戦後俳句を読む(第6回の2) ―テーマ:「色」その他―

―テーマ:「色」その他―

執筆者:飯田冬眞・清水かおり・岡村知昭・堺谷真人・横井理恵・深谷義紀
(戦後俳句史を読む第6回(私性)の1)吉澤久良・筑紫磐井・堀本吟

齋藤玄の句/飯田冬眞

青き踏むより踏みたきは川の艶

色の句を探して全句集収録句を幾度となく逍遥した。2800余の句を行きつ戻りつしているうちに、感覚が麻痺してきた。字面の色を探しているうちに、言葉の作用によって景が立ち上がり、そこに色彩がまとわり付いてくる。ことに、字面には現われないが、季節自体にも色調をあてはめて感受している自分を発見して驚いた。

中国古代の五行説では、色と季節を対応させている。日本の文人もその影響を強く受けて詩歌を残してきた。つまり、春は青、夏は朱(赤)、秋は白、冬は玄(黒)というものだ。熟語にしてみると、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」となり、いずれも季語である。現代においてもなお、色と季節を対応させて世界を認識するという枠組みは、俳句の季語に色濃く残っている。

色の代表句を選ぶということは、その作家を表す季節を選ぶということにもなる。では、われらが齋藤玄を色で表すならば、何色だろうか。真っ先に思い浮かぶのは、俳号に見える「玄」すなわち黒色だ。黒の句といえば、次のもの。

玄冬の鷹鉄片のごときかな 昭和16年作 (*1

一読して、冬空を飛翔する鷹の姿が見えてくる。分厚い雲に覆われた厳寒の冬空は、「玄冬」の語こそふさわしい。作者のうえに重くのしかかる冬空は、戦争に突き進んでいる時代の空気と自身の生活を支配する存在を象徴していると読むことも可能だ。権威、権力、圧力を加える支配者。自己を抑圧するすべてのものの象徴が「玄冬」に託されている。そして「玄冬」に挑むかのように「鷹」は冬空の高みへと向かって飛ぶ。鷹はみるみる小さくなる。まるで鉄の破片のようだ。その小さな「鉄片」が大きな空に突き刺さっているように見えた。小さな鉄片が、凍てついた冬の空を突き破れば、光に満ち溢れた春の青空が広がるだろう。けれども冬の空はいともたやすく鉄片を跳ね返し、何事もなかったかのように作者を見下ろし続ける。

冬空を舞う鷹は、当時27歳の齋藤玄自身の投影だろう。まだ本名の三樹雄を名乗っていた頃だ。空を見上げながら三樹雄は、これまでの人生と自分をとりまく人間たちのことを考えていたに違いない。

昭和13年春、齋藤玄は早稲田大学を卒業した。満州での就職を希望していたが、祖父の強制で函館に帰郷。祖父の斡旋で北海道銀行函館支店に就職。孫の顔を見てから死にたいという祖父の願いに服して、昭和14年1月、25歳で結婚。5歳のときに父を亡くした三樹雄を経済的にも精神的にも支配していたのは、明治後年に函館の地に移り住み、一代で函館市の名士にのし上がった祖父だった。祖父の言いなりになって銀行員として暮らす三樹雄の鬱屈は想像するに難くない。そんな忸怩たる内面を抱えた三樹雄を驚かす事件がその後、相継いで起こる。

15年2月、大学時代、従兄の杉村聖林子に誘われて参加した「京大俳句」が終刊。3月、「京大俳句」で指導を受けた西東三鬼と石橋辰之助が、それぞれ句集『旗』、『家』を刊行。5月、「京大俳句」に誘ってくれた従兄の杉村聖林子と石橋辰之助が京都府警に検挙(第2次 京大俳句事件)。8月、西東三鬼が特高警察に検挙。9月、日独伊三国同盟結成。

そうした世情に呼応するかのように同年10月、26歳の三樹雄は「壺俳句会」を結成し、「壺」を創刊する。「鉄片」として「玄冬」に挑んだのだ。三樹雄は創刊号発刊の言葉として、新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」になると記している。

16年3月、小野蕪子から「壺」主宰を辞任するならば「鶏頭陣」に同人として迎える準備があるという主旨の脅迫めいた手紙が届く。小野は京大俳句事件の黒幕と目される人物で、前年12月に発足した「日本俳句作家協会」の常任理事である。16年6月、長女誕生。句集には「吾子出生 八句」と「赤ん坊(二十二句)」が残る。平穏な日々が続くかに見えたが、国家権力による新興俳句弾圧は、三樹雄にも及んだ。「京大俳句」「天香」で西東三鬼・石橋辰之助らの指導を受けたという理由から函館特高警察や憲兵の来訪をしばしば受け、蔵書を押収された。

「玄冬の鷹鉄片のごときかな」はこうした時代背景のなかで生まれた青年の鬱屈と自由への憧憬に満ちた頌歌である。青春俳句史の一隅に記されてよい佳句といえる。しかし、この頃の玄(三樹雄)は、いまだ五行説の枠組みから出ていない。それは、春を前提としての「玄冬」を斡旋し、眼前の鷹に自己を投影させるという作句姿勢からもあきらかだ。唯一「鷹」を「鉄片」に見立てた比喩がこの句に個性を与えている。

