戦後俳句を読む(第3回の1)

―テーマ:私の戦後感銘句3句(3)―

執筆者紹介

吉澤久良・筑紫磐井・仲寒蝉・藤田踏青・しなだしん・土肥あき子・深谷義紀・池田瑠那

時実新子の句/吉澤久良

ブランコの綱切れるのを見に急ぐ      時実新子

 日常が安定したものであることを、普段私たちは意識さえしない。しかし、ブランコが象徴しているような平穏が不意に崩壊するかもしれないという不安は、誰もが無意識のうちに持っている。作者に「ブランコの綱切れる」というイメージが浮かんでくるのは、日常が実は不安定なものであるという感覚が強いからだろう。ここで読者は、「ブランコの綱切れる」という潜在的な不安を、句集『有夫恋』に描かれた破局の予感に結び付けて、世俗的な納得をする自由はある。実際に新子の作品はそのような読み方をされてきた可能性がかなり高い。また、新子自身も読者がそのような読み方をするだろうと計算していたのではないかという気もする。新子作品には作中主体の生々しい情念を突きつけてくる句が多く、それらの句は読者の読みの自由を許さない。読者を圧倒するのである。それが新子作品の魅力であり、また限界であった。どちらと感じるかは読者次第である。

 人には、破局を嫌悪し忌避するとともに、それに惹きつけられるアンビバレントな心理がある。いわゆる「怖いもの見たさ」である。「ブランコの綱切れる」のは外部の出来事であるが、それは作中主体の心の動きと連動している。「ブランコの綱切れるのを見に急ぐ」時、その心の中には不安ではなく、破局への期待、とろけるような甘美さが充満しているのではないか。幕が上がっていって、さあ舞台が始まるという時の、あの鮮烈なわくわく感である。破局への期待は、現状に対する閉塞感の反動である。閉塞感が期待へと塗り替えられていくダイナミズムに、「急ぐ」という句語の存在感がある。

「見に急ぐ」と文字に定着させる過程で、作者は滑り落ちていく作中主体を冷ややかに描写していたと思われる。「ブランコの綱切れる」という架空の設定、どぎつい感情の丸投げではなく抑制された筆致で書かれていること。そういう設定が距離感をもたらし、離れた位置から作中主体を見ている作者の存在を感じさせる。それが新子作品(ただし、すべてではない)と新子エピゴーネンの作品との差である。私性川柳といわれている句の多くは、私の思いと称する身辺雑記の報告であったり、自己愛惜の吐露であったりする。いずれもナルシシズムについて無自覚である。作者=作中主体という構図は、ベタ雪のように重い。作品の魅力は、作者本人に対する興味ではなく、作品に提示された人間把握の鋭さや深さにある。作者から解放されることによって、作品に読者が能動的に参入できる余地ができる。その能動性こそが読むという行為の本質ではあるまいか。

楠本憲吉の句/筑紫磐井

天に狙撃手地に爆撃手僕標的

 狙撃手は文字通り鉄砲で標的を狙うプロフェッショナルだが、爆撃手はあまり聞いたことがない。軍隊用語で言うと、航空機爆撃の際の爆弾投擲の専門家(標的に合わせて爆弾落下の条件を設定する者)を言うらしいが、なぜ「地」なのか。むしろ障害物を破壊する爆薬筒を匍匐しながら運んだという爆弾三勇士のようなものがふさわしい。しかしこの爆薬筒という武器は工兵部隊が使うもので、敵陣や鉄条網、地雷を爆破する兵器であるから人を標的にすることはない。調子よく読み進めるのであまり矛盾を感じないが、調子に騙されて論理はよくつながらない。逆に言えば詩歌は調子さえよければ論理など重要でないことの証拠になるかも知れない。「天に狙撃手」「僕標的」、要はこれだけを伝えればよいのだが、調子よく対句を使って明るい戦場を描いている、いや戦場のような環境にある人生をカラリと描いている。爆撃手は判然としないものの、いずれにしろ、僕の命を狙う危険な奴ばかりだからだ。これも前回同様62年の作品だから晩年の作品、死の前年の作品である。死の標的は自分である。「死ねばただ一億分の一人 水引草」「冬バラ瞑想「侮る勿れ汝が死に神」」などが同年作品であるが、論理的であるだけ詩歌としての飛躍がなく感銘句にあげるようなものではない。

