戦後俳句を読む(第3回の2) ―テーマ:私の戦後感銘句3句(3)―

―テーマ:私の戦後感銘句3句(3)―

執筆者紹介:岡村知昭・横井理恵・飯田冬眞・清水かおり・堺谷真人・北川美美
(戦後俳句史を読む)筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

日野草城の句/岡村知昭

妻子を担う片眼片肺枯手足

 第8句集「銀」(しろがね)所収。「草城頑張れ」の前書が付く。この1句の直前には「蠅生れ身辺錯綜す家事俳事」が置かれ、直後には高浜虚子の見舞い(前書には「五月二十三日 虚子先生を草舎に迎ふ」とある)を自宅「日光草舎」に迎えたことを詠んだ3句「新緑や老師の無上円満相」「先生の眼が何もかも見たまへり」「先生はふるさとの山風薫る」が続く。「銀」は草城亡き後にまとめられた句集であるのだが、まるで自らの手で一集を編んだかのような計らいを感じさせる並びとなっているのが、私にとってはなんとも興味深く思われる。妻子を養わなければならない勤めを果たすどころか、妻子の手を煩わせなければならない闘病の日々、その中でもとどまることのない俳句への情熱。そんな数々の「身辺錯綜」に溢れる日々のさなかに訪れた旧師とのようやくの「和解」に喜ぶ草城の姿が、作品の配列を通して、ある時間の流れを形作っているように見えるからだ。

 草城にはいまこのとき、数多くの人々が与えてくれるさまざまな支えによって自らの存在が成り立っていることを十分にわかっている。横臥しかない自分に代わって一家を支えるだけにとどまらず、夫の励ましになればとの気持ちから自らも俳句を作るようになった妻(日野晏子の俳句についてはいずれ取り上げてみたい)、「新興俳句の系譜を愛し、病める草城を重んじる」(伊丹三樹彦『人中』あとがきより)との深い師への思いをもって、すでに自由の利く体ではなくなった自分が主宰者である「青玄」の元に集ってくれる若者たち。それぞれの立場で自分を支えてくれる人々の姿を横臥しながら目の当たりにしながら、草城としてはなんとかこの想いに応えなくてはとの気持ちに駆られただろうことは想像に難くない。そのために何をすべきかを考えたとき、横臥の毎日を送る自分にできるのはただ俳人「日野草城」であり続けること。これこそが妻や俳句の仲間たちに報いる唯一の手立てなのでは、との想いが湧いてきたのではないかと思われてならないのだ。だから「草城頑張れ」との前書はいまここにある自分自身への励ましであり、「妻子を担う」とはたとえ体の自由を失っていようが、これからもずっと俳人「日野草城」であり続けることへの意思表示でもあったのだ。

 ただ、病床にある自らが抱くさまざまな思いに裏打ちされて詠まれたものでありながら、この1句からはいわゆる「境涯詠」が持つ求心的な雰囲気とは異なる、一種の軽さを帯びているように見える。この1句をはじめとして晩年(すなわち戦後)の草城の作品はいわゆる「境涯詠」のカテゴリーから読まれているのだが、その「境涯」の詠みぶりの視点は、自分と周辺に起こっている現象をそのままに像としての造形に向けられているように思われる。さらなる体の異変や家族や仲間たちのさまざまな姿も、それらすべてが起こるべくして起こったこととして受け止められて、それぞれの作品に立ち現れているのだ。この強い作句姿勢があればこそ、虚子の見舞いを詠んだ3句の中に決して虚子が受け付けるはずのない無季の句を入れられたのだ、「何もかも見たまへり」なのは自分自身が虚子へ向けたまなざしでもあるからだ。横臥の病床から「妻子を担」ねばならない「片眼片肺枯手足」の草城は、自分を支えてくれる家族や俳句仲間の前で、強い自信をもって俳人「日野草城」であろうとし続け、その姿勢を最後の瞬間まで見事に貫き通してこの世を去った。

