戦後俳句を読む(第6回の1) ―テーマ:「色」その他―

―テーマ:「色」その他―

執筆者:吉澤久良・筑紫磐井・仲寒蝉・藤田踏青・土肥あき子・しなだしん・北川美美・池田瑠那

時実新子の句/吉澤久良

どこまでが夢の白桃ころがりぬ   時実新子

 『月の子』所収。『月の子』は時実新子の自選句集で、昭和二十九年から約十年弱ごとの五章で作品が分けられている。掲出句は第五章「天まで花」(昭和五十二年~)の末尾近くにある。かなり後期の作品である。おそらく新子が五十歳を越えたあたりの句である。

 一読して、一句の構造はギクシャクしていると感じ、軽い惑乱にとらわれる。「どこまでが」という疑問と、「ころがりぬ」という写実的描写とがかみ合わないからである。普通ならこの時点で通り過ぎることになるのだが、素通りできない何かが感じられて、立ち止まらせる句だった。

「どこまでが夢」であるかという疑問。これは疑問というより、むしろ感慨や詠嘆に近いと思われる。人には、自分の人生をふと振り返るエアポケットのような時がある。「どこまでが夢」という感慨は茫茫としており、ひりつくような痛みはない。さまざまにあったであろう自己嫌悪や憤懣や昂揚は、時間の堆積の彼方に多少とも風化している。

 「ころがりぬ」には二つの理解の仕方があって、ひとつは目の前にころがっているという取り方、もうひとつはころがってどこかへ行ってしまうという取り方である。いずれにしても心理の喩である。前者であれば現時点で過去を回想しつつの慨嘆にウェイトが置かれ、後者であれば将来へのとらえがたさが余韻として残る。この二つは峻別する必要はなく、前者から後者へと緩やかに渡されていくととらえればよい。五十歳の感慨としてはどちらもふさわしい。毀誉褒貶、紆余曲折の末に、現にここにある自分、そして流れていく自分が「夢の白桃」なのである。先に、一句の構造がギクシャクしていると書いたが、じっくり読むと、過去、現在、未来へと時間軸に沿った感慨の移ろいがあり、一句として一本の芯がある。そのような感慨の流れをつないでいるのは、「白桃」の「白」ではないだろうか。もちろん、この「白」は純白ではない。靄がかかったようなうすぼんやりとした「白」である。「夢」のような回想を、未来の不明瞭へとつないてくれるのは、そのような「白」しかなかったと思われる。「黄桃」ではこの句は成り立たなかった。新子作品には、赤や黒のイメージは多用されているが、白はほとんど使われていない。赤や黒のイメージは若いときのもの、あるいは激情に駆られているときのものであるので、そのような傾向は当然だろう。このような「白」はこの年齢になるまで使えなかったのだ。

 夢かうつつか判然としない淡い背景の中に、ただひとつ明確な像を持った「白桃」がくっきり浮かびがる。

楠本憲吉の句/筑紫磐井

過去は何色冬の朝日はローズ色

第3句集『孤客』より。昭和46年の作品。

憲吉の句を取り上げるにあたって、最も有名な憲吉の代表句集である『隠花植物』は取り上げない。憲吉の本領はこの第1句集で汲み取れないからだ。現代俳句協会の主要幹事として、また「俳句」「俳句研究」の論客として、さらに俳句出版社琅かん(=玉偏に干)堂の責任者として八面六臂の活躍をしていた憲吉だが、昭和37年現代俳句協会から戦中派作家が脱退して俳人協会を設立した事件で両協会から絶縁したことにより、大きく人生が狂う。よりマスコミへの露出度を高めることにより、新しい活躍の分野を見出しながらも、伝統俳句と前衛俳句という対立を深めていった「俳壇」からは阻害されてゆくようになる。これは常に変わらぬ現象であり、最近では、松本恭子とか黛まどかがそうした道を歩いているように思える。

いずれにしろそうした時期をふくんだ句集が『孤客』(昭和26~50年)であり、ドラマティックであるだけに際立って面白い。

昭和31年(34歳)に灘萬代表取締に就任しているから経済的不如意とは関係ないが、文学的野心からの鬱屈は大きいものがあったろうと思われる。伝統俳句にしろ前衛俳句にしろいわば専門家集団として閉鎖的な共同体を形成していたわけだから、ここから脱落した憲吉のゆく道は開放的な大衆路線しかない。憲吉の俳句の醍醐味はそこにある。

短歌や詩がどのように制度化されているかは知らない(俳句の制度化は「結社」により完璧に俳人を拘束している)が、制度のあるところに対しては常に憲吉の俳句は魅力的であろうと感じている。

