―テーマ:「風土」その他―
執筆者:北川美美・横井理恵・堺谷真人・飯田冬眞・深谷義紀
(戦後俳句史を読む)筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟
三橋敏雄の句/北川美美
絶滅のかの狼を連れ歩く
収録の句集『眞神』。これにより三鬼とも白泉とも異なる三橋独自の作品へ昇華した。掲句は、1969(昭和44)年、49歳の作と言われている。
『眞神』には、日本の風土を行き場のない復員兵が彷徨う気配を感じる。そこは昭和の激動から忘れられた山村。すべてが戦前と同じように息を潜めるように生きている。われわれが置き去りにした日本の風土、古来の習慣、家族、一句一句に戦場へ赴いた人間の枯渇を感じさせる。戦後昭和の風景がみえる。阿部公房・松本清張原作の映画がフラッシュバックする。
『まぼろしの鱶』で感じた洋行の眼は、『眞神』以降、確実に日本の風土に向けられていることがわかる。ただし、日本のどこそこという限定のものではない。
草荒す眞神の祭絶えてなし 『眞神』
日本の風土にわれわれの血に宿る共通意識(アイデンティティ)がある。それは、「季語」と似ている。言葉が五感として働き、一語一語が意識の中に鎮まっていくことを発見する。シナリオでなく、まず言葉。言葉から生れてくるものを俳句の「型」との葛藤をもって、俳句形式の「形」の上に解放した。先に没頭した新興俳句、しいては戦火想望俳句と決別し、独自の無季句を得たいという執念が伺える。『眞神』同時期製作の句集に『鷓鴣』がある。*1)
「かの狼」。絶滅のニホンオオカミの表現を「かの」としている。この「かの」の着地点はどこなのだろうか。「個々の読者が個々の全経験をかけて、どのようにでも参加してくださることを望みたい。」(自作ノート『現代俳句全集 四』1977年/立風書房)とある三橋のコメントに従うには全経験は心許無いばかりであるが。
『麦藁帽子』 西条八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
(略)
『人間の証明』(森村誠一1976年/角川書店)の有名な詩。この詩の妙は「あの」の2回使いである。読者に特別なものであることを想わせる。映画『人間の証明』(1977年公開)の中にも「あの」による不可解さの効果が発揮されている。
では掲句、「かの狼」。特別な「狼」であることを思う。どこかにある共通の記憶、すでに明治時代に「絶滅」とみなされ、信仰として崇められた「かの狼」。絶滅品種である確約はなく、ニホンオオカミを見たという話は伝説のように言い伝えられている。神と崇められた狼を絶滅させたのは人間である。*2)アイロニーという見方もある。「かの狼」と特別な位置に置かれた言葉がインプットされ、狼にまつわることを思い、五官が動く。そして意識となった五感を「連れ歩く」。失われた狼の手触りが伝わってくる。西条八十の「あの」の二回使い効果は、帽子が母子の迷宮である予感を与え、三橋の「かの」には俳句形式の迷宮を感じる。「かの」は「絶滅の狼」を越えるもの、その予感を示唆していると読める。
俳句形式そのものが三橋敏雄の主題である。日本の風土の中にある共通意識(アイデンティティ)を読者との連結とし、今までにない俳句、五感に迫るリアルなもの、その一句一句が『眞神』にある。
北欧神話の中に詩の神オーディンにつく一対の狼「ゲリとフレキ」がいる。すなわち詩を連れ歩く。絶滅の詩を連れ歩く「予感」、それは、作者・三橋敏雄本人。掲句「絶滅のかの狼」は三橋の代表句であると思う。
三橋敏雄は、風土を五感として捉え俳句形式に臨むことを終生詠んでいる。*3)
*1)『眞神』(収録句数130句)。『鷓鴣』(収録句数162句)。現在、文庫化されたものが入手可能。『眞神・鷓鴣』(三橋敏雄句集・邑書林句集文庫・¥945税込)
*2)「日本オオカミ協会」という団体がある。
さらに映画「赤ずきん」(アメリカ映画2011年公開)全世界で狼ブームか。
*3) 晩年の句集『しだらでん』では、「みづから遺る石斧石鏃しだらでん」と詠んでいる。全句を通してみると、直球の意味のみならず俳句形式自体を詠んでいることがよくわかる。
中尾寿美子の句/横井理恵
媼いま桃のひとつを遡る 『老虎灘』