中尾寿美子の句/横井理恵

白髪の種花種に混ぜておく 『老虎灘』

 「寿美子の句ってわからな~い」と言われた時に例として挙げられた句である。

 「白髪の種って何?」「なんでそんなもの混ぜるの?」「何がしたいわけ?」というのが素直な反応なのだろう。この句を解説するためにはまず寿美子と白髪・もしくは寿美子と「白」との関係を解きほぐしておくことが必要と思われる。

 かつて寿美子は句集に「白髪」という名をつけようとしたことがあったという。師の秋元不死男に反対され『狩立(かりたて)』となったこの句集には、白をモチーフとした句が目立つ。

白髪一本ひつぱつて寒ただならぬ
白髪と見て秋風の嬲りもの
悲しみや声より白く日の落葉
ひぐらしや白ければ樺ゆれ易し

 これらの句には、「白」を――直接的には「白髪」を「老い」の兆とみておそれる心理が反映されているだろう。

白地着ていましばらくを老いまじく

の句では、老いに立ち向かう「白」の心意気が見られる。寿美子の中では、「老い」と白とが対をなすもの、切り離せないものとなっていのだ。

 一方には、直接「白」とは言わずに心象の白を詠んだ句がある。

三鬼亡し落花が見せぬ潦
蓬摘む洗ひ晒しの母の指
骨壺や風に日に世に簾して

 ここに透けて見える「白」は、何かすがすがしく洗い晒したおももちがある。

 寿美子は、自らの「白髪」におびえながらも、あえて句集名にと考えるほど、そこから気持ちをそらすことができずにいた。目をそらさずに見つめることで、「白」という色の奥底を見極めようとしていたのかもしれない。

 次の句集『草の花』では、「白」はより寿美子に近くなり、「白髪」は寿美子の一部になりおおせている。

白髪は風棲みやすし初御空
影のなき一日白し鵙の声
白髪のしきりにさわぐ花野かな
晩年の思ひちらつく白桔梗

 胸がざわつくような特別な思いを持って「白」を見つめるのではなく、もっと自然な構えで、寿美子は「白」に目をやっている。確かに「白」も「白髪」も老いと結び付いているけれど、さらにはその先の死にも結び付いてはいるけれど、でも、それが自然なのよね、という声が聞こえてきそうだ。

鶯やことりと吾れに老いの景
霞まんとしてむづかしや足二本

 自らの「老い」を悲しまず、軽々と見て取るまなざしを、寿美子は獲得したのだろう。

そして掲句を納めた『老虎灘』のあとがきで寿美子はこう述べている。

 今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいます(略)

 混沌とした途中感の中にあって寿美子は「謙虚な自祝」のよろしさを抱いている。今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、軽やかな目を世界に向けている。

霞草わたくしの忌は晴れてゐよ
白髪の種花種に混ぜておく

 「謙虚な自祝」の境地を開いた寿美子にとって、「霞草」も、やがて花咲く「白髪」も、未来を予祝する「白」なのだ。花種に混ぜておくのは、そんなささやかな予祝である。いつかだれかが驚くだろう、その顔を思い浮かべながらのいたずらであるかもしれない。

 かつては恐れの象徴でもあった「白髪」の白も、晴々と来るべき日を予祝する色となり芽吹く日を待っている。これはそんな、老いを言祝ぐお茶目な句なのだ。

齋藤玄の句/飯田冬眞

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒

 昭和55年作、句集『無畔』(*1)所収。感銘句の3句目は「見る」ことにこだわり続けた玄の絶句をとりあげたい。玄にとって「見る」こととは何であったのだろう。見たものを俳句にする。あるいは、見えるものを俳句にする。さらには見えるように俳句にするという手法を多くの俳人は用いている。この絶句は齋藤紬夫人が病床の玄の口許に耳を寄せ、きれぎれの言葉を聴き取って筆録したものという。だとするならば、病床で玄は「死」を見たのだろうか。