ここで、掲句を見ていこう。
青き踏むより踏みたきは川の艶 昭和50年作 (*2

「青き踏む」は、三月はじめの巳の日(上巳)に青草を踏み、酒宴を催したという中国の風習「踏青」が日本に伝わったもの。墓参の後、桃の花を愛でながら逍遥するさまが唐代の詩に詠まれている。今は三月三日に限らず春の野辺を散策することをいう。

半歳の雪が消えて、蘇った青草は懐かしく美しい。川べりの散策はいつか川面の艶に見せられ、そこへ足を踏み入れたほうが余計愉しいと思った。(*3 自註

この句の一年前(昭和49年3月)、玄は胆嚢炎を患い、滝川市立病院での入院生活を余儀なくされた。このまま死んだら病室の窓から見える春の山を瞼に焼き付けて、あの世に持っていくつもりだった。川べりの青草を踏みしめながら玄の胸中をよぎったのは、一年前のあの想いととともに、生きて歩けることの意味だったのではないか。それが「青き踏む」から読み取ることができる。だが、この句を単なる春の喜びの感懐に終わらせていないのは、季語に寄りかかるのではなく、むしろ季語の枠を乗り越えようとしているところにある。だからこそ「より踏みたきは」と、あえて句またがりにして韻律を崩しているのだ。そこに既成の季語の情趣を打ち破ろうとする意欲を感じる。「川の艶」とは、陽光に反射した川面の光沢をさす。色として知覚する前段階の「光」そのものをとらえた玄の目は、色からも季節からも自由に解き放たれたといえるのではないだろうか。


*1 第1句集『舎木』 昭和17年 北海道俳句作家連盟出版部発行 『齋藤玄全句集』昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

戦後川柳/清水かおり

火の色の小さき法師を浮べけり     泉 淳夫

(1902年~1988年・福岡)

 泉淳夫は九州を代表する川柳作家である。川柳六大家の一人であった椙元紋太(ふぁうすと川柳社)に師事した後、『藍グループ』を創立。「一市井人としての内省ある生きる記録を文芸として純化させるとき、必然のある川柳作品は生れる。」として、高い精神性を帯びた作品を全国から招聘した。泉淳夫を詩性川柳の指標と思う作家は多い。藍グループには片柳哲郎、福島真澄、渡部可奈子らが参加、後に『現代川柳新思潮』の流れができる。

 淳夫自身は自作品について伝統に根付いていると折に触れ語っていたが、その作品世界は詩的な言葉と私性の関係性のレベルを引き上げていくものだった。では淳夫のいう伝統性とは何か。三要素や定型といった狭義な形式に拘るのではなく、作品の客観性を意味していたと思われる。

 掲出句は、泉淳夫の第2句集『風話』に収められている。ここに詠まれた「小さき法師」という言葉は起き上がり小法師を連想させる。何度倒しても起き上がってくるそれは主体の心にある想念のことだろう。それが法師の姿をとるのは崇高な思いの形象化を求めたものだと読める。「浮かべけり」の句語は水に映った火の色を指しているようにもあるいは幻影のような火の色を心に描いているようにも見えて、法師の輪郭が移ろう事象の中に赤々と佇む。ふと、諸国回遊をした西行の姿などもよぎるが、福岡にある西行縁の地を淳夫が訪れたかどうかなどは想像の域を出ない。心に生まれた純粋な想いの焔を見つめている自分という存在に対する作者の詠嘆を込めた「けり」の使用と感じた。

遠い世に白玉という淡いもの
かえ
中天祭りの翻しても蒼いてのひら

 泉淳夫は具象と心象の結ぶところに作品を求めた作家である。「白玉」「祭り」「てのひら」の現実の質感は「遠い世」という時間や「中天」という空間をくぐらせることで白や蒼は心象の色に置き換わり普遍性を獲得している。

青玄系作家の句/岡村知昭

秋の暮行く牛も色減らしをり  林田紀音夫

 林田紀音夫は「青玄」昭和25年(1950)から昭和32年(1957)まで同人として作品を発表しており、上掲句は昭和28年(1953)1月号発表の作品で句集には未収録。この号には代表作である「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」も掲載。この句も含めた1年間の作品により第4回「青玄賞」を受賞している。

 農耕に励む牛か、もしくはモータリゼーション発達前の荷車を引く牛なのであろうか、牛の全身がまるで夕映えに溶け込んでいくかのような雰囲気を漂わせている様子が見て取れる。昼間は滴り落ちる汗もあって光り輝いていた牛の身体はこれでもかと言わんばかりに生命感に溢れていたのだが、夕映えの中の牛の身体はその輝きを次第に失い、風景と一体となっていくかのようである。「色減らし」との的確な措辞によって、溢れんばかりの生命の輝きから遠ざかりつつある牛の姿を鮮明捉えており、一句としての出来には十分なものがある。だが紀音夫がこの一句を句集に入れなかったのは、むしろ出来のよさが自らが求めていたものではなかったからではないだろうか。