和辻哲郎の『風土』は、人間の存在契機を気候風土に見ようとする。また、存在論では、人間を社会的存在と個人的存在に二分して見ようとする。中尾寿美子を戦後俳句論の中で扱おうとする時最も困難を感じるのは、社会的存在としての寿美子をどう扱うかである。寿美子俳句の特徴は極めて個人的な「今・ここ」にある自分を詠むことにある。存在を育んだ風土や社会といった背景を探るのには不向きと言わざるを得ない。前回のテーマ「死」で時代としての死ではなく個人的な死を扱ったように、今回、寿美子の「風土」では、社会的風土ではなく極めて個人的に選び取った風土、即ち「精神の風土」を扱いたいと思う。
昭和五十二年、師、秋元不死男が没し、翌年「氷海」が終刊すると、寿美子は句友清水径子と共に、永田耕衣率いる「琴座」に移る。この時寿美子は、永田耕衣の世界を自らの精神風土として選び取ったのである。
昭和六十二年に刊行された第五句集『老虎灘』のあとがきに、寿美子はこう書いている。
永田耕衣先生妙観のほとりを徘徊すること早くも七年、病弱に甘え不勉強に過ぎた日々を思えば野菊の道も薄氷の野も鯰の池もまだまだ遠く思われます。前句集「舞童台」は永年住みなれた古巣を去り、困難と知りつつ耕衣世界へ参入した変転の時期の整理でした。それより六年、今にして見えてくるもの、人の心や我が身の生きざま、世のなりゆきなど老いてゆく日もなかなかに面白く、あるときは哀しく未だに混沌とした途中感の中にいますが、生きて在るかぎりこの思いは消え去ることはないでしょう。この句集「老虎灘」は今日以後をなお歩まねばならぬ私の一里塚でもあります。
「野菊の道も薄氷の野も鯰の池も」と耕衣の作品世界をめざしながら、寿美子が巻頭に置いた句は、
夢の世やとりあへず桃一個置く
であった。「とりあへず」とは寿美子の途中感の現れであろうか。「困難と知りつつ」参入した「耕衣世界」とは
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣『驢鳴集』
泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 『悪霊』
白桃を今虚無が泣き滴れり
少年や六十年後の春の如し 『蘭位』
野菊道数個の我の別れ行く
薄氷と遊んで居れば肉体なる 『肉体』
等に代表される世界――永田耕衣が体現する精神風土としか言いようのない境地である。自ら師とすべきものとして選び取ったその境地に向き合い、挨拶を送りつつ、一方で、寿美子は自らの「今・ここ」のあり方を探っている。
粗玉のたましひ葱の匂ひせり
白桃にならんならんと鏡の間
天元に白桃ひとつ泛びゐる
「存在」を突き詰めようとする耕衣の精神風土に寄り添いながらも、寿美子の句はより感覚的である。
媼いま桃のひとつを遡る
あをぞらの何処かぬかるむ桃の傷
その感覚は単なる五感にとどまるものではない。精神としての個を保ちつつ、感覚の触手は世界に遍く行き渡っている。「桃のひとつを遡る」感覚と「あをぞらの何処かぬかるむ」という感覚とは、「今・ここ」の私と遥かなものとの交感をうたっている。
寿美子の句においては、今ここの「わたくし」を享受し、寿ぐために、そして、これからも続く世界を肯定するために、あらゆる感覚が世界に向かって開かれている。生きることの喜怒哀楽の全てを抱きとめる――対抗するのでもなくあきらめるのでもなく――それが寿美子の選び取った精神風土だったのだろう。
堀葦男の句/堺谷真人
縄より窶れて竜巻あそぶ砂礫の涯
句集『火づくり』(1962年)所収「太陽の専制」50句より。
1960年5月15日、葦男は東京を発ち、空路メキシコシティへ向かった。国際棉花諮問委員会に外務省調査員の資格で出席するためである。6月3日、アメリカに入国。ワシントン、ニューヨーク、ダラス等を歴訪し、西部綿作地帯を視察の後、7月にメキシコ再入国、西海岸を約1週間自動車旅行した。更にロスアンジェルス、サンフランシスコ、ホノルルを経て、7月14日に帰国。まる2ヶ月に亘る海外体験であった。
海を欲る輸送車こぼれつぐ棉花 『火づくり』
悩む眉間たち太陽と繰綿機(ジン)の挟撃 同
脛の革具の集団の音滅びの音 同