 掲句の鑑賞に入る前に、この句が詠まれた背景を、つまり、昭和55年5月8日に永眠するまでの、玄の最晩年の軌跡を全句集の年譜を参考にたどってみる。昭和55年の玄は、新春の頃から発熱と腹痛に襲われ、1月22日に北海道旭川市の唐沢病院に再入院する。翌日手術を受けたが直腸がんが再発、諸臓器に転移しており絶望状態となっていた。だが、この間も絶えず句作・選句に傾注し、見舞い客には枕頭でのお見舞い句会を命じるのが常であったという。4月10日、前年の3月に刊行した第5句集『雁道』に対する第14回蛇笏賞授賞が決まる。病床で受賞の報を聞いた玄は、「今回の『雁道』では、純粋にナイーブに句作一途に専念できた」(*2)と語っている。

 そして、蛇笏賞受賞後、病のために目が見えなくなった玄は、主宰誌「壺」の投句を一句一句、紬夫人に読み上げさせて選句したという。玄の凄まじいまでの俳句への執着を物語るエピソードである。「見る」ことにこだわり続けた玄にとって、失明という身体的困難が作風に変化をもたらしたことは想像に難くない。

 玄は『雁道』命名の由来を句集の「あとがき」に次のように記す。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*3

 もちろん、『雁道』の「あとがき」を記述した時点で玄はまだ、〈花山椒〉の句は得てはいない。しかし、掲句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ〉の一節を読むとあきらかに見えない死を見ている玄がいる。玄にとって「死」は他者の「死」であって、「見える」ものであった。前夫人、石田波郷、石川桂郎、相馬遷子などの死を作品化してきた玄にとって、「死」は「無くて在るがごとく」のものであったはずだ。客観的な他者の死であったからこそ「見える」ものであった。たが、自己の死を見たものはいない。玄は病による意識の混濁と覚醒のはざまで、不可視の死をすでに光を失った眼の奥底で見てしまったのだ。そのとき病床でつぶやいた独白が〈なにごとぞ〉という驚愕の一語であった。自身の「死」を見てしまった玄は、驚愕したと同時に恥じたのではないか。理性の人でもあった玄は幻視をみた自身をはにかみつつ、健康であった頃に見た〈花山椒〉を思い浮かべたのだろう。それは「山椒」の古称である「はじかみ」からの連想であったのかもしれない。病のせいでとうとう幻まで見てしまった。そんな玄の含羞が〈花山椒〉に託されているように思えてならない。


*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載

*2 『俳句』昭和55年6月号 角川書店刊

*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載

戦後川柳/清水かおり

ひまわりの極北にあり死ねない地図   渡部可奈子
風百夜 透くまで囃す飢餓装束  同

 今回も前回に続き、「好きな句」では渡部可奈子の作品を取り上げた。川柳作家全般担当という役から少し逸れてしまうが、この機会に自分が可奈子の句を好きな理由を考えてみたいと思っている。

 渡部可奈子は若くから病と共に生きた人だった。そのためか、彼女の作品はしばしば可奈子自身の身の上と合わせて鑑賞されている。境涯という視点で「ひまわりの極北にあり死ねない地図」を読むと、ひまわりの向日性が示す明るく屈託のない場所からもっとも遠くの位置に自分の人生を置き、快癒することのない長い苦しみを「死ねない地図」と表現したと読める。川柳の大衆性に照らせば境涯への同情をひく。このように、作品を最初から境涯句として、作者=作品という一義的な読みに拘ると、どれだけの時間を費やしても作品が作者のものであるという壁を超えることはできない。境涯句といわれる句については、その表現方法よりも作者個人に焦点を絞った鑑賞が川柳界では多く書かれてきた。作品への自己投影は川柳を書く時の軸の一つであるが、作者の境遇を披露する句という鑑賞を望む者はあまりいないと思われる。境涯は作句の動機として作者自身に機能すればいいのであって、作品は境涯も生活も関係のないフラットな場所で鑑賞されたい。作者はいつも作品の力を問いたいはずである。