掲出句、これは歌謡曲調である。才能のある憲吉であるからそれと分かるよう露骨にボロを出すことはないが、こんな俳句もこんな心情も近代俳句は詠んでこなかったと思う。これは俳句でも文学でもないと思われている。しかし、酒と女のまとわりついた生活を俳句的レトリックで詠むとこのようになる。芭蕉の求道も、子規の探究心も、虚子のような陰謀もない、平凡な市民である我々そしてあなたにはぐっとくるのではないか。そして、「ローズ色」こそ、萬葉以来詠まれた最も美しい色ではないかと思ったりする。

赤尾兜子の句/仲寒蝉

黒犬の慟哭崖へ鉄鎖のいなびかり 『蛇』

 第1句集(年代順では2番目)の『蛇』では黒のイメージがよく登場する。例えば「黒犬」の句では掲出句の他にも

黒犬嗤ふ幾万の枯葉ふみつくし

がある。嗤う犬というイメージは深刻な基調のこの句集にあって特異な印象を読む者の心に深く刻み込む。後に述べるように黒犬は作者自身を象徴するものと考えられる。犬に限らぬ「黒」を詠んだ句としては、

梅雨の雷黒眼鏡のみ嗤いこけ
女消えゆくうしろ渦巻く霧黒し
黒蝶やうしろ姿の影ぞわれ
黒き肩ゆすり眠る夜の港は光る埃
ガラスの中の黒い耳帯ひつかく車輪
岬の町の墓砂さらう黒いボロ

また「暗し」「闇」では

世ぞ寒し自棄めく学の下暗く
暗き梯子寡婦のぼりきる真夜の星
闇の彼方蟾は地金の声起す
月死にゆく蟾の背暗し父は病む
雪解溝へ闇透き野鳩狂い出す
暗渠の足音近ずけ嵐に割れる卵
塩暗くからむ髪燈台は燃えるかな

 他に「夜」「影」「鉄」まで含めると「黒」のイメージの言葉は枚挙に暇がない。

 『蛇』の時代が昭和19年から34年と所謂戦中から戦後、高度成長期のピークが訪れる前夜までの暗い時代を扱っているせいもあろう。そう、昭和30年代までは大阪の町の中でも主要な星座が確認できるくらいに夜は暗かった。今ほど電燈も明るくなかった。また社会もまだまだ戦争に敗れた暗さを、復興の苦渋を引きずっていた。さらにこの句集の始まりのあたりで兜子は先に述べた戦前の母の死に次いで父の死を経験する。両親の死は否応もなく兜子の人生に暗い影を落とした。そのことがこの句集の暗さとなって表れていると考えざるを得ない。

 父の死は3章に分けられた『蛇』の第1章に当たる「学問」の終りあたり、「病父抄」と前書のある一連で詠われる。この前書がどこまでを含むのか判然としないが、恐らくは

病む父へ夜がしのびこむ蟾の位置

から

父死して血染の天かわが顔か

までの12句がそうであろう。掲出した黒犬の句はその7句目にある。その次の

毛細管しずかに詰り死んでゆく
は最愛の父の死の瞬間を詠んだにしては真にそっけない。むしろ1句前の黒犬の句の方が「慟哭」と言い、また背景に「いなびかり」を配して劇的に仕立てられている分、父の死を悼む句に相応しい。つまりこの「黒犬」には兜子自身の心が投影されていると読める。

 続く2句は一見父の死と関係ないようだが先に挙げた「父死して」の前に

鉄色のみなぎる海へいなびかり

があり、明らかに掲出句と呼応しているのでここまでを一連と考えるのが順当であろう「鉄」「いなびかり」とイメージが共通している。ただ掲出句では崖に懸かる鉄鎖が詠まれ、この句では「鉄」は黒い色を表す言葉として海を修飾するのみである点が異なる。

犬については次に挙げるような句がこの句集に収録されている。

片目なる犬泪垂り冬旱
犬跳びとび雪にのこさむ貧しき影
日蝕の地へ押し出さる犬の肋
放埓の犬の背寝たり春の坂
雪の鉄柵へ犬の眼急かす孤りの夜

 すべてが作者の分身と言うつもりはないが、その情けない姿に己の心の一部を投影しているのは確かであろう。猫が一度も登場しないことを思うと兜子の犬に対する思い入れは異常なほどである。