この年の日本人海外渡航者数は11万9千人余。半世紀後の1,663万7千人(*1)の僅か140分の1に過ぎない。葦男は同時代の俳人としては稀有ともいえる海外詠の機会を持ったのである。帰国後発表した連作「太陽の専制」は、山口誓子(*2)や高柳重信(*3)の批判を浴びた。しかし、前衛俳句の旗手として都市生活者の暗鬱な抒情の詠出に傾斜していた葦男が、メキシコという日本とは全く異質の風土から摑み取ったものは大きかった。
昭和三十五年のメキシコ旅行吟は、それまでの体験や概念を吹き飛ばす程の「心意のデモンの爆発」となった。堀はその事情を「自然と親和関係にあった「季」の美学では、到底立ち迎えられない必殺の自然との対峙」といっており・・・(*4)
上記は安西篤による葦男論の一節であるが、特殊日本的風土に依拠する「風土俳句」が漸く俳壇の注目を集めつつあった当時、「季」の美学だけでは太刀打ちできない風土の存在を改めて強烈に印象づけた葦男作品は実にポレミカルな問題を提起していたのだ。それは、俳句の国際化、外国語俳句など、風土的多様性と俳句との関連性を論ずる際に今なお繰り返し俎上にのぼる諸問題の、いわば濫觴といってもよかった。
さて、後年、還暦前後になると、葦男の関心は風土よりもむしろ風景へと向かってゆく。「姿情一如」を説き、良い風景と出会うための心の在り方を重視するに至るのである。とはいえ、下のような文章を目睹するとき、「我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を、見いだすのである
」(*5)という和辻哲郎の風土論のエッセンスが、葦男流に咀嚼され、風景論として再構成された形跡を筆者はそこに見る思いがするのである。
・・・・・・姿情一如の表現を旨とする思いが高まって来た。作句の積み重ねを通じて、自己が他者において自己を見る、という態度が、多少とも身について来た、ということでもあろうか。
このような態度を自覚するにつれて、例えば、風景、風物、風姿などのことばに冠された風の字には、どうやら、享受者または表現者の価値観に基づく主体的選択ないし判断のはたらきが暗示されているように思われて来て、ひたすら景や物の客体的表現につとめても、そこにおのずから風の字が暗示する主体のはたらきが加わっているのだと思うようになった。(*6)
*1 法務省『出入国管理統計』2010年出国者数
*2 『朝日新聞』大阪本社版1960年10月11日「前衛を探る」
*3 『俳句年鑑』1960年12月「人物スポット」
*4 『堀葦男句集』1970年「解説(堀葦男小論)」
*5 『風土―人間学的考察』岩波文庫1979年
*6 『山姿水情』1981年「あとがき」
齋藤玄の句/飯田冬眞
いつの日の山とも知れず夏大空
掲句はいわゆる「風土俳句」ではない。筑紫磐井がいう「風土俳句」の定義「地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句」(*1)からはあきらかに外れている。あえて今回この句を選んだ理由は後に述べることにする。
玄にも「風土を詠んだ社会性俳句」はあるので、それらをいくつか見ていこう。
うなだるる馬に凍河の砂利積み上ぐ
馬は肋(あばら)のなりに皺みて凍砂利牽く
農乙女堕つる未踏の雪一路
漁婦等の落涙湾を漂ふ冬菜屑
殖ゆる凍光竹輪工場へチャルメラ吹く
上記5句はいずれも昭和31年作で第3句集『玄』(*2)所収。齋藤玄は昭和28年第2次「壺」を休刊後、断筆時期があったことは以前述べた。昭和30年からわずかながら句作を再開。札幌在住時代に土岐錬太郎、寺田京子らと同人誌「楡派」を刊行する。上記の句はその頃のもの。句集では「北見玄冬 六十二句」の前書がある。
一句目と二句目は北海道北見市滝の上で砂利川を詠んだ連作「(一)滝の上」の中の句。凍った砂利を満載した車を肋骨の透けた痩せ馬に牽かせている風景を詠んでいる。三句目は凶作にみまわれた農家の冬の生活をスケッチ風にまとめた連作「(二)凶作地帯」のひとつ。貧農の娘が身売りするために足跡もない雪深い道を街に向かって歩いて行く後ろ姿が浮かぶ。四句目と五句目は「(三)紋別港」の連作から。厳冬の中、ちくわ工場で働く女工たちの姿を描く。