 可奈子がこの句を書くとき、彼女の脳裏にあったものは自分の境涯だっただろうか。作者が作品に魂を入れて書いているのは理解できる。しかし、可奈子の書く自己と言葉との間には、私事の感傷は感じられない。それよりも、私性そのものが深いテーマとして提出されているように思う。当時の社会は急速に大量生産大量消費の一方向へ流れていた。その中で、私性というものも個性や多様性へと変化し、大量に放出され、その深化を鈍くしていっている。川柳に同一現象を感じていたであろう可奈子は、自己と言葉の関係を、個人的な心の表現とするのではなく、思考や思想を表現する「喩」として深化させようと試みていたのではないだろうか。そう考えると、ひまわりという句語が象徴するものは、太陽という価値基準へいっせいに向かう社会の在り様であり、極北という言葉が纏う思想性を対比させることによって、まさに「死ねない」意志が一点浮かびあがってくる。これは川柳なり社会なりの理想論のその時現在の姿を詠んだ句なのだ。当然、地図は作者の人生の縮図にとどまらず、思考の過程を指した句語であると理解できる。

 「風百夜・・」の句は1975年『縄』誌上で発表された「飢餓装束」と題された10句構成の群作のうちの1句である。他に「雪片楽土 手舞い足舞うからす徒党」「絃に添い寝のひとつおぼえの青曼陀羅」「はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す」などがある。

 ここで可奈子は私性そのものを「飢餓装束」と呼び、テーマ化し、私性への視点を戯作的手法によって切り出している。言葉に変換した瞬間に、私性が、個人としての私にスライドされる状況や、そこに呑み込まれる柳人の意識や事態を浮かびあがらせ、本当は、自己(私性)と言葉(喩)の関係はいくつものストイックな場面を潜り抜けて存在するものであると、読む者に伝えている。渡部可奈子にとって川柳とは、意志のある言葉であり、「私性」と「わたし」の間には両者の関係の認識がなされることを常に望んでいたのではないだろうか。先日の稿で触れた可奈子の苦悩は、境涯でもなく、柳人としての立ち位置でもなく、自己と喩の関係を私性と呼ぶことの成りがたさだったのかもしれない。でなければ「透くまで囃す」の措辞は出てこないと思うのである。

 言葉は目の前に平等にあって、なぜ、こんなにも強く美しい姿に生まれ変われるのだろうと、渡部可奈子の作品を読むたびに思う。

堀葦男の句/堺谷真人

蝉はたと肩にいまわれ森の一部

 句集『山姿水情』(1981年)所収。

 夏。森の中をそぞろ歩いていると、一匹の蝉がはたと肩にとまった。瞬間、蝉も我も等しく大いなる森の一部であることを俳人は直観する。まるで自己自身が森の木々のひとつになってしまったかのような、自然とのホリスティックな合一感覚。蝉を肩にとまらせたまま、木洩れ陽の中に凝然と立ちつくす作者の「そのとき」をまざまざと追体験させる句である。

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」の項でも触れたように、葦男は晩年に至るまで作品の形象性を重視し、実作においては対象をよく見ることを自他に課した。漫然と眺めるのではなく、みとめる、つまり、「見て止める」「しかと見とどける」ことを求めたのである。

しなやかな枝の全長雪を置き   『山姿水情』
散り敷いて桜紅葉の表がち    『山姿水情』
水勢に真向ふ山女魚ひとつは外れ 『朝空』
鴨万羽いま十数羽天に弧を    『過客』
柚子の宙しんと黒棘みどり棘   『過客』

『朝空』(1984年)は生前最後の句集、『過客』(1996年)は歿後に編まれた遺句集である。還暦を過ぎた頃から葦男の俳句視力には一層磨きがかかり、とりわけ吟行などの嘱目詠において遺憾なく発揮された。彼に師事した山本千之(元「一粒」代表、故人)は喟然として歎じていう。

ことばによって「かたち」を成すに当たって類型的になることを避けようとすると、通常のレベルを超える観察力を要請される。このような仕方の一つに精密描写とも云える、より突っ込んだ観察がある(中略)何人も同じ景色を見ていたのに、ここまで精しく書いたのは先生だけであった。(「一粒」堀葦男追悼号 1993年より)