柿の色悪しき位牌に見下ろされ

 同じ号に掲載された一句。この句の「悪しき位牌」とは家族や血縁といったものへの憎悪に近い感情の表れであろうか。仏壇に供えられた柿のみずみずしさを位牌たちが吸い取ってしまっているかのようであり、そこには面々と連なり続けた血のつながりから遂に逃れられない自分自身への絶望感すら感じ取れる。

黄と青の赤の雨傘誰から死ぬ

 こちらは昭和32年に発表された紀音夫の代表句のひとつ。一見カラフルな雨の日の街の情景が映し出されているのだが、それぞれの雨傘を差して歩く「誰から」死んでしまうのだろう、との認識は同時に雨傘を見下ろす、もしくは雨傘を差して歩く自分もまた「誰」のひとりとして死んで行くのだろうか、との苦い思いをもたらしてしまう。

引用した2句はどちらも「色」を描きながら、その「色」は自分自身の負の感情によって塗りつぶされてしまう存在でもある。ここには執拗に「色」を塗りつぶす行為によって、自分自身はますます今このときの存在の卑小さを高めていく、との構造が成り立っており、作品は今の卑小さを生きなくてはならない自分自身に突きつけられた刃と化す。

 上掲句に戻ると、牛の「色」は確かに夕映えに失われつつある。しかしその様子はあくまでも風景の中にきちんと収められ、「減らしをり」に込めようとした自らの感情もまた牛の像を塗りつぶすまでには至らない。そこで「秋の暮」の情趣に作品が負けていると考えが浮かんだとしても決して不思議ではないだろう。だから紀音夫は第一句集「風蝕」に「柿の色」「雨傘」の句を選びながら、作品の出来としては良いはずの「秋の暮」の句は選ばなかった。選んだのは今このときを人間として、逃れられない卑小さを抱え込んだまま生きる自分自身のための一句であり、情趣と風景とが一体化する世界に生かされる自分自身のための一句ではなかったのだ。「青玄」での紀音夫はこの自らの志向を確かなものにするべく、さらなる試行錯誤を続けることになるのである。

堀葦男の句/堺谷真人

蝙蝠(かわほり)や入江晩紅さめつくし

 遺句集『過客』(1996年)所収。1986年から1988年、昭和の終焉を目前にして日本経済が空前の活況に沸いていた頃の作品から成る、第2章「海景」の句である。

 僻陬の漁村であろうか。ぎらつく夏の太陽が水平線に没したあともしばらく、海と空は奇蹟のように荘厳な茜色に染まる。岬に黒々と抱かれた入江。とろりと凪いだ海面。きらめく残照。しかし、家々に灯りがともる頃、入江一面に揺曳していた紅は光を失い、夜の闇と溶け合いはじめている。ふと仰げば、夕映えの名残の中、蝙蝠のかそけきシルエットが幾つもひらひらと宙を舞っているのであった。

 葦男は俳句における形容詞の使用に慎重であった。形象性の追求は「物のかたち」を徹底的に観る姿勢となって現れた。色彩表現も例外ではなく、筆者の参加した句会の席では、「赤き○○」「白き△△」「黒き□□」等々、色彩を表す形容詞の限定用法は説明的であるとして退けられた記憶がある。

 一方、葦男の実作を見てゆくと、色彩を名詞、つまり体言として使用する例が目に付く。冒頭の句の「晩紅」がまさしくそうであるが、代表句である「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」をはじめとして、次のような作例には事欠かない。

死の国の黒葉桜のはしばしに 『火づくり』
ぎんなんのさみどりふたつ消さず酌む 『朝空』
川幅を天の黄金冬すすき 『朝空』

 常識的見解に従えば、色彩は重さや固さ、においや温度などと同じく形ある物の属性のひとつである。しかし、色彩語の名詞的用法は、時に色そのものに独特の質感、存在感を賦与することがある。例えば、葦男が生後満3ヶ月の嬰児だった1916年9月18日に夏目漱石がものした七言律詩が参考になるかもしれない。この詩の頸聯「黄は霜に耐え来たりて籬菊乱れ、白は月従(よ)り得て野梅寒し」について、中国文学者の吉川幸次郎は以下のように評している。(

 漢詩における色彩語の効果に敏感な先生は、この聯に至って、ついに、黄の字を、下の句の白従月得の白の字とともに、一句のとっぱじめに置くことに、成功した。

吉川によれば、このような句法は杜甫の「何将軍の山林に遊ぶ」に見える「緑は垂る風に折れし筍、紅は綻ぶ雨に肥ゆる梅」などにもとづくらしい。ここからは筆者の想像に過ぎないが、年少の頃より漢籍に親しんだ葦男が、色彩語の名詞的用法を知らず識らず我が有とし、これを俳句作品に愛用したとしても何ら不思議はない。

 最後に、色彩に関連した造語という問題に触れておきたい。

生(せい)噛みしめる海辺の卓癒着いろの乾果 『火づくり』
怒るアフリカ咽喉いろの雷火立つ 『機械』
身震う牡鹿朝日溢れて楽器いろ 『残山剰水』
ではと別れのガスいろの春ゆうべ 『過客』