これらは筑紫の言葉を借りるならば、「地域在住者による社会性俳句」という句群。筑紫の言うように「倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)」は濃厚である。単なる写生句ではないが「北国の生活」という類型的な「風土」のイメージを打ち破るまでには到っていない。凝視したものを内面化したうえで、詩語に昇華させてゆく晩年の齋藤玄の句風とはあきらかに異なる。むしろ晩年の句風は、こうしたスケッチ句の積み重ねで鍛えた基礎表現力に裏打ちされたものなのであろう。
こうした玄の「風土を詠んだ社会性俳句」を踏まえて、掲句について見ていこう。「いつの日の山とも知れず夏大空」は、昭和52年作、第5句集『雁道』(*3)所収。この年の3月、玄は前立腺手術のために北海道の砂川市立病院で一ヶ月余りの入院生活を送る。掲句は退院後の作であると思われるが、入院生活者にとって、窓から見える風景が唯一の自然であり、外界である。ことに山多き北海道の地であれば、窓から見える山の姿が病者の心を慰めたであろうことは想像に難くない。それは眼前の山の風姿と病者の入院生活の喜怒哀楽・別離とが結びついて記憶のひだに刻み込まれてゆくからである。事実、玄は入院生活中に窓から見た山を次のように詠んだことがある。
今死なば瞼がつつむ春の山 昭和49年作『狩眼』
昭和49年春、胆嚢炎を患い滝川市立病院に入院した折のもの。玄にとって「生まれて初めての入院で、気持が甚だ落ちつかなかった
」という(*4)。その不安を解消するためか、作句に打ち込み、「入院句録四十句」を残している。そのなかの一句である。この句について玄は自註で次のように記す。
「病床上で、もし今死んだら、という思いが頻りにした。窓から見える長閑な山のたたずまいを、瞼(まぶた)に持ってゆけるだろうと」(*4)
入院中の玄にとって「窓から見える長閑な山」が病者を慰撫する“風景”であったことは、この自註からも感じられるだろう。まさに入院生活の日々の記憶を象徴するのが「春の山」なのである。生命力に満ち溢れた「春の山」を病床の作者が目に焼き付けてあの世に持ってゆく。まさに風景は死と対価なのだ。「瞼がつつむ」の措辞にも凝視の作家である玄の姿勢がうかがえて、秀抜である。
49年の入院が玄に晩年意識を芽生えさせたことは、第4句集『狩眼』後記に「もはや、そう長くもない生の日々であれば、一層密度の濃い俳句を作らねばならない」と記していることからも推察できる。この49年あたりから玄の作風は変化し始めている。
あらためて掲句に戻ることにする。自註に玄は次のように記す。
夏の大空の下に山があった。いつの日か、どこかで見た山であった。そしていつも見なれている山でもあった。夏の大空の下では妙な現象も起きる。(*4)
広く、深い真夏の大空の下で、玄は見慣れた山を見ていた。見ているうちに「いつの日か、どこかで見た山」に思えてくる。それは先に掲げた滝川市立病院の窓から見た「春の山」であったかもしれない。眼前の風景がいつの日か見た山の記憶にすり替わり、今ここにいる自身の存在すら揺らいでくる。素肌に刺さるほどの太陽の光と鼻腔をくすぐる草木の香、虫たちのかまびすしいまでの鳴き声に満ち溢れた生命のるつぼのなかで、山を仰ぎ見ている自分は消え、山そのものとなって夏空を見上げている。それが自註で言う「夏の大空の下」で起こった「妙な現象」だったのではないか。
死を予感している玄には生活報告のための風土など必要なかったのだ。旅行者でも地域在住者でもない、まさに幻視ともいえる視座で、山河と向き合い、「自然」と一体化することこそが「死」という瞬間を乗越えるために必要であったからだ。
*1 「詩客」2011年6月3日配信 「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井の発言。
*2 『玄』昭和46年発行。『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載
*4 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
成田千空の句/深谷義紀
大粒の雨降る青田母の故郷(くに)