 これらの作品を読むたびに筆者は中唐の詩人・銭起の五言絶句「銜魚翠鳥」を連想する。「有意蓮葉間(意は有り蓮葉の間)、瞥然下高樹(瞥然として高樹より下る)、擘波得潜魚(波を擘きて潜魚を得)、一点翠光去(一点翠光去る)」カワセミの敏捷さと青い宝石の如き姿を活写する銭起は尋常ならざる動体視力の持ち主であるが、葦男の透徹した観察眼は時にこれに肉薄するのだ。

 ここで冒頭の作品にもどる。

 かくの如く平素より対象を凝視することに務めていた葦男が森の中で遭遇したのは、蝉の不意打ちであった。対象をとらえたのは視覚ではない。蝉が肩にぶつかる軽い衝撃と、薄い夏物の生地を通じて肌に伝わる爪の感触、そして森全体との合一感覚。一句をくっきりと立ち上がらせているのは、意志的・能動的・集中的な凝視ではなく、却って偶発的・受動的・全身的な感受なのである。

 蝉の句はこちらから摑みに行った句ではない。あちらから飛び込んできた句である。葦男がしばしば口にした「俳句を授かる」ということを何よりも端的に物語る作例であるといえよう。

三橋敏雄の句/北川美美

山山の傷は縱傷夏來る

環境は、人格形成に加え、作品に大きな影響を及ぼす。三橋敏雄の出生地・東京都八王子市は、西南には富士山、南には山岳信仰として名高い大山、そして丹沢山系が臨める。古くから宿場町として栄え、織物産業を中心に物流中継地としても発展した。筆者の出身地・群馬県桐生市とも、その織物文化交流は古く、八王子・大善寺境内の機守神社が桐生・白滝神社から勧請された記録もある。

三橋には山を詠った句が多い。「裏山に秋の黄の繭かかりそむ」(『眞神』)「蝉の殻流れて山を離れゆく」(『眞神』)「山を出る鼠おそろし冬百夜」(『眞神』)「山里の橋は短し鳥の恋」(『長濤』)など。三橋敏雄の眠る墓地、八王子・吉祥院の高尾山が見渡せる高台に句碑「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『眞神』)が建立されている。どの山の句からも山を背に角帽の三橋青年の姿が見えてくるようだ。掲句は『疊の上』に収められている。

縦傷とは何か。開腹手術の場合、縦切りは、視野が広く手術しやすく、緊急手術はほぼ縦切りになるらしい。横切りは術後に傷が目立たないというメリットがある。縦傷とは深く跡が残る傷である。山の縦傷。伐採でむき出しになった「不整合」という地層(ジュラ紀=約1億4000万年前)がみえたのだろうか。山の縦傷から太古がむき出しになり、自然破壊への警告とも読める。そこに人を灼く夏がまた来る。 

赤蜻蛉わが傷古く日を浴びて (『鷓鴣』)

一方、「傷」という言葉が一致している上掲句と並べてみると、不思議と「傷」の意味が同じにみえてくる。一瞬にしてついた昔の深い傷、夏から秋になると思い出すもの―「戦争」と結びつけるのは短絡だろうか。戦争は思い出したくない過去であると同時に、決して消えることのない歴史的事実だ。「傷」とは、ゆるぎない「過去の事実」に因るものである。

『鷓鴣』と『疊の上』は制作年として10年以上の開きがあるが、「赤蜻蛉」の句を土台とし、「山山の傷は縦傷」の句が生まれたと思える。技法としては、前回(第二回)の「腿高きグレコは女白き雷」と同様、「は」の使用に注目している。

三橋敏雄のような大正末から昭和初めに生まれた世代が「戦中派」とよばれ、注目されるようになったのは、昭和30年代初めのことだ。働き盛りの30代40代である。「もはや戦後ではない」(1956年)という言葉は、「戦前」のレベルを超えることは易しいがその先容易ではないという意味だった。「戦後」という言葉は使われつづけてきたが、3.11の震災を契機に、「戦後」から「災後」に変わるという論考(*1)がある。「災後」が文字変換トップにくる日も近いのか。注目していきたい。