 以上「色」の1句として「黒」を詠んだ句を示した。飽くまで『蛇』の時代を象徴する色として「黒」が最も相応しいと考えたのであって他の句集ではその限りではない。

近木圭之介の句/藤田踏青

心に絵の具とり散らしていた

 掲句は「ケイノスケ句抄」所収、昭和39年の作であり<自画像>の1篇。画家でもある圭之介にとって、「色」とは心象風景にとても身近な存在であった。心そのものにパレットナイフで色々な色を直接に塗りたくっている様であり、白い空間と絵の具の凹凸感が心もようの起伏を描き出している。

心に一つの色彩をもち雪の純白         昭和31年作
心 黒い手袋をする              昭和49年作

 同じ<自画像>の中の句であるが、こちらは陰画(ネガ)のごとく、心に印画されている。特に後句は前に述べた「黒」の意識を強く押し出した作品である。この作品については「この黒い手袋の指先に閉じ込められた楕円の闇の実体を引きずりだす行為がその創作の原点だ」と評する者もいた。ちなみに、この作品に先立って下記の圭之介の詩が存在している。

  『黒のある風景』
漆黒の蝶がとんでいた
帯の様な海峡に碇泊している船も黒い
<マストに三角の旗が音もなく上る>
街の上の枯れつくした丘に
黒い手袋のひとがひとりいた

 これは「近木圭之介詩抄」所収、昭和27年の詩である。句と詩作品にある「黒い手袋」の主体は当然、作者自身でもある。鬱屈したものは自己の心だけではなく、蝶や船やそれを取り巻く時代そのものであり、それらを押し隠すごとく「黒い手袋」が一人の人物に貼り付けられている。このモノクロの世界は愛読していた「コクトオ詩抄」(堀口大学・訳)の影響もあり、それがデッサン化したものとも考えられる。コクトウ自身、デッサンに熱中した時代があり、それを彼は<図形による詩>とも称していた。尚、この「コクトオ詩抄」は山頭火が何度も圭之介から借り出して読んでいたそうである。

自画像の顔の不機嫌をまたぬる          昭和30年作
自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく     昭和41年作
私に棲む青いガラス質の一匹です         昭和57年作

 自画像関連の句であるが、「塗る」行為の対象とは時間であり、異物であり、秘すべきもののようでもある。また「青い絵の具」や「青いガラス質」の喩とするところは、詩人としての純粋性と繊細さであろう。そしてその圭之介の一行詩的な傾向は、昭和51年に荻原井泉水が亡くなってから、より一層顕著になったように思われる。それは井泉水の自由律俳句論を受け継ぎつつも、それらを超えて圭之介自身の新たな自由律俳句の展開が始まった事をも意味している。

何処いくんだネ 原野に赤い三輪車        平成6年作
路地裏だ 赤い自転車一つみだら         平成10年作

赤という色にはまがまがしさが漂っているが、赤い三輪車は原野という解放的な未知の人生における端緒を示しており、赤い自転車は結果としての現実世界の帰着点を示しており、共に心象風景の中で展開してゆく圭之介ミステリーでもある。

稲垣きくのの句/土肥あき子

あぢさゐにうづまりて死も瑠璃色か

 『冬濤以後』に所収されているきくの63歳の作である。広辞苑によると瑠璃色とは、紫色を帯びた紺色とある。また他の辞書では、薄青色、深い紫味の青、濃い赤味の青と一定しない。掲句では紫陽花の色としているが、この美しいけれども不安定な、どこか定まらぬ色こそが、きくのの瑠璃なのであろう。瑠璃色については他にも

色鳥の抜羽ひろひぬ瑠璃濃ければ(『冬濤以後』所収)
草の実のるり色燦と枯はじむ(『冬濤以後』所収)
と、きくのはときに手にとり、ひときわ目を留める色であった。

 きくのの随筆集『古日傘』のなかに、「自分の色」というエッセイがある。そこには、自分の身につける服装の色に関して「赤色はむやみに興奮させ、黒色は大声で笑えなくなる、白色は静かに眠って胸の上に両手を組みたくもなる」とユーモアいっぱいに書かれている。続いて「この頃のように明るい色彩の中に溺れていると、何だか軽佻浮薄に流れやすいような気がする」とあり、電車で見かけた海軍士官の制服の紺色を「この紺の美しさは生涯なにかにつけおもい出す色であろう」と締めくくっている。ゆるぎない紺色を「考えても息が弾むような気がする」ほど美しいと思うきくのにとって、瑠璃色とは紺色に近い色として認識していたのだろうか、はたまた大胆で派手なあくどい彩りとして映っていたのだろうか。