パステルには12色、24色、さらに120色といったプロ仕様のものがある。日本語には浅葱(あさぎ)、褐色(かちいろ)、黄檗(きはだ)、黒橡(くろつるばみ)、蘇芳(すおう)など伝統的で典雅な色彩名称がある。だが、それら多種多様な色相、彩度、明度をもってしても、葦男が「癒着いろ」「咽喉いろ」「楽器いろ」「ガスいろ」といった不安定な造語でしか表現し得なかった何ものかに迫ることは恐らく不可能であろう。

ある瞬間の直観的な対象把握とそれに随伴するユニークな情緒や気分。固有で強烈なアクチュアリティを持つ半面、再現性に乏しい何ものかを、それでも葦男はなんとか書きとめようとした。そのとき、ぎりぎりの切羽詰った状況で飛び出したのが「○○いろ」等の造語だったのではないか。それは「意味不明」の謗りと隣り合わせの禁断の裏技であり、葦男俳句の究極の色彩表現であった。


* 『漱石詩注』1978年 岩波新書

中尾寿美子の句/横井 理恵

梅雨深きわが手に赤きねぢまはし      『天沼』

 寿美子の第一句集『天沼』に見られる「色」と言えば、第一に「赤」である。

手の中にある「ねぢまはし」の把手は赤い。梅雨の最中、家の中にこもりがちな日々にあって、手にとった「ねぢまはし」で寿美子は何を締めようとしたのか。

鳥が逃げても飛べない女赤い芥子      『天沼』
椿あまりに紅くて心許されぬ

 これらの「赤」は、「焦燥」の「赤」かもしれない。思うに任せぬいらだちに握りしめる手。逃げた鳥を追えない瞋恚、鮮やかすぎる色彩に身構える心、それらを抱きながら掴んだ「ねぢまはし」である。もしかしたら、何を締めるあてもないのかもしれない。見えない何かを引き締めようとしているのかもしれない。正面を見据え、唇を引き結ぶ寿美子の姿が思い浮かぶ。

 第三句集『草の花』の「赤」の句からは、うつむき加減の寿美子の姿が見えてくる。

囀らず飛べずぽつんと落椿        『草の花』
紅梅の映りて痛き水ならむ
うつし身の足許の花赤のまま

 ぽつんと落ちた赤い椿は私自身だ。だって、囀ることも飛ぶこともできないところが同じだから。あの水ったら、あんなに紅くて心許せぬ梅を映して、きっと痛みを感じているにちがいない。そして、「うつし身の足許」には小さく赤い花がある。これらの「赤」はもう、寿美子の手の中にはなく、こぼれ落ちて足許に点っている。

そんな寿美子が顔を上げると、その視線の先には、この世の色ではない「白」が映る。
婆の死後野の涯にさく白菫        『草の花』
晩年の思ひちらつく白桔梗

 「赤」を手からこぼしてしまった寿美子は、白から目を離さず、我が身を「白」に重ねていく。そして、最後には、未来を予祝する色として、晴々と「白」をうたうようになる。それが、前にも取り上げた

霞草わたくしの忌は晴れてゐよ      『老虎灘』
白髪の種花種に混ぜておく

の二句である。「焦燥」の「赤」を離れ、(「畏れ」の「白」を経て、)「予祝」の「白」へ。

この変遷は、寿美子が悩みつつ、苦しみから目をそらさず、全てを歓びをもって受け止めるに至る道のりを映している。

振り返ってみれば、「紅」と「白」。寿ぐ色を、寿美子は生きたのだろう。

成田千空の句/深谷義紀

雪割ると仄めくみどり鳩の胸

千空作品で最も多い季語は「雪」である。津軽の地に住み、俳句を書き続けた千空だから、その作品を語るうえで雪は大きな存在感を持つ。千空自身、次のように語っている。

「津軽の人間の表現には抜き差しならない風土の影響があります。それは雪ですねえ。津軽は雪国だという宿命があります。」(角川選書「証言・昭和の俳句」)

そして、雪といえば真っ先に思い浮かべる色は一般的には「白」だろう。だが、雪を題材(季語)とする千空の作品に、白という色彩感を前面に押し出したものはあまり多くない。例えば次のような句を読んで、白を感じるだろうか。

降る雪の舞ふ雪となり花となる    「忘年」

そもそも「雪は白い」のだろうか。馬鹿なことを言うなとお叱りを受けそうだが、なかなかどうして、雪という存在は一筋縄ではいかない代物である。

一例をあげれば、前回言及した相馬遷子に次のような句がある。
くろぐろと雪片ひと日空埋む     「山国」

ここで雪は黒いのである。

また千空にも、こんな句がある。

滾々と雪ふる夜空紅きざす      「地霊」

ここで雪は赤くなる。

果たして雪は何色というべきか。敢えて乱暴な言い方をすれば、雪は何色でもない、モノクロームな存在ではないだろうか。

闇に現れ雪に紛るる女の荷      「地霊」

では、千空作品において存在感を発揮する色は何か。最も印象に残るのは緑(「青」を含む)である。

掲句はその代表例である。句集「地霊」に所収。この緑はいわばミクロの緑である。小さな、まだ予兆というべき程度の濃さではあるが、千空はそこに確かな命の息吹あるいはその再生の兆しを発見したのであり、その歓びを率直に表わした。