千空は生涯津軽に執し、その地を離れることなく一生を終えた。萬緑関係者から再三東京に出てくるように勧められたが、決して首を縦に振ることはなかったという。千空が俳句を志したときその心にあったのは「津軽の俳人はいかにあるべきか」という課題であり、結局、最後まで「津軽の俳人」としてその生を全うしたのである。したがって、旅吟を除けば、句作の対象は津軽の事物であり、その作品の多くが津軽の風土色を帯びたものにならざるを得なかったのは、ある意味で当然の帰結である。ちなみに、第1句集の名も「地霊」である。
さて「詩客」2011年6月3日配信の「第3回戦後俳句史を読む」のなかでの筑紫磐井が風土俳句について述べた発言は、戦後俳句史におけるその立ち位置を的確に指摘したものであり、そうした流れに千空がどう関り、それをどう受け止めていたかを少しみていきたい。
上記のように「津軽の俳人」たることを貫徹した千空であるが、実は風土俳句には否定的であった。
私なんか、八戸のいわゆる風土俳句に批判があるわけです。風土風土って、風土だけを売りものにしてどうなるんだ、もっと普遍的な俳句の世界があるだろうって。で、あるとき、アンソロジーにこう書いたことがあるんです。「われわれは風土に生きていることは間違いない。と同時に、現代に生きているんだ。現代に生々しく生きているということと風土に生きているということ、この二つの問題を俳句の世界で生かす必要があるだろう」と。
(角川選書「証言・昭和の俳句」より)
ここで千空の言う「いわゆる風土俳句」は、先の筑紫磐井の言を借りれば下記のようなものである。
風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。
そして、村上しゅらこそが千空の言う「八戸のいわゆる風土俳句」の中心作家であり、八戸俳句会の「北鈴」の編集長を務めていた。当時の八戸俳句会における風土俳句熱は凄まじいものがあり、「完全に風土性俳句を目標とする」(角川選書「証言・昭和の俳句」における千空の発言)ことにより村上しゅら以降も15年間に北鈴からは木附沢麦青、米田一穂、山崎和賀流、加藤憲曠、河村静香と角川賞受賞作家が5人輩出することとなった。筑紫磐井が挙げた角川俳句賞を受賞した風土俳句の代表作家たちが全て含まれており、戦後俳句史を振り返ったとき風土俳句の実作という点ではかなりの部分をこのメンバーが担っていたといえるのではないだろうか。
俳句賞受賞の文学的価値自体については、受賞如何が作品の優劣をそのまま表わすものではないという意見をはじめ、種々の議論があるだろう。しかし、中央から離れた地方においてその地域の俳人たちに大いなる勇気をもたらしたことは間違いあるまい。この時期、八戸俳句会と千空の属する青森俳句会のメンバーは交流を深め、それぞれの所属結社の垣根を越え合同句集を発刊するなど、千空が「青森の俳句ルネッサンス」と称する隆盛期を迎えることになる。実は、この頃中央俳壇では現代俳句協会の分裂騒動があり、その余波が青森の俳句界に及ぶことを回避しようと、千空は心を砕いた。千空の中では「(社会性俳句が志向する)風土性のあり方」よりも「青森の俳壇のありよう」の方がずっと大切だったのである。
この辺で、掲出句に戻ろう。
津軽といえば、誰しも想起するのは雪である。その意味では、前回採り上げた
人が死に人が死に雪が降る
なども、千空の風土詠として無視できない作品だと思う。他にも津軽を詠んだ佳句は数多く、敢えて一句を選ぶのはなかなか悩ましい作業であるが、ここでは掲出句を選んだ。
句集「地霊」所収。昭和22年、千空の初期の作品である。当時、千空は帰農生活を送っており、ある日農作業の帰り道で俄か雨が降ってきて青田がざわめいた。そのときに大地の息吹きを感じ、一句を得たという。何の作為もない、確かに「口を衝いて生れた一句」(本人談)であろう。
青森空襲で地獄を見てしまった心が、一転して母郷の青田の生気に触発された句だったと思われます。(角川学芸出版 成田千空著「俳句は歓びの文学」より)