「傷」それは、「過去の刻印」ということに気付く。


*1)「災後政治の時代」(読売新聞2011年3月24日文化欄)御厨貴(みくりや・たかし):政治学者、東日本大震災復興構想会議議長代理

第3回戦後俳句史を読む/筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟

筑紫:今回は時間の関係もあり、次次回のテーマ「風土」について論じておきたいと思う(次回のテーマ「死」についてはすでにかなりの原稿が集まっているため)。今までは「戦後俳句を読む」で登場した作品・作家を中心に鼎談を行ったものだが、今度は「戦後俳句を読む」が書かれる前に、3人でそのテーマについて議論してみたいと思ったものである。ただあまり方向付けをしすぎてもいけないので、打ち合わせることもなく、3人が3人、それぞれの視点から論じてみた。作品鑑賞をされるにあたって参考にしていただければ興味深いと思う。

北村:第2回に採りあげた草城・憲吉などを都市派とすると、対照的にいわゆる地方にこだわった俳人がいる。たとえば斉藤玄、佐藤鬼房、成田千空。住んでいる土地と一体化して多くのの佳句を読んでいる。風土と言う土台を離れなければ、俳句は少ない言葉で多くのことを語る装置である。歳時記は言葉の型式にとどまらず、民俗学や生態学などを包摂している。しかし私の志向を述べると、風土描写にのみとどまるのは何か立体性に欠ける。そこで現実的な日常性を脱して国家・反国家といった方向に上昇する道はあるだろう。俳句というミニマルな器の中では、そのような観念的な上昇も表象(象徴的な表現)を通して詠まれることになるだろう。

しかし私はもう少し大きな時間・空間を期待してきた。いわばSF(science fiction というよりも speculative fiction)の俳句化である。むろん、これも表象を通して詠まねばならない。しかし完全に離陸してしまうと、落着きのない空疎なものとなる。

詩客の中で飯田冬眞 の採りあげた齋藤玄の句を見ると、一つの道が見える。玄は風土に浸りながらも、より普遍的なものを詠んでいる。飯田の挙げる

たましひの繭となるまで吹雪きけり

の前後にも

まくなぎとなりて山河を浮上せる
雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ

など、死者に成り代わった視線がある。俳句にもエロス志向とタナトス志向があるのだ。もうすこし詩の考え方で言うと、これらの句は、俳句のうちではもっとも象徴詩となっているのではないだろうか。芭蕉の句には象徴性があるとされるが、玄はその要素を純化させたと言えそうである。(ついでながら、芭蕉の象徴性が、野口米次郎の介在によって内外の詩の運動に大きな影響を与えたとの、堀まどかの詳細な論考 がネットにある。そこに記された自由詩と俳句相互の影響の往還は大変興味深い。)その代わりに玄が捨てた、というより無縁であったものは俳諧性であろう。子規本人の意図は奈辺にあったかは分からぬが、結果としてラディカルな正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をくさし 、ほぼ有季定型を守るなど、模範的な正統派の顔を見せるが、豈 weekly に富田拓也が記した玄の来歴 を見ればそう単純な人ではないようだ。玄自身、内外の詩の洗礼を受けている。富田の文章には「13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していた」とある。教養は象徴的な現代詩に距離が近いのである。

もう一つ風土ということで付言すれば、齋藤の行き着いた死者の視座に立つモノクロの世界と、安井浩司の汎神論的色彩を纏ったカオス、北方を領土とする俳人の対比も面白そうである。

旱畑にんげん湧くをたまゆらに     斎藤玄
大地に湧きし魚は河に棄てられん    安井浩司

筑紫:風土の前に風土俳句について述べておこう。風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。石田波郷が「村上しゆら君は角川俳句賞受賞以来、風土俳句の選手のように見られてゐる」と呼んでからこの名称が一般化した。この、「テーマにした」がくせ者で、昭和40年代ころまでは進歩的な俳句とは常にテーマを持つことが当然と考えられ、それがある時期は社会性俳句となり、あるいは狭義の前衛俳句(金子兜太)として展開したが、その一種の流れと見てよい。したがって俳句にテーマが顧みられなくなって以来風土俳句も衰退している。