 きくのが参加していた「縷紅」昭和17年8月号に35歳のきくのが詠んだ掲句と対となすような句を見つけた。

紫陽花やこころ憂き日は瑠璃濃ゆく

 若く美しいきくのの目に物憂げに映った瑠璃色は、先に引いた30年を経た63歳になっても繰り返し鬱蒼ときくのを責めているのだった。美しく咲き誇る大ぶりの紫陽花の毬に囲まれたとき、そのしずかな潤いのなかに立っていることに目眩のような不安がよぎる。

 きくのが好んだ牡丹にも薔薇にも、その色は存在しない。紫陽花だけが見せる瑠璃色には、美しい紺色を思わせながら、払っても払っても追ってくる死の横顔が貼りついていたのかもしれない。

瑠璃かけす美し老後など欲しくなし(『冬濤以後』所収)

上田五千石の句/しなだしん

火を入れてかへりのみちの螢籠     五千石

 第一句集『田園』所収。昭和38年作。

 この句の自註(*1)には「火を入れてよりはじめて、名実ともに螢籠となる」とある。「火を入れて」、つまり、螢を入れてはじめて「螢籠」であるという明快な句意である。「かえりのみち」からは、とっぷり暗い里の道に、籠の螢の“緑色”の明滅だけが浮かんでくる。

 五千石には多くの「螢」の句がある。特に 『田園』には、「老螢」というおそらく秋の螢のことと思われる句を含め、12句が収められている。『田園』300句弱の句数の割合から見ても非常に多いことが分かるだろう。以下、掲出句を除く11句である。

老螢掌よりこぼせば火を絶ちし
生き残る螢葉隠れ草隠れ
老螢末期の光凝らすなり
朝日出て螢の生死忘れられ
掌中に一殊の螢旅稼ぎ
初螢いづくより火を点じ来し
手を執つて青き螢火握らしむ
見えぬ手がのびて螢の火をさらふ
一螢火高樹に沿ひて昇天す
流水にみちびかれ行く螢狩
老螢わが見れば火を燃やしぬる

 これらの螢の句は、多分に前掛かりな、つまり感情過多の傾向が強いものが多い。それでいてその感情は詩的昇華を遂げているかといえば、ある種の空周りも感じられなくもない。

 ちなみに第二句集『森林』(*2)には次の句がのこる。

初めての螢水より火を生じ   昭和46年
この句について自註に、“「初螢いづくより火を点じ来し」の答えが、ようやく出来た。”と、先の11句の中の1句を挙げている。

 掲句にもどろう。前述のようなやや感情過多の螢の句のなかにあって、掲句はとてもシンプルで、淡々としている。

 螢籠はその言葉の印象からも、それだけでさびしい存在。また、螢籠に捕えられた螢ももちろんさびしいものだが、自由に川辺を舞っていても、螢はそれだけでもの悲しい。

 五千石は『田園』の後書に“省みれば、私の句は全て「さびしさ」に引き出されて成ったようである”と記している。

 私には、掲句の螢火の儚い“緑色”こそが、五千石の「さびしさ」の象徴であるように思えてならない。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 第二句集『森林』 昭和53年 牧羊社刊

三橋敏雄の句/北川美美

鬼赤く戦争はまだつづくなり

三橋敏雄は、戦後の句集『まぼろしの鱶』から『畳の上』まで絶対的「赤」のイメージがある。掲句は『眞神』二句目(『現代俳句全集四』では三句目)に収録されている。実際、「赤」の使用句は、『眞神』6/130(4.6%)、『鷓鴣』6/162(3.7%)と厳選と思える収録数でこの数字である。

霧しづく體内暗く赤くして    『眞神』
産みどめの母より赤く流れ出む
またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

めでたくもあり、恐ろしくもあり、妖艶で興奮の気配ある「赤」。ゴダール映像の中の鮮やかな「赤」、『追憶』のケイティ(B・ストライサンド)の爪の「赤」、血の色のムスタングの「赤」、鮮明な赤色が敏雄句から想起される。

いつせいに柱の燃ゆる都かな   『青の中』『まぼろしの鱶』

燃える炎も赤である。戦場へ赴いた者にとって「赤」のイメージは単なる空想の産物ではありえないだろう。復興を遂げて豊かさを取り戻しつつある目の前の現実が、どこか嘘臭く、「流れる血」「母の胎内」が二重写しのように浮んできたとしても、不思議ではない。