これに対して、大きなスケールのマクロの緑も登場する。

青山河紙ヒコーキは手より発つ    「忘年」

千空にとってモノクロームの世界に対比すべき色彩が緑なのである。そう考えると、緑は、千空にとって死から生への転回の象徴の色だったのではないだろうか。

そして愛妻への深い愛情を示した句に、次のようなものがある。

夏柑にみどりの小星妻癒えよ      「人日」

戦後俳句史を読む(第6回の1)・・・私性 吉澤・筑紫・堀本鼎談

吉澤:川柳ではもともと私性というものは追求されていなかった。発生的に自分の思いを相手に伝える手段として発達してきた和歌と違って、古川柳は作者個人の名前が必要ではなかった。「母親はもつたいないがだましよい」という古川柳の書き方と、現在のサラリーマン川柳の書き方とは、読者が作者名を気にしなくてよいという点で同じである。サラリーマン川柳だけでなく、大結社の句の多くもそうである。新聞の見出しレベルのものとか、道徳的な教訓とか、そういう句が多い。

筑紫:俳句では、客観写生句と主観句がかなり早くから分化していた(大正初期)。難聴の村上鬼城、吉野に隠棲していた原石鼎、絵師の渡辺水巴などは後者の代表であるし、療養俳句や生活苦を詠み続けた石田波郷系統の作家もこれに次ぐ作家たちである。私小説の影響を受けていた波郷系統の作家は境涯俳句と呼ばれており、たぶん川柳で言う「私性」が強いと思われる。しかし、戦後の俳句はこうした傾向はほとんど無くなっている。私俳句というと、古い境涯俳句と誤解される可能性がある。

春寒やぶつかり歩く盲犬       村上鬼城
生きかはり死にかはりして打つ田かな
冬蜂の死にどころなく歩きけり
桔梗や男も汚れてはならず      石田波郷
綿虫やそこは屍の出で行く門

現代ではこういう境涯性を詠む作家は極めて少ないのではないか。今の関心は、うまさやテクニックである。

秋の淡海かすみ誰にもたよりせず 森澄雄
寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子
うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山実

ほとんどそこに私性がないであろう。

吉澤:川柳では古川柳や狂句から脱して近代的個を獲得するために、明治以降多くの努力がなされてきた。現在でも川柳人は「自分の思いを吐け」と教えられている場合が多いようだ。他の誰でもない、かけがえのない自分自身を確立するためである。しかし、そのことは《作中主体=作者》という構図を強固なものにした。川柳人の読みでは、書かれているのは作者自身の経験であり、思いであると理解されることがほとんどである。句は、その背後の作者の実体験や思いによって保証される。だから、何が書かれているかが関心の大きな部分を占める。その意味で、時実新子は私性川柳として読まれたと想像している(もちろん、新子の評価はそれ以外の面を含めてなされるべきだが)。境涯句ももちろん私性川柳である。

悲しみは遠く遠くに桃をむく   時実新子
別れねばならない人と象を見る
一束の手紙を焼いて軽くなる   
灯台の届かぬ海に置く心
あかつきの梟よりも深く泣く
真夜中の玩具の猿が止まらない

これらの句を、多くの読者は時実新子の体験に裏付けられた時実新子自身の心理と読み、その個人的な悲しみに共感したのだろうと想像している。

筑紫:読者を意識した女性俳句を私は劇場型俳句と呼んでみた(「俳句」7月号大特集<女性俳句のこれから>より「劇場型から深慮まで」)。短歌で言えば与謝野晶子のような初期型の女性俳句に多い。これらは、時実に匹敵する女としての私性(境涯性)があると言ってよいだろうか。

短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてちまおか) 竹下しづの女
汗臭き鈍(のろ)の男の群れに伍す
足袋つぐやノラともならず教師妻         杉田久女
たてとほす男嫌ひの単帯
月光にいのち死にゆく人と寝る          橋本多佳子
雄鹿の前吾もあらあらしき息す
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
体内に君が血流る星座に耐ふ           鈴木しづ子
まぐはひのしづかなるあめ居とりまく
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

吉澤:印象としては前掲の時実の句と同じと感じる。

社会性や女性性という主題主義は、川柳の質の変化というより、《大きな物語の崩壊》という時代の変化によって有効性を失っていった。主題主義が有効性を失ったからといって、川柳では技巧万能主義にはなっていない。大きな主題の代わりに、個々の思いに共感してもらいたい、あるいは共感したいということをポイントにして、書かれたり読まれたりしているからだろう。

筑紫:俳句も、社会性俳句、風土俳句、前衛俳句と主題性をもった俳句が続いたが、昭和年代を持って終焉した。俳句は角川書店の秋山実の戦略により、「結社の時代」(実際は、俳句上達法の時代)に突入し、ほとんどの結社主宰者がこれを受け入れたため、川柳とは違い、技巧・技法万能主義に陥っている(つまり文学性の忌避)。ただし、俳句の本質が実は技巧・技法ではないかという気も多少はしなくはないのである。最も目先の利く俳人楠本健吉は俳句はレトリックであるとも言っている。これは俳句本質論として、慎重に考察してみないといけない問題である。