風土そのものは、地域に住む作者(飯田蛇笏、前田普羅など)である限り風土を反映した作品を発表せざるを得なかったが、どちらかといえばプレ風土俳句の作家たちは、風土に寄り添った諷詠俳句、風土をテーマとはせず背景とした詠み方が主流であった。

これが変貌したのは、戦後登場した社会性俳句により、地域に住まない作者(能村登四郎、沢木欣一ら)が自らの居住する地域以外の地域(岐阜白川村、能登塩田)を旅行することにより風土をテーマとして句作することから始まったようである。風土を読んだ社会性俳句と風土俳句の相違は、地域に居住するか否かという点と、特に前者が倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)をもって望んでいる点であると考えられる。

いずれにしても、風土をテーマに選択した社会性俳句が、そのジャーナリスティックな反響から地域在住の作家に影響を与えて風土俳句は生まれたものと考えてよい。角川俳句賞では、木附沢麦青、山崎和賀流、加藤憲曠などが風土俳句の流れにあるといわれる。

むしろ、社会性俳句作家とも風土俳句作家とも考えられていない馬酔木の相馬遷子は、長野県佐久市という辺鄙な地域に在住し、後進的な長野の地域医療に身を置いて自然と人間を(憤然と)詠み続けている点で、社会性を持ち風土性を持つむしろ過渡的な作家であるといえよう。

いずれにしても、①風土諷詠俳句(蛇笏、普羅さらには飯田龍太など)、②旅行者による社会性俳句、③地域在住者による社会性俳句、そして④いわゆる社会性俳句などのように座標軸をはっきり定めない限り風土を論ずることは難しいのではないか。

堀本:

《俳句に於ける「風土」「風景」》 

 各自の「風土像」→「風土観」の違いや、関心ある対象作家の違いが見えてきた。北村虻曳が、ユニークな論理の運び方で、今ここに住み感受して居る人間の内面と、表現された風景(俳句)とをむすびつけている。また筑紫磐井は「風土俳句」という今まで私があまりコミットしていない枠組みを教えてくれた。

 おりからの東日本の大災害で地の相貌は破壊された、および原発事故に伴うテクノロジー社会の停滞はいつかは恢復するかも知れぬものの、そう簡単にはゆかないようすである。言えることは、戦後俳句の当初のテーマと今の状況を「風土」の変貌というコンセプトの内で重ねてみると、表現のあり方をかんがえる重要な契機ともなるはすだ。

《敗戦時の句 例示》 

 戦後の風景は、まず原爆による破壊と空襲による都市の焦土として象徴的にあらわれる。 戦後と言うモチーフをかぶせた俳句の展開はそれと軌を一にしている。戦後の日野草城や楠本憲吉がまず眼前に置いた都会はそういう風景であり。その奧には戦前から依然として見慣れた日本的な景観や季節のめぐりへの郷愁や再発見がある。

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨    (『野哭』(昭和23松尾書房)
山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城    (『旦暮』・昭和24星雲社)
ニコライの鐘の愉しき落葉かなー戦終わりければー・石田波郷 (『雨覆』昭和23七洋社)
炎天の遠き帆やわがこころの帆・山口誓子       『遠星』(昭和22創元社)
国の阿呆 ただ撩乱と雪雫・冨澤赤黄男        『蛇の笛』(昭和27三元社)
地平より原爆に照らされたき日・渡辺白泉   『白泉句集』(昭和50書肆林檎屋)
星よ地に星孤児を得ん地に触れよ・高屋窓秋     『石の門』(昭和28酩酊社)
いつせいに柱の燃ゆる都かな・三橋敏雄       『まぼろしの鱶』(昭和41)
焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄    『雪欅』(昭和29書肆ユリイカ)
兄逝くや空の感情日に日に冬・飯田龍太   『百戸の谿』(昭和29書林新甲鳥)
夏浪か子等哭く声か聴えくるー敗戦3句の内—三橋鷹女 『白骨』(昭和27鷹女句集刊行会)
焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男   『来し方行方』(昭和22自文堂)
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む・金子兜太 『少年』(昭和30「風」発行所)
蚤虱詩性拳銃餓死議事堂・鈴木六林男       『荒天』(昭和23雷光俳句会)