「鬼赤く」の掲句に、白泉と赤黄男の句を思う。

赤く靑く黄いろく黑く戦死せり  渡邊白泉
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 冨澤赤黄男

新興俳句は「青」や「白」にモダンな詩情を託し、「頭の中で白い夏野となってゐる」(高屋窓秋)「少年ありピカソの靑の中に病む」(敏雄)「白の秋シモオヌ・シモンと病む少女」(高篤三)など色の秀句が多い。昭和12年に、渡邊白泉が新興俳句の業績を省みて、「こういう青の俳句に対して、次に誰が赤のリアリズムをつくるか」と言っている。(*1) 青・白そして赤へ。白泉の言葉を引き継ぐように敏雄の赤へのこだわりがうかがえる。

白泉は、色の三原色を合成し黒焦げになり死に絶える人(あるいは、たましい)を句にした。アンディ・ウォーホールがだどたどしい日本語で「アカ、アオ、ミドリ、グンジョーイロ、キレイ」(*2)とテレビを抱えていたCMが戦争を忘れつつある昭和の平和を映し出していたように思えてくる。赤黄男は狂気のような鬼が火を焚くことを句にした。戦争を見たものだけが知る得体の知れない鬼がいる。そして敏雄は、地獄、邪悪、女・・・日本古来からの多様な恐さを持つ鬼が「赤く」なる、それ故に「つづく」戦争。ここでもまた使用されている係助詞「は」。断定・強調の「なり」と対置し、何かは終わったが、戦争はまだ「つづいている」という含みがある。嘘臭い平和は終っても鬼が赤くなる戦争はまだつづく。戦争とは恐いことなのだ。

「赤く」なるとは、紅潮すること、血潮の色である。不思議と三橋晩年の句集『しだらでん』(1996年76歳)に「赤」の文字が入る句が無い。


*1)アサヒグラフ(昭和63年7月増刊号・俳句入門)『昭和はどう詠まれたか』宇多喜代子・川名大対談

*2)TDKビデオテープのCM。1983年製作。プロデューサー:浅葉克己、コピーライター:眞木準(Youtubeにて閲覧

永田耕衣の句/池田瑠那

蹴り伏せて野菊水色なる故郷

野菊の句といえば耕衣の旧師原石鼎に「頂上や殊に野菊の吹かれをり」の名句があり、掲句への影響も意識されるが、ここでは独立した一句として鑑賞したい。

句の主人公は、青年になりつつある少年。力いっぱいに蹴り伏せた一叢の野菊――、それが水色に見えたのは、黄昏時の仄暗さの所為か、野菊の上に落ちた己の影の所為か。「水色の野菊」は、野菊の花の色として一般的に思い浮かべられる薄紫よりも寒色が勝ち、どうにも物寂しい色合いである。

耕衣は6歳時に父母と同居のまま母方の永田家に出され、その後も父母の不仲、年の離れた兄姉との疎遠と、肉親との縁薄い幼児期・少年期を過ごした。20歳で結婚し家を出たのにも、複雑な家庭環境から早く脱け出したいという思いがあったと見られる。

一方で、耕衣の生地兵庫県加古川は自然豊かな土地。さまざまな動植物を身近に育った耕衣少年にとって、野菊はある時までは蹴り伏せる対象ではなく、むしろ寂しさを癒す友のような対象ではなかっただろうか。その野菊を「蹴り伏せる」とは――、故郷、それに繋がる血縁地縁、即ち自ら択ぶことを許されず、先天的・運命的に与えられた、あるいは押し付けられたものへの決別の儀式のように思える。また同時に、野菊の丈に対し「蹴り伏せる」ことが出来る迄になった少年の、身体的成長も思われる。動物の世界にも親別れ・子別れということがあるが、ひとも、一たび決然と「故郷」を蹴り伏せることで、改めて故郷(そして、それにまつわる諸々のしがらみ)と冷静に向き合えるのかも知れない。

所で掲句が収められた『吹毛集』には次の句もある。

夢みて老いて色塗れば野菊である

夢のようなこの世を生き、老いて、その自分の生に色を塗ったなら一もとの野菊となるだろう。一先ずそう読み解いてみたが、この野菊は果たしてどんな色なのだろうか、と考えさせられる。『吹毛集』刊行時、耕衣は55歳、三菱製糸工場を定年退職になった年である。大きな節目を迎えた折に、自身の人生の象徴として思い返す野菊の色は、若き日に荒々しく蹴り伏せた野菊と同じ、寂しい「水色」なのか。あるいはもっと心も身体も幼かった頃の耕衣少年を慰めた、優しい薄紫であるのか。そのどちらでもあり、どちらでもない色なのか。光によって色合いを変える、一片のブルーオパールのような趣を感じる句である。尤も--、そのようにこれこれと判じ難いのが、この夢の世に生きる面白さなのかも知れない。(昭和30年刊『吹毛集』より)

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