吉澤:実は、戦後川柳を牽引した中村富二も「川柳に残されたものは技術だけだ」という意味のことを言っている。短詩にとって興味深い問題だと思う。

話を共感に戻すと、この共感というものが曲者である。共感しにくい句(例えば、イメージの句、虚構の句、コトバ自体のつながりや連想などによる句)は、受け入れられにくい。実生活のどこの部分に落とし込めばいいか、わからないからである。多くの場合、難解句として無視される。実生活のどこかに基盤を持たない(あるいは基盤が見つけにくい)、非日常の感覚を題材にした句は共感を得にくい。

筑紫:ここではあえて深く触れないが、季語を入れてしまうとなんとか共感が成り立ってしまうという効果が俳句にあるのは事実だ。全詩歌分野で、最も激しく喧嘩している割には、もっともお互いの共感が近いところにいるのが俳人たちである。季語を使う使わないを問わず、伝統派であっても前衛派であっても芭蕉をはじめとする作家の名句についてはほとんど共感し合っている。

吉澤:さらに、川柳が句会大会を中心として回ってきたという事情がある。選者に取り上げられることを「抜ける」というが、抜けるか抜けないかというオールオアナシングの世界である(選評を言う句会大会はごく一部である。ほとんどは句を読み上げるだけである)。選者の共感を得られない句は日の目を見ることがない。となると、選者にわかってもらえることが優先されるだろう。俳句と比較して、川柳では読者論がより必要ではないかと思われる。句会大会中心主義には一長一短があるが、短所を挙げると、川柳評の発達を促さなかったことと、句集を出すという発想を育てなかったことである。

筑紫:俳句は、結社雑誌の雑詠俳句欄を中心に回っている。句会は、雑詠を補完する修練のための場であり、ここで提出した句も雑詠の主宰選を経ないと認知されない。更に雑詠に投句された句をまとめて最終的に主宰の最終選を経て、句集名を頂いて、序文を賜って、角川の何とかシリーズに入れてもらって、はじめて句集が出来上がる。およそ句集に収録されない名句は存在しない。「戦後俳句を読む」でも必ず句集名が載っているのはこうした理由である。

主宰は1回の句会で句の価値を決定するのではなくて、雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行うので吉澤のいう(大会で)「選者に分かって貰える」という感覚はわかりにくい。選者に(自分の人格を含めて)分かってもらえるから弟子になるのである。あるいは、選者に人格的に没入してその価値観に所属するから所属結社が決まるのである。その意味で結社内でしかわからない句もしばしばある。

吉澤:俳句の句集がそういう経緯でできるとは驚きだった。主宰ということの意味が川柳とは全然違うようだ。先輩に聞くと、30年ほど前は主宰にかなりの力があったようだが、現在では、川柳の結社の主宰にはそういう力はない。自分の句集を出すのに誰かの許可が要るという発想は、川柳にはない。評価にしても、川柳誌で同人作品の選評を外部の人に依頼するということはよくある。「雑詠欄の長い投句傾向の中で人格的評価も含めて行う」ということは、優れた評者を抱えている一部の誌では可能だが、多くの川柳誌では難しくなっているのではないか。また、大会で「抜ける」ことが一つの評価になるが、投句は無記名であり、選は作者名がわからない状態で行なわれるので、一句一句の単独の評価になる。

筑紫:話をもどして女性作家の私性を論ずる際に、時実と対比したく思うのは、「戦後俳句を読む」の中で土肥あき子が取り上げている稲垣きくのである。女優として、20代には東亜キネマ、松竹映画に出演。1937年、大場白水郎の下で投句を開始、戦争で一時中断後、戦後久保田万太郎を師としたという経歴自身、戦後の劇場型女性俳人の代表と言えるかもしれない。土肥あき子の力作鑑賞のおかげで、鈴木真砂女よりはるかに面白い作家として浮かび上がってきている。今まで取り上げられて来た句を見ても、

夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ
つひに子を生まざりし月仰ぐかな
バレンタインデーか中年は傷だらけ
まゆ玉やときにをんなの軽はづみ
牡丹もをんなも玉のいのち張る
先立たる唇きりきりと噛みて寒
噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ
かなかなや生れ直して濃き血欲し

私性(境涯性)は濃厚に現れていると思うが、やはり俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう。俳句にあっては、私性(境涯性)はBGMであり、本質は表現の巧緻さを競っているのである。

例えば、冒頭句の「をんなの盛りいつか過ぎ」では全く昼のメロドラマに堕してしまう内容を、「夏帯や」という季語と切字を配することで芸として昇華させていると見るべきだろう。多くの俳人であれば「をんなの盛りいつか過ぎ」の手柄を20点、「夏帯や」という配合を80点と評価するのではなかろうか。

吉澤:川柳人は「夏帯や」にあまり点を配分しない。ほとんどの川柳人にとっては、どんな思いが書かれているかが関心事であるため、「をんなの盛りいつか過ぎ」という作中主体の感慨に焦点をあてて鑑賞し、評価するだろう。「夏帯や」は、「夏帯をした時の」ぐらいの情況背景と理解する。「夏帯や」の80点がないわけであるから、この句は川柳では平凡な感慨の句となり、評価は高くないだろう。さらに、現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。それも「夏帯や」を評価の対象にできない理由だろう。