 いずれも昭和20〜25年ぐらいまでに書かれ、「焦土」を眼前にして暗然としている俳人の心象風景でもある。この時期の社会的関心「戦後」を投影した風景。

《風土の固定性と浮遊性》

混乱した風土の恢復を求めめざして、戦後史が始まった。戦後俳句の表現史はどうなっていったのだろう。

 草城や憲吉の俳句を特徴づける都会性の奧には依然として見慣れた日本的な自然が存在していた。都会のイメージには、情報文化の氾濫等のよって、生活からすこし浮き上がったオシャレな一種の浮遊感と言うべきものにくるまれているところ、幻想であってもそれは地方からでて来て都市を支える人たちを引きつけた魅力であろう。都会もまた一個の仮想の風土を形作っている。

 現在、自然からの攻撃と原子力の害とを同時に受け、基層にある故里の風景が毀れたのであるから、いわば日本の大地が丸ごと浮遊し彷徨をはじめたのだ。これからは都会も地方も「浮遊する風土」として生きざるを得ない。そして筑紫が言うジャーナリズムの生長、情報の多様化を促すかも知れない。それがまさに戦後の帰結である現在の文化風土なのだ。今度の災害が、日本語文化圏のわれわれに大きな表現の課題をつきつけている、のは確かなことである。腰をすえてかからねばならない。

筑紫:実は「風土」と対にして、「風景」についても考えてみたかった。前者の主観性やナショナリズムの視点、後者の客観性やインターナショナルな視点の差は面白い。論者として言えば、前者は和辻哲郎、後者は志賀重昂であり、今や前者が圧倒的に分がよいのであるが、こと俳句に関して言えば、俳句一般論と親近度が高いのは風土ではなくて風景のはずである。風土俳句は現在ではごく一部の傾向にすぎないが、花鳥諷詠を含めて日本中の俳句の大半は風景俳句である。当たり前すぎてまだ誰も気づいていないのであるが。似た概念である風土と風景がなぜこれほど違った効果を持つのかを考えてみると興味深い。

冒頭で述べたように、次次回のテーマ「風土」にどのように今回の議論が反映されるかも楽しみなのだが、それと対局的な「風景」はむしろ次回のテーマ「死」にふさわしいようである。編集者の特権として、次回原稿を今読ませてもらっているが、これこそ風景なのである。死は風土ではない。

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2 Responses to “戦後俳句を読む(第3回の2) ―テーマ:私の戦後感銘句3句(3)―”


  1. 堀本 吟
    on 6月 7th, 2011
    @

    《戦後俳句を読む》シリーズの一句鑑賞を毎週愛読しています。自分の担当の《俳句史として読む》文章タネにしようとのみ考えていると、皆さんの力作文をそのものとして楽しむことが半減するので、それはもう特には考えないで、私たちはそれも参考にしながら独自に俳書を読み込んで戦後俳句史をあらたに受け止めようとしています。
    今回は、友人であった。故渡辺可奈子の川柳一句(清水かおり・文)と尊敬する俳句巧者中尾寿美子の俳句一句(横井理恵・文)に盛り込まれた真のテーマをめぐって、境涯性や私性を、言葉の地平に引き込んで読もうとする強い意図が共通しており、お二人の筆運びを大変興味深く読みました。清水さんは、可奈子の名前が付く限り彼女の言葉が境涯性だけで評価される、といい、また横井さんは、寿美子女史の「私性」の動機を尊重しながら、それを越えて「白」という色の普遍性、本質的存在を極めた、と言うユニークな読みをなし、これも目をひかれました。他の方の観賞ぶりもそれぞれ面白く、今後の深化を注目します。吟


  2. 戦後俳句を読む(第5回の2) ―テーマ:「風土」その他― | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
    on 7月 1st, 2011
    @

    […] *1 「詩客」2011年6月3日配信 「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井の発言。 […]

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