 62年の作品としては前回の「郭公や」とこの「天に狙撃手」をもって憲吉の代表句としてあげておきたいと思う。63年、なくなる年ともなるとさすがに入院生活が続くためか、師の草城の晩年のような沈痛な句が見られるようになるが、これは憲吉にふさわしくない。憲吉の晩年は明るく調子よく軽薄であってほしいのだ。

 そもそも憲吉は師の草城をどう見ていたのだろうか。55年にこんな句がある。
師の句いよいよ懐かしかぐわし草城忌

 前回、堀本・北村と「戦後俳句史を読む」で草城と憲吉の比較を論じてみたところであるが、これは憲吉自ら草城についての感慨の一句である。論評と違って、本当に草城のすべてを現わしているかどうかは不明であるが、かえって散文の論理を越えて直感的に草城の一面を描いている的確さがある。憲吉にとって「かぐわし」い存在の草城は決して晩年寝たきりの草城の姿ではないだろう。やはり大正末期から昭和初期にかけての、才気溢れた草城、それこそ「ミヤコホテル」を詠んだ草城ではなかったか。当時相変わらず憲吉はこんな句を詠んでいる。

女体塩の如くに溶けて夜の秋 52年
若き人妻春昼泳ぐごと来る  53年
風花やいづれ擁かるる女の身 55年

 まるで「ミヤコホテル」なのである。

赤尾兜子の句/仲寒蝉

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  『玄玄』

 最終句集『玄玄』の掉尾に置かれた句。昭和56年、兜子は不眠やアキレス腱の傷あとの痛みなどに悩まされていたが3月17日自宅付近の阪急電車の踏切で事故に遭い急逝した。享年56歳、一説には自死であったという。

 『赤尾兜子全句集』は作られた順に編まれている。最初に『稚年記』、ついで『蛇』『虚像』『歳華集』そうして最後が『玄玄』である。しかし刊行されたのは『蛇』(昭和34年、34歳)、『虚像』(昭和40年、40歳)、『歳華集』(昭和50年、50歳)、『稚年記』(昭和52年、52歳)の順であった。なぜ晩年になって初学の頃の作品集である『稚年記』を出版したのか。あとがきで兜子は「周囲の、度重る誘ひにのつて」遺書として父に手渡した句稿、父も亡くなり「三十年あまり筐底にねむりつづけて」いた句稿を湯川書房から出版することにした旨を書いている。『歳華集』の後、兜子はそれまでの無季も辞さず破調の多い新仮名遣いの俳句から有季定型、歴史仮名遣いのそれに回帰(?)していた。そのことと自分の初学の頃の有季定型、歴史仮名遣いの句稿を世に出そうと決めたこととは無関係ではないように思われる。

 その晩年の有季定型、歴史仮名遣いの俳句たちは作者の突然の死によって整理されないまま残った。ただ次の句集上梓の意志は固まりつつあり、句集名を『玄玄』にしたいということを周囲に告げていたと言う。『玄玄』は兜子の死後に編まれたためにそれまでの4句集と異なり本人の編集を経ていない。

『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は次のように書いている。

 最後の一句、「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」は、没後かなりの日数がたってから、兜子の日記から発見された作品の一つで、その執筆は逝去のほんの数日前に当たる。そこに書きこまれた句は、その時の心情をそのまま書き連ねたものが多く、その中からこの一句だけをとくに恵以夫人の許可をえて、事実上の絶句として添えることにした。全巻を通じて唯一の未発表作品である。