あるいは、前掲の「真夜中の玩具の猿が止まらない」の句で、止まらない玩具の猿を心理状態の喩と読むように、「夏帯」とは何の喩であり、何を象徴しているのだろうと考える川柳人は多いかもしれない。

「俳句としての特性ゆえか、季語との配合を配慮し、それによるぎりぎりの抑制を図っていることであろう」という季語による抑制は、もちろん川柳では不可能である。ではどうなるかというと、「一束の手紙を焼いて軽くなる」「灯台の届かぬ海に置く心」「あかつきの梟よりも深く泣く」などのように、一句を私性でストレートに充満させるか、「悲しみは遠く遠くに桃をむく」「別れねばならない人と象を見る」などのように、「桃をむく」「象を見る」のように落としどころを作るか、ということになる。この落としどころとは、問答体の書き方での答えに当たる。こう考えてみると、あまりに当たり前すぎる感想だが、季語の機能の違いだなと改めて感じる。

筑紫:20点、80点の話は私の誇張もあるが、私の言いたいことを典型的に言うとこのようになるのではないかということで書いた。

例えば俳句においては100年も前にこんな議論が行われたことがある。正岡子規の唱道した写生法は、その結果、印象明瞭の句を多く生むようになった。あたかも眼前に実物・実景を見るように感じさせるもので、これを「直叙法」の句と名づけた。直接叙述する、いきいきと表現すると言うことだ。一方、直叙法の反対の描写法を「暗示法」と名づけたが、これは本体を彷彿とさせ、輪廓を描かずして色を出そうとする方法と言えた。暗示法の句は余情余韻に富むと言う。

「直叙法」の句はすでに(子規没後10年ほどで)複雜・精緻に進んで俳句表現において限界にきているが、「暗示法」はまだ複雜にも精緻にも進む余地がある。「暗示法」は特性を指示して本体を彷彿させるから、連想の範囲が広くかつ自由である。我々の心動かされる性格美を直接に叙述しようとすれば多くは「暗示法」になるのである。

これは大須賀乙字という俳人の主張であり、彼は、
赤い椿白い椿と落ちにけり   碧梧桐
若鮎の二手になりて上りけり  子規

の二句を「直叙法」の代表とし、この傾向はもう限界に来ていると判断した。そして

思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐

を「暗示法」とした。ヒヨコと冬薔薇は直接関係ないが、あえかに生まれるヒヨコの可憐さは冬薔薇と対比するとひときわよく浮かび上がる。少なくとも何が何したという「活現法」とは句のふくらみが全く違う。

一読して分かるように、これは必ずしも新しい文学運動の提唱ではなく、正岡子規以降の俳句の変質に関する観察だったが、同時代の人はこれを新傾向運動とよんだのである。

前述のきくのの句で言えば「夏帯や」は季語夏帯の暗示法的利用である。夏帯が何々であるからとは言っていないから「直叙法」ではない。ただ、一句全体をある雰囲気で盛り上げているだろう。

吉澤の議論の中で特に面白いと思ったのは、<現代の生活で帯をする女性、しかもそれをただの帯ではなく「夏帯」と感じられるほど和服を着ている女性がどれほどいるだろうかと、一句を鑑賞する前に思ってしまう。私個人に「夏帯」というものの実感がない。>といっているところである。俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(「戦後俳句を読む」を読んでいる人は夏帯を締めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。

堀本:筑紫&吉澤の両者の議論に触れて、触発されるものがあった。

 川柳で言う「喩」とは、俳句が季語を詩語としてみようとする方法の開拓とはすこし違うようだ。

 全般に、現代俳句は一句全体の喩的効果(詩語化)をもとめて現代詩に近づいている。川柳の「喩」はそう言う意味で現代詩に近くなるのかどうか、そこは未だよくわからない。

 上の両者の応答に即して言うなら、季語論の進み方を見ると、たとえば「夏帯」、この言葉それ自体を独立した言語空間(共感の場)として定式化しようとする志向がある。「季感」もある意味では実感そのものではない、さらに季語の共同性を土台にして「喩性」「象徴性」を季語の概念に加え、そこに架空の関係を想定して行くのである。「夏帯」を季感で見るか、喩的に読むか、どちらに重点を置くか、など、一つの言葉に様々な喩の広がりの機能を与えようとする。その季語空間に取り合わせる(関係づける)別の世界がまた取り合わされてゆく。・・「季語」の言葉として生かし切るならば、季節感を越えた詩的空間を作る方向が出てくる。「季語」という言い方がすでにふさわしくないのかも知れないが、季感のみの概念ではない。筑紫もいうように、このことは昔から反省もされ新しい試みもなされていることである。今では。詩語としての季語という考え方は一般的に受け入れられており。随分柔軟になっている。

 川柳では、「喩」と言う場合、それ以外の言葉や情景に直接的に結びつける用いかたなのだろうか?それとも独自な「川柳喩」というべき詩的言語空間を構想するのだろうか?