上記筑紫磐井発言の最後に採り上げられた相馬遷子と千空を比べてると、両者とも社会性俳句作家ととらえられていないのは当然として、風土俳句作家ともいえない。この点は共通している。両者の差異は、作者とその居住地との「距離感」であろう。遷子にとって佐久への帰郷はやむにやまれぬ事情があってのことであり、当初は地元の人達とも打ち解けるというには程遠い関係だったようである。そのためか、ある時期までは佐久の地で開業医を営む自分にもどかしさを感じていたようなところがある。それに対し千空にとっての津軽は、まさに掲出句のように母なる故郷であり、その地こそが安住の土地だったのである。
第5回戦後俳句史を読む(再び風土性について)/筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟
筑紫:風土というものは、個人の属する環境で宿命的に決まってしまうものかと言えば必ずしもそうではない。これは風景論を援用したほうがわかりやすい。前回、「風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである」と述べた。風土によって与えられる客観的環境から風景が生まれるのではなく、作者の主観的な思想が風景思想を作り出し、それによって風景が生まれる。風土も同様でそれを宿命的な風土と感じない限り(つまり風土思想が生まれない限り)、風土は生まれない。一例を挙げてみよう。
仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない
」と述べている。しかし、兜子には兄の赤尾龍治がおり、駒沢大学に学んだ後、網干にこだわった人生を送っている。
世界的に著名な禅の研究家鈴木大拙が最も高く評価した日本の禅僧は江戸時代初期の臨済宗の盤珪禅師であった(現在も岩波文庫で入手できる『盤珪禅師語録』は大拙の代表的な編著となっている)。難解な禅を一般庶民にわかりやすく説いた盤珪は、禅宗の範疇を超えて、近代日本の大衆思想に大きな影響を与えたと言われている。そしてこの盤珪は網干の出身であった。浄土真宗の家系であった龍治(もちろん兜子もそうであるが)にとって直接的な関係のなかった盤珪であるが、幼少から地元の名士盤珪に親しんでいたことから盤珪研究をすすめ、ついに鈴木大拙さえ果たせなかった完璧な『盤珪禅師全集』を刊行している(大蔵出版)。この全集は現在も盤珪研究の金字塔となっているのである。もちろん、盤珪への関心は全国的、いや世界的にあるのだが、一方で地域の名士でもあり、ローカルな色彩を抜きにして盤珪を語ることもできない。網干の風土が生んだ思想であるということはできると思うのである。
さて、同じ環境で生まれた赤尾兜子と赤尾龍治にとって、風土性が生まれる契機は、かれらが風土を構成する要素をどのように眺めていたかによる。外的な風土要素が風土を作るのではなくて、内的な風土を眺める目が、風土性を決定するのである。兜子はそれに失敗し、龍治は成功した。これは全く余計な推測なのだが、兜子が盤珪の思想に親しんでいたら、あのような悲劇的な最後はなかったのではないかと思われてならない(盤珪の思想は極めて厳格厳粛ではあるが、肯定的で楽観的である)。
風土俳句に戻れば、村上しゅらが「北辺有情」を詠む前から風土は存在したと思われがちだが、村上を通さないでは風土の存在は確認できなかったという方が正確であろう(もちろんプレ風土俳句があったことはすでに述べたとおりであるが)。前回、風景と風土は全く違うとは述べたのだが、一方でその発生は極めてよく似ていることも確かである。何れにしてもその主体性こそが問われるべきなのである。
今回(第5回の2)で深谷が述べている成田千空の、逃れられない風土性と、風土性から外れようとする努力は、あらゆる運動体に共通しているように思われる。例えば、「前衛」と言えばその前衛に拘束されないように自らは前衛ではないと多くの前衛的作家はいう。しかし、前衛が生まれる前の、脳天気な前衛以前の素朴さを肯定しているわけでもない。やはり「前衛」という掛け声は何がしか必要であったのである。「前衛」と言った瞬間の論理以前の、直感的な概念は貴重でもあり、また時代の要請を受けていたものでもあった。「風土性」も同様であったのである。
北村:ご存知のように、5・7・5型式は、二つの性質を持つ。一つは歴史の古い壇林的俳諧性、もう一つは芭蕉以後の象徴性の強い詩に上昇した俳諧性である。それを経て近代の詩精神の高みに置き換えた子規の「俳句」宣言がある。前者は諧謔・アイロニーを重視する。典型的川柳は諧謔・機知の極端なものである。一方近代以後の俳句は方法的に何を重んじるか。それは視覚に特化したもののような気がする。俳句においては、現在に至るまで視覚性が大きな位置を占めている。いわゆる子規のとなえた「写生」の重視である。