 兜子の人生を離れて好きに解釈すれば「ゆめ」は誰かと誰か、例えば夫婦同士、友人同士といった二人の見る夢が異なっているということか。その場合の夢は眠って見る文字通りの夢と言う意味かもしれないし所謂未来のビジョンと言う意味での夢かもしれない。しかし考えてみれば見る人が違えば夢が異なるのは当たり前。別の見方をすれば同一人物が別の機会に見る二つの夢が全く違うということかもしれない。例えば気分が高揚している時と落ち込んでいる時に見る夢というように。

 蕗の薹は春になると真っ先に地面を割って顔を出す。これから過ごしやすい、いい季節に向かうという希望を込めた季語と言える。それに蕗の薹は蕗の子供であるからどのように成長していくのか未知数なのだ。二つの夢と蕗の薹との取合せは、従って将来の可能性、それも明るい可能性を示唆する。兜子の悲しい最後を想い合わせると、この句が全句集の最後に置かれていることが実に大きな救いのように思われる。

近木圭之介の句/藤田踏青

汽船が一つ黒い手袋から出て航く  昭和27年作  「ケイノスケ句抄」所収

 圭之介は昭和9年に門司鉄道局に入社しているので、これは関門海峡の風景からイメージしたものであろう。黒い手袋は機関手のそれであり、夕景の中でのそれであり、戦後という時代を象徴するそれでもあろうか。それ故、汽船とはある意味で新たな世界、新たな希望へと、いつかは明るみへと出で立つものとして託された存在のようにも思える。

 画家としての圭之介は数多くのイラストや挿画を描いているが、氏の画風の基調は「黒」である。モノクロの世界では、白い背景の空白感と相俟って、まるで俳句における大いなる空白、「虚」と対峙する極限化された詩語のように「黒」が据えられている。つまり「黒」は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。そして、この立体的な詩的空間は青春時代に夢中で読んだJ・コクトーの影響も多いのであろう。

黒。意識の統一               平成5年作

 このエピグラム風の宣言こそが氏の芸術意識を端的に物語っているように思える。意識の統一としての「黒」がアイデンティティを主張しているからだ。

心のきれっぱし黒く蟻になり地を這う     昭和25年作
月夜楽器が黒いケースにおさまる       昭和29年作
自画像の中にあって黒いその船        昭和32年作
月夜に野犬化する黒い一匹の周辺       昭和41年作
思想は黒い実私の中にこぼれているだけ    昭和60年作

 これ等、黒い「蟻」「ケース」「船」「一匹」「実」は各々に、氏自身に内在するものであり、混沌とした自意識を客観的に分析しつつ、最終的には原郷としての氏自身へ回帰してゆく構成となっている。形象化された「黒」の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の「黒」そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは「黒」なのである。

 この門司港の職場には、ほろほろ酔うた山頭火が何度も顔を出したようである。それは其中庵(小郡)を発って九州の旅に出る時の通り道でもあったからであろう。また門司埠頭から東上遍歴する為に乗船する山頭火を見送りにも行った事もあるそうだ。その圭之介居の庭には山頭火の句碑が二基建てられている。

へうへうとして水を味ふ        山頭火

音はしぐれか             山頭火

その山頭火へ圭之介は今も語りかけているようである。

あの雲がおとした疑問 山頭火何処へ    圭之介  昭和57年作

上田五千石の句/しなだしん

 第1回で、昭和29年、五千石は神経症を患っていたことは書いた。
この件についてある人物によって書かれた文章がある。それは、句集『田園』の復刻版に付録の「交響集」の、鷹羽狩行による「伝承の使者―上田五千石論」(*1)という評論の一部である。

(前略)大学二年のときの強烈な精神衰弱であろう。
第一に下宿先の大井町で羽田から低空でくるジェット機音に屋根ごと揺すぶられ、空襲の恐怖を感じて夜中に幾度か寝床をとび出したという。第二は何でも人並以上に出来る彼は、何でもできることは実は何にもできないのではないかという不安を抱き、何をやればいいのかという方向失調の強迫観念が次第に募る。第三は女性に対する欲求不満、これは死ぬほど苦しく、また実際に死のうと思ったらしい。

