に先駆ける精神こそ草城の前半生の基調であり、モダニズムはたまたまそうした基調の下位的な属性に過ぎなかったように思われる。

余計な話だがホトトギス裏面史では、大正13年に高浜虚子はホトトギスを水野白川男爵に5万円で譲渡、白川が経営、虚子が選句(選句料100円と言われている)、草城が編集にあたるという動きがあったという。不幸にしてこの動きは中途で断絶したが、これが成功していたら、あるいは全く違った昭和俳句史が出現していたかもしれない(当然、草城が編集するホトトギスは新興俳句雑誌化していたはずである)。このことからも、堂々と虚子と渡り合える立場に草城がいたことになるが、それは草城のジャーナリズムに対する感性の良さによるものであったろうと思う。モダニズムよりはるかのそのほうが重要であると思うのだが。

堀本 :その逸話は面白い。磐井の推測は十分考えられる。でも、草城は状況の読みが早い、それから、やんちゃではあっても無益な争いはしない性格だったように見受ける。虚子の近くではあまり過激にはしなかっただろうとも思うが。

北村:「日野草城の世界」に収録された宇多喜代子の文によると、昭和11年のホトトギス除籍から終戦までの時期は、作品は通常無視される。が、宇多はこの時期が彼の思想にとってまた俳句の歴史上重要であるという。彼のサラリーマンとしての生活が新しい題材と無季の俳句を推進したのである。そして虚子・ホトトギスの唱える花鳥諷詠との訣れに至ったのである。つまり草城を三期に分ける。いま彼の作品を見ても大きな驚きはないが、彼は第二期で虚子を振り切り未踏の域に歩み出し、それが俳句の転機をもたらした。その後の世界に我々がいるからもう驚かないのである。

ところで私がテレビで見かけた「俳句甲子園」の議論は、おおむね草城第一期の延長上にあるような気がする。作品の技巧、新しい機知、伝統の知識など脱帽であるが、既成の俳句批評の言葉で絡め取られる。議論は俳句の世界を広め、深めるものには見えない。

しかし、バブル崩壊、パラサイト、ロースト・ジェネレーション等の問題に加えて、この大震災・放射能禍。文芸の世界に大きな影響を及ぼして行くだろう。かつて都市のサラリーマン生活が草城の句を変えたように。

堀本 俳句甲子園の彼らに、われわれの年代の屈折を求めてもしかたがない。でも、彼らは優秀ですよ。将来多方向に化けるかもしれないし。また、おっしゃるように、都会に広範に潜在しているはずの若年のニート達が、何か独得な思想や表現をきりひらくかもしれない。

筑紫:今回の楠本健吉の鑑賞でも述べたことだが、草城は若い時代を「ミヤコホテル」で代表される軽薄な俳句で注目を浴びた。軽薄とは上に述べた下位的な属性のひとつであるモダニズムよりはるかに俳句の本質により近いものではないかと思う。新興俳句時代を経て、戦後は闘病を余儀なくされたこともあり、真面目な作品に移行している(正岡子規の姿を彷彿とさせる英雄的な姿だ)。しかし、弟子の憲吉は晩年の作品こそが軽薄だ。個人の生理からすると、進歩、深化してゆく草城の変化の方が健全なのだろう。

ただ個人のなかに歴史が埋め込まれるとすると、晩年に軽薄な俳句を詠んだ憲吉の方が戦後俳句史そのものを顕現しているように思われる。戦後俳句、特に昭和50年代以降の俳句は憲吉の設けたモデルに従って進んでいるのではないか。俳句の作者が有名人となり、テレビに出演し、カルチャー教室を持ち、料理番組でうんちくを語り、子供俳句の指導をするのはすべて憲吉が始めたモデルである。

しかしその憲吉の晩年のモデルになっているのは、若かりし日の草城であるように思われる。師系というものは争えない。北村が最後に掲げた現代俳句の現象は草城、憲吉の流れの中で見ると納得できる。「俳句甲子園」が当時開かれていたら、草城、憲吉も喜んで審査に参加していたのではないか。師弟にわたるジャーナリズム感覚の鋭さを感じた。

堀本:私の考えでは、草城を俳句のモダニズムの旗手(むしろ始祖のひとり)、とおさえることは原則点として重要だと思うのだ。そこから、余人が追随できないメディア人たる個性も育ってきたのではないだろうか。草城の「自由主義」、というのは、根本は、大正リベラリズムや昭和のモダニズムの機運をうけている、俳句ではこれは客観写生に対する「方法の自由」、ということになる。ただ、筑紫がもちだしてきたジャーナリズム感覚というのは、なるほど、いわれてみればわかるので、新たな切り口だろう。

筑紫は、日野草城や楠本憲吉に対しては、俳句一句の深みをあじわうそのこととよりも、関係をつないで行く行動性に目を向けている。そこに不満を感じる。

北村:今回憲吉の句を少し見た。それで思ったことは、日本の女をあたかも季語のように詠んでいて、鮮やかである。その中に磐井の採りあげたような句が混じっている。それがまたしゃれた感じをあたえる。

私が、草城の初期から憲吉、甲子園俳句の流麗なることに物足りなさを感じるのは、彼らの論には否定性が薄いと言うことである。否定性が軽快であるというべきかもしれぬが。磐井の師系の図で言えばやはり、薔薇(赤黄男)─俳句評論(高柳重信)─渦(兜子)の流れの方に目がいってしまう。これは私が軽みよりも濃厚を好むからだ。しかし、すべて草城が土壌を作ったと言うことは納得できた。中期以降それをあまり作品の形で残せなかったとしても。

筑紫:「戦後俳句を読む」のシナリオからゆくと、16人の作家の中に正式には草城は入っていない。岡村が、青玄系作家ということでまっさきに取り上げたことによってこの鼎談でも話題にすることになった。しかし、広範な系譜から行っても、今後様々な作家を論じる度に立ち返ってもいい作家だと思う。

今回私が宇多喜代子などに代表される一般的な考え方にちゃちゃを入れているのは、新興俳句というものをあまりにストイックに見すぎるのは―――北村の「私が軽みよりも濃厚を好むからだ」というのはよく理解できるが―――、客観的俳句史からすると危険だという気持ちがあるからだ。新興という言葉を使った用語には、龍胆寺雄、吉行エイスケなどが組織した反プロレタリア文学的な「新興芸術派」もあれば(おそらく日野草城は最もそれに近い)、国策に沿った「新興満洲」(山口誓子の第2句集『黄旗』では、<黄旗は新興満洲帝国の国旗である>と書いている)、あるいはもっと危険な「新興ナチス」といった言葉が当時の新聞では踊っていた。新興俳句作家を否定するのではないが、「新興」には注意深くありたいと言う気がする。

ジャーナリズム的性格を取り上げたのは今回おかど違いであるような気もするが、新興俳句が改造社の「俳句研究」の支援を受けて伸長したことを忘れてはならないと思うからだ。特に改造社という化け物的性格が、新興俳句にどのような影響を与えたかをいつか考えてみたいと思っている。月刊誌「改造」で左翼的知識人の圧倒的支持を受け、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』を出し、一方でファシズムに迎合して対極の『ムッソリーニ全集』を出し、植民地経営を支援する雑誌「大陸」を刊行し、軍部と結託して爆発的人気を呼んだ『麦と兵隊』を出版し、昭和の万葉集と言われた『新万葉集』を刊行し、反戦主義者バートランド・ラッセルやアインシュタインを招聘し、治安維持法違反となる横浜事件で解散させられるという不可解な経営方針を持つこの会社は、岩波書店と全然別の意味で新興俳句の性格を見定めるのに重要だと思うからである。堀本の私に対する批判はそれなりに甘受するが、ジャーナリズムの枠組みは、師系や結社以上に俳句作家の思想を拘束しているのではないか。40年近く俳句をやってきて、大家たちの戦後俳壇におけるパフォーマンスを見てきた私なりの結論である。

今回話題が拡散してしまったが、それはそれではいかにも草城的であったかもしれないという気がする。それくらい一筋縄ではいかない作家として、また改めて草城を論じてみたいと思う。

(その2 了)

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