前回まで、私は「風土」という語を地方性という程度に捉え、風景との区別をあまり意識していなかったが、筑紫は区別を唱え「俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすい」とした。すると「風土」はどういうことになるか。身も蓋もない言い方になるが、風土には人の生活が絡んでいて、17文字にそれを取り込むことは難しい。筑紫も言うように、風景も人からの視線・見方が無ければ成立しないが、風土となると生活と景の相互作用であり、時間経過まで伴っている。したがって、風土性の判別は難しい。そこに俳諧性が伴う場合もあるだろう。たとえばネットからこの季節の語を持つ句として選んだ
昼月や水たつぷりと茄子植うる 高倉恵美子(「空」2008年8月)
曲りたる山河の味の茄子・胡瓜 関根洋子 (「風土」2006年9月)
などはどうか。ここまで述べてやっと気がついた、「風土」は、一句では成立しがたいのだ。風土を感知させるには、句を積み上げることが必要となるようだ。
ところで、思想の表出を重視した現代詩の詩人たちにおいては、視覚的ということはしばしば蔑む言葉として用いられた。この場合、思想という言葉は社会・政治思想を指すものである。吉本隆明は「戦後詩史論」(大和書房1978年)において、そのような意味での思想詩に強い共感を示しつつ、それは戦争を通過した世代のものであり、もはや生まれなくなっていると論じている。その後の世代の詩人は日常思想として現在を感受し、孤となり詩は通常の意味・脈絡を解体していく。否定性が詩の内容だけでなく言語にまで及んでいく。現代詩を貫くものは否定性という主張であろう。この評論も視覚性に点が辛く、諧謔性にも乏しいなど冒頭に述べたような俳句とは相性が悪い。その上いつも肝心なところで「倫理」「論理」などというキーワードで躓く私は、吉本のよき読者ではない。しかしこの詩の「内容の否定性」までは納得できる。
俳句における「風土」も日常思想なのであるが、そこには肯定性が強い。これは生活精神の荒廃に対する抵抗=否定と見ることもできるのだが。
しかし現代の流れは容赦なく風土を脅かす。吉本は昭和初期のの不定職の詩人たちを重視しているが、今またフリーターの時代が巡ってきた。人の帰属の根を奪い、デラシネの生を産んでいる現代の流れは、古典的な風景を変え風土を消去していく。しかも、もう一つ伝統的な風土を脅かすものが現れた。生活のヴァーチャル化である。人は街を歩いても街を見ないで携帯にログインしている。少数のオタクをのぞけば、しゃがんで蟻の穴をのぞいたりしない。検索で済ます。ノスタルジーもゲームやアニメなどヴァーチャルな世界に向かう。風土はより広い抽象的な景へ拡散していく。これらのことは詩に影響せずにはおかないはずだ。いま俳句や短歌に実際何をもたらしているのだろうか。これは今の若者の多くの作品に触れていない私には難問である。
第三回で触れた斉藤玄や安井浩司なども、実在を離れ観念世界に入り込むという点では一種の否定性を備えている。むろん彼らは現代の若い世代のような意味での浮遊民ではなく、風土に住み込んだ俳人である。言語構成についても、玄は端正、浩司もまずまず。もっと強烈に否定性の出ている俳句作家も多く存在するが、言語構成の解体の動機までは持たない私には、心底からの共感が湧かない。私にとっては玄や浩司が先達である。
堀本:
(風土&風景についての言説)
今回の風景論とか風土論についての思考は、近代俳句からはじまり現代にも敷衍している「写生」の思想と密接にかかわってくる。さらに、写生万能では表現しきれない存在の詩たる俳句にむきあうことにもなる。
即ち我々は「風土」に置いて、我々自身を、間柄としての我々自身を見出すのである。
和辻哲郎『風土』(昭和10年)(引用は岩波文庫版)
人間学を基礎におく和辻の風土論では、人間は「寒さ」というのは、「寒いですね」と言う挨拶となりそれが隣人との関係を結び、寒さをしのぐ「家」や「衣服」「暖房」、などもひきよせる、風土とはそう言う社会関係を取り結ぶ自己了解の概念である、と言う。