と、なんとも歯に衣着せぬ物言いである。同じ時代に真剣に俳句に取り組んだ先輩で、いわば同士である狩行ならではの物言いなのであろう。

 かくして7月17日、秋元不死男に出逢い、その夜には神経症は吹き飛んでしまった訳だが、吉原市(現富士市)唯称寺の「氷海」吉原支部発足の会では、秋元不死男の講演「俳句表現の生命」を聴き、そして句会に参加する。

 この際、五千石の句は秋元不死男選人位に入選する。

星一つ田の面に落ちて遠囃子   五千石(昭29年作)

 それがこの句である。「遠囃子」は季語としてやや微妙だが、遠く聞こえる祭囃子と思うと「祭」の範疇に入ろううか? または「星」が「落ちて」で、流星を詠んだ句になるだろうか? 時期は盛夏、場所は青田になっているであろう田園の道である。“星がひとつ田に落ちて”は夏の夜のファンタジーであって、遠く聞こえる祭囃子が現実のものと読むのが、やはり自然かもしれない。この句は、句集にも収録されておらず、もちろん自註にも掲載されていない。

 いずれにしてもこの句が五千石の俳句へのめり込んでゆく記念すべき句である。

「ゆびさして」の星の句が句集『田園』の一句めに置かれ、この27年のこの句も「星」の句であることは、とても興味深い。

ちなみに五千石には多くの星の句があるが、昭和18年、五千石10歳のときの「少年新聞」への投稿、入選句〈探照燈二すぢ三すぢ天の川〉もまた星の作品である。


*1 鷹羽狩行「伝承の使者―上田五千石論」は昭和44年2月「俳句」に掲載されたもの。

稲垣きくのの句/土肥あき子

まゆ玉やときにをんなの軽はづみ

 1970年「現代俳句15人集」(牧羊社)に名前を連ね、きくのの第3句集『冬濤以後』が出版された。あとがきによると1966年から1969年秋までの3年間の作品が所収されている。句集とは生まれ変わるための禊のようなもの、とはよく言われるが、きくのの出版サイクルはすべて3年である。人間の細胞がおおよそ6年で大きく入れ替わるといわれることを考えると、その半分の周期で生まれ変わり続けるきくのの俳句にかける情熱は相当なものである。また、俳人協会賞を受賞した前句集を超える作品をまとめる前提は、かなりのプレッシャーになるのではないかと思うところだ。

 しかし、60代になったきくのの作品には、先の第1、第2句集よりずっと穏やかな呼吸が伝わってくる。前句集の痛々しいまでの率直な心情の吐露を経て得た切り口に、おおらかな艶が加わった。掲句にあるようなリズムの良さに加え、まゆ玉の色彩と、天から降るようなゆらめきによって、下五の「軽はづみ」を単なる無思慮ではなく、万やむを得ず囚われてしまうものとして明るく際立たせる。わが身を顧みながら、軽はずみにも思えたいくつかのできごとを、反省や忘却したいものとしてではなく、人生にきらきらと振り注ぐ光りのように感じているのだ。

 寄り道も後戻りもあった人生に、少しばかり肩をすくめながら、いくつかの軽はずみと思われたできごとも、ひとつひとつ愛おしんで振り返っているのである。〈牡丹もをんなも玉のいのち張る〉〈別れにも振向くはをんな冬木の芽〉などにも、掲句と同じ感情が働いている。

 自身を潔癖に見つめつづけたきくのが、あるいはどの女性も同じ弱さを持ち合わせていることを知ったのかもしれない。彼女のさらけ出してきた傷は、時代をこえて多くの女性が思い当たるものであり、それを誰に言うこともなくささやかな自己愛をもって癒してきた。女たちは、その性の強靭さやもろさ、あるいはずるさや哀しさについて、まるごと肯定するきくのに、なにより安堵し、安らぐのである。