 川柳の読み方からして、季語の配分を重くしないという理由は分かる。しかし。逆に、夏に用いる絽とか紗の「帯」だけだと即物的指示性の強いものから引き出す「夏の帯」の日常的イメージばかりでは、色っぽいとか、涼しい、から転じて、例えばエロス性という形にしかおさまらない。でもこれではかえって「夏の帯」が存在感、イメージや意味が固定されてしまう。俳句が「季語」の呪縛を逆手にとって想像世界をふくらませようと試行錯誤しているところを、ともに楽しむ必然性がないのだから、面白くないのは当然である、(もっとも、俳人の中にも、そこまでは季語に固執しない傾向もでてきている。)。俳句では、一物仕立ての俳句にあっても、二句一章の場合ほどは極端にあらわれないが、それでも。「夏帯」が句の中にあるとないとでは、ちがうなあ、というところがあるはずだ。筑紫の例を再見すれが、「暗示法」の発見は俳句の技法に大きな影響があるのではないだろうか?

 吉澤が言うような「川柳の喩」をこれから注意して見てみたいが、他の言葉との喩的な結びつき方、はまだわたしには上手く見えてこない。何かを喩えていたとしても、俳句からというより「詩」としては物足りないと感じることが多い 一応のまとめをしてみると、川柳が「夏帯」を「喩」として考えるあり方と、俳句で季語「夏帯」を「喩」であると概念化する考え方とでは、微妙な違いが出てくるようだ。

 これは、逆に、俳人が川柳の「うがち」とか「滑稽」を、川柳固有の味わいとして取りるときに、川柳固有の歴史性がなかなか摑みにくいゆえに、誉めていても相手は誉められた気がしないらしいことと、よく似てくる。双方の、隣の芝生を誉めたり批評したりする場合に、詩形の性格についての無知無理解が多少とも克服される必要がある。歴史的に積み重ねられてきた川柳の良さを損ねないで。より深遠な世界を表現する技巧の開発をいまなそうとしている、ということなのだろう、と思いたい。

筑紫:俳句が求めているのは明らかに「俳句らしさ」である。俳句が何であるかを決めないで「俳句らしさ」と定義するのもひどいものだが、俳句はそうしたメタ的な定義しかできないものである。季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり、無季俳人は季語を使わないで「俳句らしさ」を獲得しようとする特殊な(お茶目な)一派である。堀本説に関連して言えば、何れにしても「季語」は西洋詩学的な「喩」ではなくて、俳句らしくする道具であるのだろう。「亀鳴く」は絶対比喩にはならない(もちろん、妻の横暴に夫が泣くのは「喩」であるが)。昔からの俳句の道具なのだ。単なる道具だからこそ、その自由さから「暗示法」が成り立つのだろう。

そうすると、川柳は非俳句であるとすれば、「俳句らしさ」を求めない575詩型と定義されることになるだろうか。つまり、詩、短歌と同様詩的論理に従って解釈されるべきものではなかろうか。
だから俳句から川柳を考えるより、詩→川柳→俳句と遠心方的に考えたほうが間違いが少ないように思う。虚子は俳句を「後方文学」としている。俳句はあらゆる文学の中で最も後ろから出てゆく文学なのである。詩、川柳、短歌のように前方にあってはならないという戒めである。

吉澤:堀本の「言葉それ自体を独立した言語空間(共同観念)として定式化への志向があるという気がする」という発言は同感である。俳句には季語という共有財産があって、俳句を書くということは、言い方は悪いが、季語とどう付き合うかということであるような気がする。それは筑紫の「季語とか切字はそうした「俳句らしさ」を保証するものであり」という意見と通底していると感じる。

 季語という共有財産を巡って、肯定であれ、否定であれ(無季自由律がそうなのかと思うが)、それに何を付け加えていくか、という発想が俳句にはあるのではないかという気がする。季語という伝統装置を典型的に象徴するのが歳時記ではないだろうか。一つの季語に対してどう爪跡をつけてきたかという集積が一冊の書物になっている。個々の俳人にとって壁でもあり、スプリングボードでもあったのが季語ではないかと思われる。壁であっても、スプリングボードであっても、俳人は季語と対峙することで多くの佳句を産み出してきたのではないかと思う。自明の壁(もしくはスプリングボード)を持たない川柳人からすると、それが川柳と俳句の違いの最も大きな点の一つかなと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ    定家

定家は「花」も「紅葉」も書かないことで、逆に鮮烈に「花」と「紅葉」を書いた。「花」と「紅葉」の不在は、読者に強烈に「花」と「紅葉」についての想像を刺激することがわかっていたからだ。どのような「活現法」もこのような効果を持つことはできないだろう。ただし、その前提として、「花」と「紅葉」の重要性とイメージが読者に共有されていることが必要である。定家のその仕掛けと、筑紫の「俳人の大半も「夏帯」に川柳作家と同じ実感のなさを感じている(これを読んでいる人は夏帯を占めたことのない人ばかりだ)が、だからこそ頭の中の幻想として(あるいは歳時記の中の知識として)季感や過去の伝統を感じてしまうのだ。」という意見とは、同じ心理構造を言っているのではないか。和歌では季語とは言わないが、季語のような伝統装置が作句の際に働いているのは同じである。そうであれば、その俳句と和歌(短歌といえるかどうか)との類縁性から、川柳は少し離れている。

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