また、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)では。
近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で成立する。なぜならリアリズムによって描写されるものは、風景または、風景としての人間——平凡な人間——であるが、そのような風景ははじめから外にあるのではなく、「人間から疎遠化された風景としての風景」
として見出されなければならなかったのである。(掲出書のうち。《風景の発見》)
この論理は難解だが惹かれる。検討は今後の宿題とする。
(風土認識としての「富士山」)
明治期の志賀重昂や正岡子規にあっては、例えば「富士山」に向かう場合は内面よりも社会関係よりも抽象的精神的である。重昂は、地質学の視点にくわえてごった煮のように様々の俳諧や漢詩古歌を並べてしまう。つよく風土に呪縛されているナショナリストの原感情がはっきりでている。先回に、先回の川柳人近江砂人の戦後の富士山の句は、おおかたの日本人ならだれでもそう考えるわかりやすい理想の「富士山」=日本像である。
すでに子規も「富士山」に同じようなシンボル性を認めていた。以下の詩篇は、明治三十二年作。新体詩風4連各6行第1連。
直立一千二百丈
足もとよりぞ起りける
夏猶寒き白雪は
空の真中に積りけり
仰げや高き富士の山
富士は御国の鎮めなり(詩篇《富士山》部分。)(筆者註・漢字表記は新字体に直している、それぞれの連の最後はすべてこのくり返し。)
この詩では、最初に風景を書き締めくくりには共同幻想としての「富士山」が立ち上がる。
この富士山熱は、明治時代の流行だったそうである。
さらに、『俳諧大要』の、なかに古句をお手本に作句法などを啓蒙しているそのなかで、こういう「富士山」が出てくる。
例へば頭巾という題を得たる時に頭巾を主としてものすれば俗に陥りやすく陳腐に傾きやすし。故に時々この題を軽く詠みこみて他へそらすことも忘るべからず。
初めて東武に下る時
頭巾とり衿繕ふや富士の晴れ 湖春
といふが如き富士を主としたるものをものするも差支えなし。このごとくならざれば尽く陳腐に流れてしかも変化すべき区域狭くなるべし。(正岡子規。同書中)
取り合わせと言う技法の効果を言い尽くしている名鑑賞だが、この句には写生的な観点はあたえていない。頭巾が俗ならば、富士山に関する一般的な観念もまた俗である。とは子規は考えなかった。これが、まさにかれの(明治の庶民の)風土的認識、ナショナリズムの感性的な根拠だった。これをみる限りは、我々は俳句史の上で、写生や季節の呪縛が解けないと同時に、富士山のある日本という精神風土に生きている、現在に至るまでその特別な思いからもまだぬけだしていない。
と、さらに、文庫本新版の解説が加藤楸邨、ここにこういう「風土」の用法がある。
(筆者註・日本に生じる文化現象が、従来のやり方では処理できないことを指摘)事に、近時、異質の風土に身を置いたり、旅したりすることがすこぶる多くなり。砂漠とか、極地とかを踏む機会すら多くなってみると、在来の短詩型文学に都合が悪いからとして避けて通るのは/許されない逃避であろう。
(歴史上の革新の例を挙げ、子規を近代の先蹤とたたえ)今俳句つくりとしては子規の「俳諧大要」が土台となってあらためてもうひとつの「新しい俳諧大要」が一人一人の課題とならなければならない。
(加藤楸邨《新版後記—子規の今日的意義》。昭和58年岩波文庫版前掲書。)
『俳諧大要』(明治28初出「日本」。岩波文庫所収は初版昭和30年、新版昭和58年)に「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。
」(岩波文庫。新版昭和58年より引用)と書き出されている。開明的合理的であると共に、内向と言うことが解っていないな、と思わせるが、読むたびに発見のある警世の啓蒙書である。
楸邨が言う一人一人の俳諧大要の中で、「風土」という概念も、何らかの転換をはたしうるのだろうか?たとえば、「東北」というキーワードのもとで。これも、宿題とする。了