成田千空の句/深谷義紀

鷹ゆけり風があふれて野積み藁

 句集「人日」所収。

 収穫を終えた刈田に点在する藁塚。多くの者が郷愁を覚える風景である。しかし掲句が描くのはそのような懐かしい景ではない。藁は単に野積みにされ、強風が吹けばバラバラに飛散してしまうような、どちらかと言えば殺伐とした光景である。「風があふれて」と言っているが、野積みにされた藁が刈田を吹き渡る風に飛ばされているのだろう。農作業の合理化・近代化の中で、かつて藁が担っていた機能や役割は別の資材にとって替わられてしまい、藁塚が組まれることも減っていったのだろう。

 そして、風が吹くその刈田を見下ろすように、空には鷹が悠然と、或いは傲然と飛んでいる。まるで、変わっていく田園風景を超越するように。

 しかし掲句に対して、過度に寓意を汲み取ろうとする読みは誤りだろう。また作者も変わっていく農村風景を嘆いたり哀しんだりしているわけではない。千空は(空に舞う鷹を含めて)眼前の光景をあるがままに受け止め、それを活写しているのである。

 初めてこの句を読んだ時、眼前には刈田の野積み藁や空に舞う鷹が強烈な現実感をもって現れ、寒々とした風の音まで聞こえてくるようだったことを鮮明に覚えている。津軽の自然や風俗を自身の句作対象とすることにこだわった千空であるが、あくまで俳人としての眼を通して、それらを捉えているからであろう。以下は、村上しゆら・豊山千蔭など県内の同世代俳人たちと刊行した合同句集「風祭」の後記に寄せた千空の言葉である。

「私たちは私たちの風土に生きていることはいうまでもないが、より生々しく現代に生きていることを自覚する」

永田耕衣の句/池田瑠那

いづかたも水行く途中春の暮

 地球は水の星である。雲から雨、雨から川、川から大河を経て海へと、水の循環を飽くことなく繰り返している星である。いづかたも、こう悠然と詠い出したことで、そうしたマクロスケールの水の巡りが先ず見えてくる。次いで、いづかたも、の「も」に眼が留まる。いづかたも、どこもかしこも。それならば、「ここ」も、今「ここ」にいる「我」もまた水行く途中と言えるのではないか。人間を含め、生命はみな、絶えず身体に水を巡らせながら生きているのだから。と、ミクロスケールでの水の巡りが意識される。そう、人間と言い、「我」と言っても身の七割は水、言わば水袋に目鼻をつけたような物が日々働いたり句会をしたり、句会に行く途中でコンビニエンスストアに寄ったりしているのか、と思えば何とも可笑しい。この、「今ここにいる我」をも「水行く途中」と捉えるまなざしは、頑固な「我」意識を空しくする。ミクロがマクロであり、一部が全部である。

 耕衣は俳諧における諧謔を「茶化し」だとし、「茶化されれば何もかもこだわりがなくなり、空じられる【空じられる:傍点付】という世界にほぼ近くなる」と語っている。耕衣のいう空は般若心経などの空と同質のものだというが、掲句にもそうした、無我、忘我の境地に通ずるものがある。

 それにしても二読三読する内に胸に広がるこの物寂しさは何であろう――。やがて、「途中」という語の所為だと思い当たる。循環し続ける水に、行き着くべき最終地点のあろう筈もなく、「途中」であることが常態なのである。水から成る生命たちも同様であるのは言うまでもない。

 小林秀雄『無常という事』の一節が思い出される。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」。世に生きて在ることは常に「途中」だ、生きている者はみな、何かに「なりつつある」途中の「仕方のない代物」だ――、その、途中であるがゆえの「仕方のなさ」が静かな物寂しさとして感じられるのであろう。とはいえ掲句ではその「仕方のなさ」も、いじらしくいとおしいものとして、季語「春の暮」が包み込んでくれているようである。春のたそがれを行く水の、刹那のきらめきが、かけがえのない物として胸に残る。(昭和27年刊『驢鳴集』より)

タグ: , , , , , , , , , , , , , , ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress